第4話:冒険をあきらめない


 私の膝の上で、メグーちゃんは小さな寝息を立てていた。銀色の髪が頬にかかり、透き通るような肌が月明かりに照らされて淡く輝いている。その表情は、まるでこの世の喧騒など知らぬかのように穏やかで、まるで時が止まったかのようだった。


 そんな静寂を切り裂くように、私の前に立つ影がひとつ。フェイさんだ。漆黒のコートが揺れ、彼の整った顔立ちが月光に照らされて浮かび上がる。口元には微笑が浮かんでいるのに、その瞳は深い闇を湛え、氷のような冷たさを宿していた。まるで、私の心の奥底まで見透かしているかのような視線に、思わず背筋が凍る。


 そのフェイさんの背後、重厚な木製の机に肘をつき、組んだ手に顎を乗せてこちらを見つめているのはミリアリアさんだった。金色の髪が揺れ、蒼い瞳が静かに私を射抜く。その姿は、まるで海の向こうからやってきた高貴な姫君のようで、ただそこにいるだけで場の空気が引き締まる。


「さて……」


 ミリアリアさんの声は、静かでありながらも、空気を震わせるような重みを持っていた。


「アニー殿。申し訳ないが、事が落ち着くまで、我らと行動を共にしていただきたい」


 その言葉に、私は思わず身を強張らせた。喉が乾き、声がうまく出ない。


「……“事”というのは…あ、えっと、め、メグーちゃんのこと、で、で、ですよね?」

「うむ」


 短く頷くミリアリアさんの声は、どこか遠くから響いてくるようだった。


 メグーちゃんが普通の子ではないことは、私にもわかっていた。けれど、“食事をしないと死んでしまう病気”なんて、聞いたこともない。なのに、彼女は私の目の前で、まるでそれが当然であるかのように、リンゴを口にしていた。あのときの彼女の姿は、どこか人間離れしていて、それでいて、どこまでも自然だった。


 この子のことを誰かに話せば、きっと何か恐ろしいことが起きる。そんな直感が、胸の奥で警鐘を鳴らしていた。


「……私、メグーちゃんのこと、誰にも話しません」


 私は震える声を押し殺しながら、ミリアリアさんの瞳をまっすぐに見つめて言った。こんな幼い子を、誰かに売るような真似は、私には絶対にできない。


「その言葉を、俺たちが素直に信じると?」


 フェイさんの低く、鋭い声が空気を裂いた。彼の瞳が私を射抜く。そこには一片の感情もなく、ただ冷徹な理だけが宿っていた。私はその視線に射すくめられ、言葉を失いそうになる。


「メ、メメメメグーちゃんのことを誰かに、話、しても…わ、私に得なんてない、です」


 私は必死に言葉を紡いだ。感情では通じない。ならば、理屈で応えるしかない。私の声は震えていたが、心の奥では必死に自分を奮い立たせていた。


「アニーさん。貴女に得があるかどうかは関係ない。貴女を利用できると考えた輩が、どう判断し、何をしでかすか。それが重要だ」


 フェイさんの声はさらに鋭さを増し、まるで刃のように私の胸を切り裂いた。私は思わず口をつぐむ。


「まぁ、待て、フェイ」


 ミリアリアさんが静かに手を挙げ、フェイさんを制した。その仕草には、確かな威厳と包容力があった。


「すまないが、アニー殿。これは貴殿の安全のためでもある」

「私の……安全?」

「そうだ。メグーは、少々特殊な少女でな。彼女を利用しようと目論む者たちがいる。奴らは手がかりを得るためなら、どんな手段でも選ばぬだろう。ここまで言えば、貴殿の身にも危険が及ぶことが、想像できるはずだ」


 その言葉に、私は息を呑んだ。まるで、足元の地面が音もなく崩れていくような感覚。私の中の常識が、音を立てて崩れていく。冒険の危険に身を晒した今でも、人と人の危険に身を晒すことはどこか非現実的なことだと捉えていた。


「……話が漠然としていて、わ、わかりません!そ、そんなに…メグーちゃんは特別な存在なんですか?」

「そうだ」


 ミリアリアさんの一言は、重く、そして揺るぎなかった。


「アニー殿」

「はい…?」

「貴殿は“コンテクストマジック”を知っているか?」


 その言葉に、フェイさんが即座に反応した。


「船長!」


 彼の声が鋭く響くが、ミリアリアさんは静かに右手を掲げて彼を制した。


「コンテクストマジック……え、詠唱や魔名を必要としないで、思うままに、魔術を行使できる体系だと、き、聞いたことが、あり、あります」

「その通り。我らが使用する“プロンプトマジック”とは異なる魔術体系だ」


 ミリアリアさんの説明は、まるで古の叙事詩を語る吟遊詩人のようだった。私はその言葉に引き込まれながらも、どこか現実感を失っていく自分を感じていた。


 プロンプトマジックは、詠唱か魔名を用いて魔術を発動する体系だ。

 

 詠唱は、文字通り、魔術詠唱によって回路を構築し、魔術を発動させる方式だ。この方式では、誰が使っても、同じ詠唱なら同じ効果が得られる。


 魔名は、詠唱によって構築した魔術回路に命名し、その名前を唱えることで魔法を発動する方式である。


 詠唱して魔術を発動させるのに比べて、魔名を唱えるだけで済むため、魔法の発動が遥かに簡略化される。しかし、魔名を用いるには適性が必要で、魔力量によって効果も変わり、万人に向いている方式とは言えない。


 そして、魔法は万能ではない。火を灯し、水を生み、風を操ることはできても、死者を蘇らせることはできない。


 だが——


「そして、コンテクストマジックは、事象そのものを意のままに操ることができる。だからこそ、神々の魔術と呼ばれているのだ」

「か、神々の…?」


「うむ……メグーは、そのコンテクストマジックに適性がある」


 私は膝の上の少女を見下ろした。彼女の寝顔は、あまりにも無垢で、あまりにも静かだった。


「フェイ。我はアニー殿に、協力を願いたいのだ」

「協力……ですか?」


 フェイさんの視線が私に突き刺さる。私はその視線から逃げたくなった。けれど、逃げてはいけないと、どこかで思っていた。


「ど、どうして……わ、私なんかに協力を?」

「メグーが、そこまで人に懐いたのは初めてだ」


 その言葉に、私は息を呑んだ。ミリアリアさんの瞳が、どこか寂しげに揺れていた。


「それに、アニー殿、貴殿のロールは農民であったな」

「は、はい…」

「メグーには食料が必要だ。だからこそ、農民のロールを持つ者を探していたのだ」

「わ、私は…ポーションの材料になりそうな、り、リンゴぐらいしか…その…生み出せません」

「構わん」


「リ、リンゴのためなんかに…私…を?」

「十分だ。メグーはリンゴが大好物だ。我らの旅は長い。時にはメグーの食料がなかなか確保できぬ事態となるかもしれん。メグーのためにも貴殿の力が必要なのだ」


 私は、胸の奥で何かが弾けるのを感じた。恐怖、不安、戸惑い——それでも、私はこの出会いを、冒険の始まりを、諦めたくなかった。


「……わ、わかりました!わ、私は…最初から…そ、その」

「その?」

「な、仲間にしてほしかったの…で!わ、私を…仲間にしてくださ…ひゃい!!ぼ、冒険の夢を…あきらめたくないです!!」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る