【小話】地方怪談噺
廃棄物13号
第1話 『五里霧中』
霧の夜というのは、景色が見えなくなるだけの話ではない。
見えていたはずの“距離”や“境界”が、いつの間にかほどけている。こちらが気づく前に、足元の確かさだけが薄くなる。
彼から久しぶりに連絡が来たのは、冬の終わり、街に薄い靄が降りた晩だった。窓の外の街灯は光の粒を丸くにじませ、遠い信号は色を失って白く霞み、空気に湿り気が混じっていた。たかが霧。そう片づけられる程度の薄さなのに、胸の奥へ湿り気が染み込んでくるような感じがして、私は妙に落ち着かなかった。
電話口の彼は、言葉が少なかった。
「……いまから、来てくれないか」
理由を聞こうとした瞬間、向こうが先に続けた。
「笑わないで聞いてほしい。帰ってきたのに、帰ってきた気がしない」
そんな言い方があるのかと思った。けれど彼の声は冗談の温度ではなかった。からかう余地がないほど、薄く、乾いた息が混じっていた。
彼の部屋へ向かう道は、普段なら迷う余地がない。けれどその夜は、交差点を曲がるたび同じ看板が少し角度を変えて現れるような錯覚があった。距離が伸びたり縮んだりする。歩幅がふいに頼りなくなり、私はスマホの地図を見ないことにした。画面に頼った瞬間、自分の感覚のほうがほどける気がしたからだ。
チャイムを押すと、すぐに鍵の音がしてドアが開いた。
彼は濡れた上着を着たままで、髪の先に細かい水滴が残っていた。顔色が悪いというより、血が薄い。部屋の中は暖房が効いているのに、玄関に立っただけで、湿った土と古い木の匂いがした。
「……来てくれて助かった」
普段は飄々としている彼の口から、助かったなんて言葉が出たこと自体が、もう異様だった。
カップに熱い湯を注ぎ、彼はテーブルの端に座り込んだ。手が震えている。寒さからの震えではない。何かを確認するように、何も持っていない手を見つめながら、ぼんやりと確かめているようだった。
彼は一度、深く息を吐いた後に躊躇うように話し始める。
「……話す。今のうちに。時間が経つと、俺の中で“道”がほどける」
私は頷いて、黙って耳を澄ませた。
彼は言葉が増えることを嫌がっているようだった。余計な言葉を足すと、それがどこかへ届いてしまう、そんな怯え方だった。
彼曰く、その日は彼の実家がある山間の町へ帰っていた。用事を片づけ、駅に戻ったのは夕方を過ぎてから。山は暗くなるのが早い。ホームに立つと、冷えた空気が肺の奥を刺し、遠くの森が大きな影になって見えた。
最後のバスは既に出ていて、駅前にタクシーはいなかった。駅舎の灯りが背中を温めるようで、外へ出るのが億劫になる。けれど実家まで歩けない距離ではない。町から山裾に沿って伸びる旧道を、四十分ほど歩けば着く。
彼はそこで、父の声を思い出す。幼い頃、祖父の葬儀で親戚が集まった夜のことだ。座敷のざわめきの外へ、父に庭先へ連れ出された。闇が深く、山から湿った風が降りてきていた。
彼の父は煙草を吸いながら、淡々とした声で言った。
「――霧が出たら、山道は歩くな。
歩くなら、道を選ぶな。
分かれがあっても、近道を探すな。
それから、名前を呼ばれても返事をするな。」
子どもだった彼は、怖い話の前振りだと思って半分笑いながら聞いた。けれど父の言い方には、怖がらせる芝居の匂いがなかった。知っている人間の言い方だった。
彼の父はさらに続けた。
「――霧は目を塞ぐんじゃない。境目を溶かす。
道と道の境、人と人の境、こっちとあっちの境。
境目が溶けたところでは、声が転ぶ。
「助けて」も「おいで」も、同じ口から出る。
昔、“五里霧中”って呼ばれた夜があった。
五里先が見えないって意味じゃない。五里の間、帰れないって意味だ。」
駅前でその言葉を思い出し、彼は苦笑いしたという。馬鹿な、と言い切れない感じが胸の奥に残ったまま、結局彼は歩き出した。
