午前零時の予約投稿と、白蛇の落とし物 ——たった一件のコメントが、切れた縁を鳴らした【読み切り短編】

ヒトカケラ。

午前零時の予約投稿と、白蛇の落とし物

 2025年12月31日、午前零時。

 スマホの画面に「公開しました」の文字が出た瞬間、部屋の静けさが一段深くなった気がした。


 ――あと二十四時間で、この一年が終わる。


 カーテンの隙間から見える街灯は、いつもより寒そうな色をしている。私は布団の中で、指先だけを出して通知欄を下へ引っ張った。いいねは、まだゼロ。想定どおりだ。大晦日の真夜中に、誰が物語なんて読む。

 それでも私は、毎月一本、短い話を投稿すると決めていた。干支が巳だと知った一月のはじめ、蛇が古い皮を脱ぐ映像を見て、思ったのだ。


 私も、何かを脱ぎ捨てたい、と。


 私は昼間、印刷会社でカレンダーや年賀状のデータを整える仕事をしている。今年はやたら「巳」の文字や蛇の絵柄を見た。白蛇のイラスト、金色のうろこ、巻きつくリボン。縁起物としては可愛いけれど、私にとって蛇はずっと、別の意味だった。


 父の言葉。


 小学生の頃、父は休日になると私を水族館に連れていった。イルカよりも、カラフルな熱帯魚よりも、私はガラスケースの奥で眠る蛇が好きだった。ときどき水槽の隅に、透けるような皮が落ちている。それを見つけると父は、少し誇らしげに言った。


「脱皮したんだ。大きくなる準備。……みなみも、いずれ脱皮するぞ」


 父が家を出ていったのは、中学に上がる少し前だった。

 理由は、よく知らない。母は「大人の事情」としか言わなかったし、私は聞けなかった。聞いたら、戻ってこないものが確定してしまう気がしたから。

 だから、その言葉だけが宙に浮いたまま、私の中で腐りも乾きもしない。


 今年の一月、引っ越しの段ボールから、古いノートが出てきた。水族館のチケット半券が挟まっていて、ページの隅に子どもの字で「だっぴ」って書いてあった。

 笑った。笑って、なぜか泣きそうになった。

 それで私は、巳年の一年を使って、物語で脱皮の練習をしてみようと思った。


 十二本目。最後の一本。

 タイトルは「脱皮の練習」。書き上げるまでに、何度も途中保存を繰り返した。送信ボタンを押す指の震えが止まらなくて、予約投稿に逃げた。零時に自動で公開される設定にして、私は布団の中に潜り込んだ。逃げでもいい。出してしまえば、この一年は終わる。


 通知が一件、跳ねた。

 心臓が、遅れてドンと鳴る。


『読んだよ。脱皮、できてた』


 たったそれだけ。ユーザー名は「み」。アイコンは、白い蛇のシルエット。

 ――そんな、馬鹿な。


 私のペンネームは「みなみ」。本名の一部。身近な人には見せないつもりで、誰にも教えていない。フォロワーは片手で数えられる程度。コメント欄が動くこと自体、珍しい。

 なのに、その短い言葉は、私の皮膚のいちばん薄いところを撫でてきた。


 脱皮、できてた。


 昔の声が、耳の奥で重なる。


 もう一度、コメント欄を開く。返信欄に指を置いて、止まる。

 何を書けばいい? 「ありがとうございます」? 「どなたですか」? 「お父さんですか」?

 どれも違う。どれも怖い。


 スマホが震えた。今度は、メッセージ。


『白蛇の鈴守が落ちてた。持ち主に返してあげて。場所は――』


 地図リンク。近所の小さな神社の名前。私が子どもの頃、父と通った場所だった。


 ……偶然?

 偶然にしては、出来すぎている。


 私は布団を蹴って起き上がった。部屋の空気がひやりと頬に刺さる。時計は0:07。まだ電車も動いていない時間だ。

 神社までなら、歩いて十五分。夜更かしの散歩だと思えばいい。


 外は、息を吸うだけで胸の奥が冷える。アスファルトが夜露で濡れて、街灯の光をぼんやり映している。コンビニの前で、年越し用の酒やお菓子を買い込む若者たちが笑っていた。私はその輪郭を横目に、手袋の中で指を握る。


