人生の下書き機能

麗妖|文豪パンダ

第1話

 人生には、一度だけ下書き保存が使える。


 それは誰もが知っている常識だった。


 保存した瞬間までの人生は「仮」となり、そこから先はなかったことになる。

 記憶は残る。

 経験も残る。


 ただし、失敗だけが消える。


 私は三十五歳のとき、その機能を使った。


 理由は単純だ。

 人生を壊したからだ。


 会社での判断ミス。

 部下の不正を見抜けなかった責任。

 一気に信用を失い、立場を失い、家族からも距離を置かれた。


 私は「ここまで」を下書きに戻した。


 時点は、二十五歳。

 まだ何者でもなかった頃。


 今度は慎重に生きた。

 目立たず、責任を持たず、判断を避ける。


 昇進の話は断った。

 恋愛は深入りしなかった。

 意見を求められたら、空気に従った。


 失敗しない人生。

 それは、うまくいっているように見えた。


 だが、四十歳で死んだ。


 平均的な寿命より少し早いが、事故でも事件でもない。

 下書きに戻る理由にはならない死だった。


 目を開けると、確認画面が表示された。


「人生を完成稿として保存しますか」


 私はうなずいた。


 結果を見て、私は困惑した。


 人生評価:未完成。


 理由が表示される。


「重要な選択が行われていません」

「人生イベントの発生数が基準値を下回っています」


 係員が言った。


「下書き保存は、やり直しのための機能ではありません」

「完成させるための補助機能です」


 私は抗議した。


 失敗はしなかった。

 大きな間違いもない。


 係員は首を振った。


「あなたは選ばなかった」

「選ばないことを、選び続けました」


 画面が切り替わる。


 人生ログ。


 恋愛:未着手

 責任:回避

 対立:回避

 挑戦:未実行


 私はようやく理解した。


 失敗とは、選んだ結果だ。

 だが、選ばなかった人生は、結果ですらない。


 係員は淡々と告げた。


「この人生は、下書きのまま破棄されます」


 私は慌てた。


 下書きは、もう使えない。

 一度きりの機能だった。


「では、元の人生に戻してください」


 係員は、少しだけ同情するような声で言った。


「元の人生は、あなた自身が消去しました」


 私は、二度目の失敗を犯していた。


 一度目は、間違えたこと。

 二度目は、間違える勇気を失ったこと。


 下書き保存は、便利な機能だ。


 だが、それは、人生を安全にするためのものではない。


 人生を完成させるには、

 必ず失敗が必要だった。


 私は、完成しない人生として処理された。


 失敗よりも、

 選ばなかったことのほうが、

 はるかに致命的だった。

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