最初のうちは普通の夜道だった。舗装はされているが道幅は狭く、片側は田んぼ、片側は用水路。街灯は間隔が広く、光の届かない部分は闇が厚い。濡れたアスファルトが靴底に吸い付いて、ザッ、ザッ、と鈍い音を立てる。
霧が出始めたのは、集落を抜けて山裾へ入る手前だった。
いきなり白い壁になるのではない。空気が少しずつ重くなる。湿り気が増え、吐く息が目の前でほどけて消える。街灯の光が丸くにじみ、その丸がゆっくり大きく広がっていく。降るというより、どこかから染み出してくるような白さだった。
霧が濃くなるにつれて、音が一枚消えた。
山の夜には、川の水音や、木の葉が擦れる音や、遠い獣の気配が混じっている。けれど霧がそれらを吸い、世界から“背景”だけを奪う。代わりに残るのは、自分の音だけだ。
足音。衣擦れ。呼吸。
世界が、自分の身体の周りだけに縮む。
彼がいちばん嫌だったのは、その縮み方だったという。見えないことではない。世界が小さくなることが怖い。小さくなった外側で何が起きても、気づけないからだ。
彼は、子どもの頃の目印を探した。
道の脇に並ぶ小さな地蔵がある。赤い前掛けの褪せたもの。そこを過ぎれば次の街灯までまっすぐだ。子どもの頃、その前で転んで膝を擦りむいた。痛みの記憶は場所に刺さる。
だが霧の中で、その地蔵が見つからなかった。
あるはずのものが、あるべきところにない。
それだけで胸の底に穴が開く。穴が開くと、人はそこへ意味を流し込みたくなる。けれど霧の中で意味を足すのは危険だ。彼はそれを分かっていながら、足が止まった。
スマホを取り出すと、地図の青い点がふらついた。道の上にいるのか、田んぼの中にいるのかさえ曖昧だった。
そのとき、遠くで声がした。
はっきりとは聞こえない。霧に擦れて、音の輪郭が削られている。
しかし人の声だ、人の声という形だけが分かった。
――……だい……じょ……。
「大丈夫」と聞こえた。
それが怖かった、と彼は言った。霧の中で“ちょうど欲しい言葉”が来るとき、人の心は勝手に傾く。こちらが欲しがっていた、と悟られるのが怖い。悟られた瞬間、そこが入口になる。
声は続いた。少し近い。
――……こっ……。
「こっち」と聞こえた。
彼の身体が勝手にその方向へ半歩寄りかけた。耳が意味を当てはめ、足が従ってしまう。霧は、こちらの判断より先に、身体の癖を使う。
彼は息を大きく吸い込みそうになり、慌てて抑えた。父の言葉が胸の中で反射した。
――返事をするな。名前を呼ばれても返事をするな。
歩き出した。止まっていると世界がさらに縮む気がした。歩きながら、彼は自分の頭の中で“境界”を作り直そうとした。地蔵があって、その次の街灯があって、その先に分かれ道があって――。境界は、心を落ち着かせる。境界がある限り、道は道でいられる。
だが霧は、その境界にさえ触ってくる。
やがて分かれ道が現れた。普段なら何でもない分岐だ。右へ行けば集落の裏、左へ行けば峠の方へ続く。けれど霧の中の分岐は、口を開けているように見えた。道が二本に裂け、白い空気がそこへ吸い込まれていく。
彼が迷った瞬間、声が“はっきり”した。
――こっち。
声は右の道から。湿っているのに冷たい声だった。
彼は背筋がぞわりとした。霧の中の“はっきり”は、こちらの都合に合わせて作られる。だからこそ怖い。
声は続いた。今度は、彼の名前に触れかけた。
――……お……え……。
彼の喉が勝手に震えた。返事はしない、と決めても、喉は反射で応答の形を作る。返事は言葉だけじゃない。喉の動き、呼吸の変化、目線の揺れ――そういう“揺らぎ”も返事になる。霧はそれを拾う。
彼は右ではない方へ――左へ入った。理由は、父の「道を選ぶな」を逆手に取ったからだ。選ばされそうになった側ではない方へ行く。近道を探さない。自分の都合を挟まない。そういう消極的な選び方が、霧の中では最後の意志になる。