 神社の鳥居が見えてきた。こぢんまりとした境内に、しめ縄が張られ、提灯が少し早い正月を告げている。まだ参拝客はいない。社務所の明かりだけが、夜を切り取っていた。


 石段の途中に、確かに小さな鈴が落ちていた。

 白い紐。蛇の形をした小さなお守り。腹のあたりに、ちりん、と澄んだ音の鈴。


 拾い上げると、掌が少しだけ温かくなる。錯覚だ。そう思ったのに、鈴の金属は確かに体温を受けて柔らかくなった。


 社務所の引き戸が、かすかに開いた。

 白い息を吐きながら、年配の宮司さんが顔を出す。私を見ると、驚いたように目を細めた。


「こんな時間に……どうしました」


「あの、落とし物が……」


 私は鈴守を差し出した。宮司さんは受け取り、ふっと笑った。


「白蛇の鈴守ですね。うちの小さな名物です。弁財天さまの使いだとかで、縁結びや金運のお守りとして出してるんですよ」

「持ち主、わかりますか」

「さあ……。でもね、今日の昼に取りに来るって言ってた人がいる。『間に合わなかったら、夜に』とも」


 昼? 私は眉をひそめた。まだ日付が変わったばかりなのに。


 宮司さんは、私の顔を見て何かを察したように、声を落とした。


「あなた……『みなみ』さん?」


 心臓が、今度こそ本気で跳ねた。


「……どうして」

「待ってました。今夜中に渡しておけと頼まれてね。あなたに」


 宮司さんは社務所の中へ戻り、封筒を一つ持ってきた。古い便箋の匂いがする。表に、私の名前が本名で書かれている。筆跡は、見覚えがあるようで、ない。


「差出人の名前は?」

「名乗りませんでした。ただ、こう言っていた。――『巳の年の最後の日に、脱皮した子に渡してください』と」


 私は封筒を受け取った。指先がかじかんで、紙が少し震える。


「その人、いつ来たんですか」

「昨日の夕方。閉める直前。あなたと同じくらいの背丈で、帽子を深くかぶって……顔はよく見えませんでした」

「男の人ですか」

「さあ。声は落ち着いていました。……でも、必死な人の声でもあった」


 必死。

 その言葉だけで、胸の奥の何かが軋む。


 封筒を開けたい。今すぐ読んでしまいたい。でも、ここで読んだら、私の一年の最後の日が、この場で固まってしまう気がした。私は封筒をコートの内側にしまい、頭を下げた。


「ありがとうございます。あの……このお守り、預かってもらえますか。持ち主が来るまで」

「もちろん。……でも、あなたが持っていてもいいんじゃないですか。縁を結ぶって言うし」


 宮司さんは冗談めかして言った。私は笑えなかった。持ち主がいるものを、勝手に持ち続けるのは嫌だった。自分のものじゃない温かさを、掌で握りしめるのは。


 境内を出るとき、鈴の音が一度だけ鳴った気がした。私のコートの内側から。――封筒に、鈴は入っていない。入っているはずがない。


 帰り道、私は歩幅を少し速めた。夜の冷たさが、逆に頭を冴えさせる。部屋に戻ったら、封筒を開けよう。それから、今日一日をどう過ごすか決めよう。


 ——でも、部屋に戻る前に、もう一度だけコメント欄を見た。

 「み」から、追加のメッセージが来ている。


『昼じゃない。夜。23:50。そこで待ってる』


 23:50。

 除夜の鐘が鳴りはじめる少し前。新年まで、あと十分。


 場所は、さっきの神社。


 私はスマホを握りしめたまま、しばらく歩道に立ち尽くした。息が白くなる。通り過ぎる車のタイヤが、濡れた道をしゅる、と撫でる音だけがする。


 行くべきか。

 行って、もし違ったら。

 違ったら……それでも、私はこの一年を終えられるのか。


 母の顔が浮かんだ。毎年、大晦日は二人で年越しそばを食べる。テレビの向こうの賑やかさを、ただの音として受け流しながら、静かに箸を動かす。今年もそうするはずだった。

 でも私は、いつからか、母の「二人で」が苦しかった。母は私の前で、父の話を一切しない。その優しさが、私の中で刃になる。「聞くな」と言われている気がして、私は聞けないまま大人になった。


