第5話:空の上の雑用係


 雲海が果てしなく広がる空の上、飛空艇は風を裂きながら悠然と進んでいた。船体が軋む音に混じって、甲板には怒号が響き渡る。


「おらぁ!!さっさとしねぇかァ!!」


 鬼のような形相の男が喉を震わせて怒鳴った。赤銅色の肌に、丸太のような腕。筋骨隆々のその男の名はオーグ。鬼人族の彼は、どうやら私の“お世話係”らしい。


「はぁいぃ!!」


 私は返事をしながら、飛空艇の床を雑巾で磨く。何往復目だろう。手は痺れ、膝は悲鳴を上げている。それでも、止まるわけにはいかない。


 何でもやりますと宣言したのは他ならぬ私なのだ。


「おはよう。朝から元気だね」


 ふいに、軽やかな声が降ってきた。顔を上げると、黒髪に黒い瞳の青年が、ひょっこりと顔を覗かせていた。フェイさんだ。


「アニキィ!おはようございます!」

「フェイさん!おはようございます!」


 オーグさんは、腰を直角に折り曲げて深々と頭を下げる。どうやらこの船で一番立場が低いのは彼らしい。


 ……今では、その座を私が引き継いでしまったけれど。この船には、もう一人、姿を見せない乗組員がいる。機関室に籠もり、常に船の状態を監視しているらしい。


「おらぁ!ぼさっとしてねェで!!次だァ!次ィ!!」

「は、はい!!」


 オーグの怒号に背を押されるように、アニーは慌てて船室へと飛び込んだ。その背中を見送りながら、フェイとオーグは小声で話し始める。


「……で、アニキ、なんであんなチンチクリンを船に?」

「彼女はレアなロール持ちだよ」

「レアなロールっても、農民っすよね?」

「あははは…知ってたか。ま、メグーの食料確保に困ることはなくなるよ」

「っても、チンチクリンを仲間にする危険の方がでけェと思いますぜ。メグーのこと、バレってるんすよね?」

「うーん」

「アニキ?」

「…姫さんがさ、わざわざ彼女を助けろと俺に命じたんだ。だから、他にも何かあるんだろうね。きっと」

「姉御が…」

「うん」


 2人が会話していると、アニーは船室から顔を出して報告した。


「オ、オオオ、オーグさん!お部屋の掃除、お、終わりました!」

「おせぇぞ!!チンチクリンがァ!!」


「ち、チンチクリン!?」

「あん!?なんだァ?そのツラはぁ?ああんッ!?」


 オーグさんがギロリと目を光らせ、私を威圧するように見下ろす。チンチクリンと言われて不服そうな表情をした私を生意気だと捉えているようだ。


 だが、その瞬間——


「こらーっ!オーグ!おかあさん、いじめちゃダメ!」


 甲高い声とともに、オーグの背後から小さな影が飛び出してきた。


「あ、メグーちゃん!こんなところに来たら危ないよ!」


 私は慌てて彼女を抱き上げる。私たちには手すりがあるから落ちる心配はないけれど、メグーちゃんの小さな体なら、その隙間からすり抜けて、船底の機関室へ落下してしまいかねない。


 私の腕の中で、頬をぷくりと膨らませながら、メグーちゃんはオーグさんを睨みつけている。


「オーグ!めっ!!」

「ちぃ……ガキは苦手だぜェ」


 オーグさんは舌打ちをひとつ残し、諦めたように飛空艇の奥へと引き返していった。その背を、フェイさんが苦笑いで追いかけていく。


 2人の姿が見えなくなると、メグーちゃんは満面の笑みで私の名前を呼ぶ。


「おかあさん!」

「ん?どうしたの?」


「おなか、すいた!」

「そっか、ちょっと待っててね」


 私はメグーちゃんを抱いたまま、すぐ近くの部屋へ入ると、彼女をベッドにそっと下ろした。ここはメグーちゃんの部屋で、隣が私の部屋だ。


 そして、私は手を胸に当て、そっと呟く。


「神の恵みを、赤き果実を……ここに」


 スキルを発動すると、手のひらに真っ赤なリンゴが現れる。これは農民のスキルであり、熟したリンゴを生み出すことができるのだ。


 教会の教義によると、無から何かを生み出すスキルは高位に属するそうだ。だからこそ、農民はレアなロールであり、そのロールを持つ私はなかなかに珍しい存在であった。しかし、このスキルで何でもかんでも生み出せるわけではなく、精々ポーションの材料を生み出すぐらいしか使い道がない。


 ポーションの材料を生み出すぐらいならば、白系統の魔法を覚えた方が効率的だ。もっと言えば、レアでもなんでもない治癒系のスキルを持つロールの方がもっと有用と言えるだろう。珍しいから有用とは限らない。


「わー!」

「今、食べやすいように剥いてあげるから、待っててね」


 私は腰のナイフでリンゴの皮を剥き、食べやすく切り分ける。切ったそばから、メグーちゃんはパクパクと頬張っていく。メグーちゃんが食事する姿を何度か見ているが、未だに、人間が魔物みたいに食事するのが信じられなかった。だが、不思議と、違和感を抱くことはない。


 まるで、食事をしないと死んでしまうことが、どこか当たり前のように感じていた。食事する人間なんて聞いたことも見たこともないはずなのに……


「おいしい?」

「うん!おかあさんのりんご、おいしい!」

「そっか」


 私は彼女の頭を優しく撫でる。メグーちゃんは嬉しそうに目を細めた。


「けェ、餌付けしやがって…………ま、悪くねぇけどな」

「わぁぁぁ!!」


 突然背後から響いたオーグさんの声に、私は思わず悲鳴を上げた。


「驚きすぎだろうがァ!!」


 耳を塞ぎながら怒鳴るオーグ。

 しかし、鬼のような容姿の彼が、何の気配もなく背後に居れば誰でも驚くだろう。


 そして、すぐにメグーちゃんが険しい顔で私たちの間に割って入る。


「オーグ!め!おかあさん、いじめるの、ダメ!!」

「いじめちゃいねェだろうがァ!」


 メグーちゃんは必死にオーグさんの足をペシペシと蹴る。そんな彼女の姿に困惑した表情を浮かべたまま、オーグさんは私に告げる。


「ちくしょう……おう、チンチクリン!」

「な、ななな、なんでしょう、か?」

「船長がお呼びだァ。いくぞ」

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