左へ入ると道は緩い上りになり、街灯は途切れ、森の影が濃くなる。霧はさらに厚くなり、白が身体の周りに巻き付くようになった。
そこで、匂いが混じった。
線香の匂い。湿った土と古い木の匂いの中に、薄い甘さと焦げが混ざる。
寺や神社で嗅ぐ匂いだ。
この先にそんな場所があっただろうか。記憶にはない。けれど匂いは確かにあって、霧と一緒に鼻の奥へ入り込む。匂いは、見えないものを現実にしてしまう。彼は、その匂いを“なかったこと”にできなかった。
白の中に、黒い影が立ち上がっる。
鳥居だった。
木の鳥居。塗りは剥げ、表面は水を含んで黒い。注連縄は細く、紙垂はほとんど残っていない。鳥居の向こうは、霧がさらに濃く、参道らしきものだけが“続いている”ように見えた。見えないはずの奥が、続いている、と分かる。そこが怖い。霧の中で、道が意志を持ったように見える。
鳥居を見た瞬間、胸の奥で昔の記憶が鳴った。
小さな神社。石段の冷たさ。手水の水の匂い。狛犬の欠けた耳。
そして、誰かと遊んだ。
はっきり思い出せない。顔も声の主も名前も。
ただ、笑い声だけが残っている。自分の笑い声と混じる、もう一つの笑い声。
「こっちだよ」と言う軽い声。「見つけた」と笑う近い声。
その残骸が、鳥居の前で息を吹き返す。
霧の中で子どもの足音がした気がした。石を踏む乾いた音。枝が擦れる音。
そして、今度は本当に聞こえた。
――あそぼ。
幼い声。
さっきの冷たい声とは違う。親しみがある。懐かしさがある。
懐かしさは恐怖より強い。人は懐かしさのためなら境目をまたぐ。
彼は一歩、鳥居へ近づきかけた。
そのとき、先ほどの“はっきりしない声”が、遠くで擦れた。
――……だめ……。
たったそれだけ。はっきり聞こえないのに、意味だけは刺さる。彼は足を止めた。
鳥居の向こうから、幼い声が少し苛立ちを混ぜた。
――こっち、こっち。
――寒いでしょ。あったかいよ。
その「あったかい」が、彼の身体の芯に触れた。霧の冷えは皮膚だけではない。心の薄い部分を冷やしてくる。そこへ「あったかい」と言われると、身体が勝手に傾く。
彼は唇を噛み、息を浅くした。息を深く吸い込んだら、そのまま連れていかれる気がした。
足音が近づいた。ザリ、ザリ、と砂利を踏む音。霧の中を、誰かが迷わず歩いてくる。
白の中から現れたのは、人影だった。背丈は彼と同じくらい――のはずなのに、近づいても距離が詰まらない。影だけが濃くなり、輪郭ははっきりしないまま、位置だけが定まる。外套のようなものを羽織っているのが見えた。濡れているのに水が落ちる気配がない。袖口や裾が霧と同じ質で、ほどけたり戻ったりする。
ただ、顔だけは終始こちらへ正面を向けなかった。見ようとすると、視線が一拍遅れて霧の薄い方へ逃げる。こちらの目が届かない、というより、“届かせない”作法を知っているようだった。
それでも声だけは、はっきり届いた。
「……入るな」
それは慰めでも脅しでもない。掲示板の注意書きみたいに、ただ必要な文言だけが落ちた。彼が「あなたは」と聞き返すと、相手は一度だけ小さく首を振った。名を渡さない、という拒み方ではなく、言葉を増やさない、という抑え方だった。
「名は要らない」
少し間を置いて、続いた。
「……どうしても呼ぶなら、“案内人”でいい」
案内人。役割だけの呼び名。名を固定しないための呼び名。霧の中で、本当の名前を渡さないためだろうか。
彼は、その呼び名の冷たさに救われた気がしたという。余計な情が入らない。情が入れば、懐かしさが入る。懐かしさが入れば、鳥居の向こうへ足が向く。
案内人は鳥居を見ないまま言った。
「霧の日、あそこは“道”になる。
道になるってのは、行けるって意味じゃない。戻れなくなるって意味だ」