 もし、父がいるなら。

 今夜だけでも、話ができるなら。


 私は家に戻り、台所の明かりをつけた。冷蔵庫には、買っておいたそばが二人前。母はまだ仕事から戻らない。私は鍋に水を張り、封筒をテーブルの上に置いた。


 開く前に、指先で紙の端をなぞる。そこに、薄く、蛇の鱗みたいな凹凸があった。印刷じゃない。紙の繊維が、誰かの圧で歪んでいる。

 私は仕事でも毎日、紙の上の凹凸を探している。線が潰れていないか、文字が欠けていないか。紙は正直で、押されればへこむ。触れればわかる。

 私の心も、そうならよかったのに。


 封筒を開けた。便箋は一枚。短い文章。飾り気のない字。


『みなみへ

 今年、君の話をずっと読んでいた。

 謝りたい。説明したい。会ってほしい。

 でも、君が嫌なら、それでいい。

 白蛇の鈴守を落としたのは、俺だ。わざとじゃない。

 もし拾ったなら、23:50に神社で待ってる。

 君が来なければ、これが最後だ。

 ——父より』


 最後の一行が、胸に落ちる音がした。

 来なければ、これが最後。


 卑怯だ。そう思うのに、卑怯なほど正直な言葉でもあった。私だって、最後にしたいから一年を締めくくる話を書いたのだ。逃げるために、終わらせるために。

 父も同じなのかもしれない。逃げて、終わらせて、でもどこかで、始めたかった。


 鍋の水が沸くまでの間、私は便箋を握りしめた。紙がくしゃりと鳴る。蛇の皮じゃない。戻れない脱皮じゃない。まだ、握り直せる。


 私は机の引き出しを開けた。そこには、今年の十一本分の原稿を校正した紙束がある。自分の文章をプリントして、赤ペンで直す。仕事の癖が、そのまま創作に移った。

 紙束を指でめくると、パラパラと乾いた音がした。まるで、抜け殻が擦れる音みたいだ。私は一枚だけ抜き取り、端を破いた。捨てるためじゃない。破ることで、ここまで来たことを確かめたかった。


 破れ目は、思ったより綺麗だった。

 蛇の脱皮だって、最初は小さな裂け目から始まるのかもしれない。


 玄関の鍵が回る音がした。母が帰ってきた。


「ただいま。……起きてたの?」

「うん。そば、作ろうと思って」

「寒かったでしょう。手、冷たい」


 母は私の手を取って、両手で包んだ。温かい。いつも、この温かさだけで一年を越えてきた。


「ねえ、お母さん」

「なに」

「……今日、神社に行ってきた」


 母の手が、一瞬だけ固くなる。それでも、すぐに柔らかさを取り戻した。


「お守り、返しに?」

「うん。……落とし物があって」


 私は言葉を探した。父の名前を出すだけで、母の一年も壊れてしまいそうで怖かった。でも、壊れないものなんてない。蛇の皮だって、破れて初めて脱げる。


「……お父さんから、手紙を預かった」

「……そう」


 母は目を閉じた。ため息でも、怒りでもない。長い長い呼吸の終わりに、母は言った。


「行くの?」

「……行きたい。怖いけど」

「そっか」


 母は、台所の隅に掛けてあったマフラーを手に取った。私が高校のときに編んだやつ。毛玉だらけで、正直、格好よくない。


「それ、巻いていきなさい。首が冷えると、泣きやすいから」


 泣くつもりなんてなかった。でも、母の言葉は、私の予防線をあっさり越えた。私は頷いて、マフラーを受け取った。


「……お母さんは、どう思う?」

「どう思う、って?」

「私が会いに行くこと」

 母は少しだけ迷ってから、言った。

「会いに行くのは、あなた。会わないのも、あなた。……ただ、帰っておいで。どっちの答えを持って帰ってきても」


 その言い方が、母らしかった。許すとも許さないとも言わない。でも、私の帰る場所はここだと、先に決めてくれる。


「そばは?」

「二人で食べよう。戻ってきたら、もう一杯作る。……年越しは、何度でもできるから」


 母は笑った。その笑い方が、少しだけ、父に似ていた。


 私は外へ出た。マフラーの毛糸が、首元でちくちくする。昔はそのちくちくが嫌いだったのに、今は「誰かが時間をかけた」証みたいで、頼もしい。


 昼間の街は、いつもより忙しい。スーパーにはかまぼこが積まれ、駅前には帰省のキャリーケースが転がる。私は仕事を休んで、ただ時間をやり過ごした。

 ……と言いたいところだけど、じっとしていられなかった。


 私は部屋の大掃除を始めた。

 ほこりを払って、床を拭いて、古い段ボールを畳む。掃除は、部屋の脱皮だ。いらないものを剥がして、軽くなる。軽くなると、怖さまで剥がれそうで、逆に怖い。


 押し入れの奥から、小さな透明ケースが出てきた。中に入っているのは、薄い皮。父が昔、水族館で拾ってくれた蛇の抜け殻だ。

「持って帰るか?」

 父に聞かれて、私は頷いた。宝物みたいに、ランドセルに入れた。


 ケースを光にかざすと、皮は今も、うろこの模様を保っている。こんなに薄いのに、ちゃんと形がある。

 私はケースをポケットに入れた。今夜、持っていこう。迷信でもなんでもいい。私は今日、つなぎたい。


 夕方、母と一緒にそばを食べた。いつも通りの味。出汁の香り。かまぼこのピンク。母は父の話をしなかったし、私も無理にしなかった。ただ、どちらも知っていることが一つ増えた。それだけで、食卓の空気が少し変わった。


 23:30。私は再び家を出た。今度は、ちゃんと「会いに行く」ために。


 神社へ向かう道は、朝より明るい。あちこちから人が集まってきている。境内には屋台の灯りが点り、甘酒の匂いが漂う。子どもが走り回り、年配の人がゆっくりと石段を上る。みんな「今年の終わり」に向かって歩いている。


 社務所の前に、宮司さんがいた。私を見ると、頷いた。


「来ましたね」

「……はい」

「白蛇の鈴守、持ち主が待ってます」


 宮司さんは、私に鈴守を手渡した。朝と同じ、澄んだ音が鳴る。今度は確かに、私の掌から鳴った。


 時計は23:49。

 私は鈴守を握ったまま、拝殿の横へ回った。そこに、一本の木がある。小学生の頃、父と「一番早くお参りした人が勝ち」と競争したとき、私は転んで膝を擦りむいた。そのとき父は、私を抱えて、この木の下で絆創膏を貼ってくれた。


 木の影に、人が立っていた。

 帽子を深くかぶり、マスクをしている。背丈は、確かに私と同じくらい。肩幅が少し広い。


「……みなみ」


 声でわかった。喉の奥が、熱くなる。


「……お父さん?」


 男は、帽子を取った。マスクを外した。皺が増えた顔。少し痩せた頬。それでも、目だけは昔のままだった。私が水槽の蛇を見つめていたとき、横から同じものを見つめていた目。


「ごめん」


 それだけ言って、父は頭を下げた。深く。長く。雪みたいに、謝罪が静かに積もる。


「……なんで、今さら」

「今さらだ。だから、言葉がない。……でも、今年は巳年だろ。脱皮の年だって、君が書いてた」


 父はポケットからスマホを取り出した。画面には、私の作品ページ。コメント欄に、「み」のアイコンがある。


「読んでたの?」

「ずっと。毎月、零時に更新されるのを待ってた。……予約投稿、してるだろ。君の癖だ」


 癖。私は苦笑した。投稿する直前に怖くなって、予約に逃げる癖。誰にも言ってないはずなのに。


「どうしてわかったの」

「文章で。更新時間で。……君の書く『間』が、昔から変わらないから」


 父は、何か言いかけて、飲み込んだ。その沈黙が、たぶん、父なりの慎重さなのだとわかった。簡単に踏み込めば、また壊す。父も怖いのだ。


 私は鈴守を差し出した。


「これ、落としたんでしょ」

「ああ。……本当は、君に渡すつもりだった」

「なんで」

「白蛇の鈴守は、うちでは『縁を結ぶ』って言われてる。蛇は長いからな。……切れた縁を、もう一度つなぐ」


 そんな迷信、と笑うべきなのに、私は笑えなかった。迷信でもいい。つなぎたいものがあるなら、手段なんて、なんだっていい。


 私はポケットから、透明ケースを取り出した。中の薄い皮が、神社の灯りで淡く光る。


「これ、覚えてる?」

 父は目を見開いた。

「……まだ持ってたのか」

「捨てられなかった。薄いのに、形が残ってるから。……私の中身も、こうだったらいいのにって思ってた」


 父はケースを受け取らず、ただ指先で外側を撫でた。触れない距離が、今の私たちにはちょうどいい。


「中身はな、見えないだけで残る」

 父が言った。

「捨てたつもりでも、残る。だから――」

 父は言葉を探し、そこで止まった。

 私は頷いた。

「……だから、逃げた?」

「逃げた。守ったつもりで、逃げた」


 父の目が、痛そうに細くなる。


「俺が出ていった理由、話したほうがいいか」

 父が言った。

 私は一瞬、息を止めた。

 聞けば、戻れない。昔の私なら、そう思った。


「……全部は、今夜じゃなくていい」

 私は言った。

「でも、逃げた理由を『事情』って言葉にされるのは、もう嫌だ。……いつか、ちゃんと聞く」


 父は何度も頷いた。頷くたび、帽子の影が揺れる。


「ありがとう。……君、強くなったな」

「強くなったんじゃない。薄くなっただけ。皮が」


 自分で言って、少しだけ笑った。父も、やっと笑った。


 拝殿の奥から、鈴の音が重なって聞こえた。除夜の鐘の準備が始まったらしい。人のざわめきが、少しずつ静まっていく。空気が、薄い膜を張る。


 除夜の鐘が鳴り始めた。一打目が、空を揺らす。胸の骨が震える。二打目、三打目。音の波が、境内の人を一つの方向へ流していく。私と父も、その流れに混じった。


 鐘楼の近くで、甘酒を配っている人がいた。母くらいの年の女性が、私たちに紙コップを差し出す。私は礼を言って受け取り、父にも渡した。

 湯気が、白い蛇みたいに立ち上る。


「寒いな」

「うん」

「……君、泣きそうだ」

「泣かない」


 私は強がった。父は笑いそうになって、堪えた。堪えきれずに、目尻が少しだけ上がった。それだけで、私の喉の奥がほどけた。


 百八つ目の鐘が鳴るころ、空の色が少し変わった。夜が、薄く割れていく。人々が「明けましておめでとう」と言い始める。まだ早い。正確には、今からだ。


 スマホの時計が、00:00を指した。


 新しい年が来た。

 巳の年は終わった。

 干支は午に変わった。

 でも、私の「み」は終わらない。


 巳(み)から、未(み)へ。

 同じ音なのに、意味が違う。

 蛇の皮を脱いだあとに残るのは、まだ形になっていない未来だ。


 手の中の鈴守が、ちりん、と鳴った。


「……みなみ」

「なに」

「来てくれて、ありがとう」

「……うん」


 それ以上、言葉は出なかった。出なくてよかった。言葉が足りない夜のほうが、私は好きだ。書くときも、読むときも。


 帰り道、私はふと、気づいた。鈴守の紐が、少しだけほつれている。蛇の頭の部分に、小さな切れ目。

 私は指でそっと撫でた。切れ目の奥に、薄い膜が見える。まるで、脱皮の途中みたいに。


 父が言った。


「それ、直してやろうか」

「自分で直す」

「そっか」


 父は嬉しそうに笑った。私はその笑いを、今度は逃さずに見た。


 家に着くと、母が玄関で待っていた。私を見ると、少しだけ安心した顔をして、父のほうを見る。

 母は驚かなかった。驚かないふりをしていたのかもしれない。でも、驚かなかった。


「おかえり」

 母は私に言って、次に父へ言った。

「……お久しぶり」


 父は深く頭を下げた。母も、同じ角度で頭を下げた。二人の頭が、同じ高さで止まった。その光景が、変に綺麗だった。昔のことも、今のことも、全部その角度に入ってしまうみたいで。


 台所から、出汁の匂いがした。母が鍋を温め直している。三人分のそばが、そこにある。


「年越しは、何度でもできるんだって」

 私は母の言葉を、少しだけ真似して言った。

 母は笑って、頷いた。


 食べる前に、私は裁縫箱を引っ張り出した。毛糸の余り、針、糸。母が隣に座り、父が向かいに座る。三人で、鈴守のほつれを覗き込む。


「糸、これでいい?」

 母が聞く。

「うん。白で」

 私は答える。

「白蛇だしな」

 父が小さく笑う。


 針が布を通る感触は、奇妙に落ち着いた。通して、結んで、引いて、また通す。縁結びは、結局、結び目の数だ。

 最後にきゅっと結ぶと、鈴がちりん、と鳴った。今度の音は、さっきより少しだけ柔らかい。家の灯りのせいかもしれないし、私の耳が変わっただけかもしれない。


 私はスマホを開いた。自分の作品ページ。コメント欄に、新しい通知が一つ。


『来年も、読ませて。——み』


 私は返信欄に、短く打った。


『うん。今度は、逃げないで出す』


 送信ボタンを押す指は、まだ少し震えていた。

 でも、その震えは、寒さだけじゃない。


 蛇が脱皮するとき、痛いのかどうか、私は知らない。

 ただ、皮を脱いだあとの体が、少し敏感になることは想像できる。

 今の私が、たぶんそうだ。


 椀から立つ湯気が、部屋の灯りに透ける。

 私は箸を取り、そばをすくった。

 未(み)のままの明日を、ちゃんと舌で確かめるために。


 ——そうして私は、次の物語の一行目を、もう心の中で書き始めていた。

 新しい年の、最初の脱皮のために。


※本作は生成AIを用いて本文を生成し、作者が編集・調整しています(AI本文利用)。

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午前零時の予約投稿と、白蛇の落とし物 ——たった一件のコメントが、切れた縁を鳴らした【読み切り短編】 ヒトカケラ。 @hitokakera

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