彼は『神社がここに…』と言いかけて飲み込んだ。口に出した瞬間、それが“当然”になってしまう気がしたからだ。霧の怖さは、見えないものが現れることではない。言葉にした瞬間、それが最初からそこにあった顔をすることだ。
案内人は彼の手元を見た。
「手、開け」
彼は自分の拳が握りしめられていることに気づいた。いつから握っていたのか分からない。拳を開くと、掌に小さな紙片があった。濡れた和紙のような白。拾った覚えはない。なのに掌の熱で少し温かく、妙に馴染んでいた。
案内人は言った。
「それ、しるべだ。握れ。離すな、決して」
しるべ、という言葉が重く落ちた。紙片はただの紙なのに、握った瞬間だけ、ここがここである、と手の中で決まる気がした。
案内人は続けた。
「息を深く吸うな。返事をするな。名を呼ぶな」
三つとも同じ調子だった。忠告というより、古くからある決まりごとを読み上げているようだった。彼が何か尋ねようと口を開きかけると、案内人は言葉を足さずに、ただ首を振った。“拒む”のではなく、“増やさない”。言葉を増やすと霧がそれを拾って道標にする――そう知っている身振りだった。
案内人は鳥居とは反対の暗い方を指した。
「行け。まっすぐ。
分かれが出ても曲がるな。止まるな。
鈴が聞こえたら、その鈴を頼れ。
……ただし、鳥居の鈴は聞くな」
彼が『あなたも』と言いかけると、案内人は首を振った。
「俺はここまで」
理由も正体も言わない。言えばそこに形がつく。形がつけば、霧が触りやすくなる。案内人は、そういうことを知っているように見えた。
彼は紙片を強く握り、鳥居に背を向けて歩き出した。背後から幼い声が追ってくる。
――まだ遊べるよ。
――こっちのほうが、さみしくないよ。
さみしくない。その言葉が、彼の胸の薄い部分を撫でた。霧は恐怖より先に、孤独を嗅ぐ。孤独を嗅ぐと、優しさの匂いをまとって近づいてくる。“怖いもの”として現れたら逃げられる。“懐かしいもの”として現れるから、足が止まる。
彼は歩ける限界の速さで歩いた。走らない。走れば転ぶ。転べば地面に触れる。地面に触れたら、ここに縫い付けられる気がした。派手な怖さではない。静かに、じわじわと“こっちへ寄せる”怖さだった。
しばらく歩くと、また分かれ道が出た。そして、また声がした。
――こっち。
今度は左から。さっきは右からだった。声が道に合わせて位置を変える。つまり声は道端に立っているのではない。こちらの迷いに合わせて、先回りしている。
それに気づいた瞬間、彼の中で連鎖が一本につながった。
――地蔵が消えた。声が出た。
――分かれ道が現れた。匂いがした。
――鳥居が立った。懐かしさが湧いた。
そして今、声が“正解”の顔で先回りする。
一つ一つは偶然に見えるのに、つながると偶然ではなくなる。つながった瞬間、人は怖くなる。つながったものが“こちらを見ている”気がするからだ。
それは同時に、線香の匂いがまだ口の中に残っていることに気づいた。離れたはずなのに残る。残ったものが次を呼ぶ。彼は紙片を握りしめ、喉の震えを抑えた。
そのとき、鈴の音が混じった。
――チリン。
小さく、乾いた音。鳥居の鈴のように空気を揺らさない。誰かが手の中で鳴らしたような、控えめな音。音の方向が不思議と分かった。前の方、道の先から。霧が濃いのに、音だけはまっすぐ刺さる。
そして、あの“はっきりしない声”も同じ方向から擦れて届いた。
――……そのまま……。
――……すめ……。
命令ではない。導きだった。誘う声は余白を奪う。選択肢を一本に絞って押し込む。助ける声は余白を残す。こちらの足を尊重する。彼はその違いを、言葉ではなく皮膚で掴んだという。
彼は鈴の方向へ、まっすぐ歩いた。背後の幼い声が遠ざからない。遠ざからないのに、確実に薄くなる。薄くなるというより、紙の裏へ回るように、存在の仕方が変わる。
――なんで……。
――だめ……こっち……。
泣くような声に変わった。泣き声は人の心を引く。けれど霧の泣き声は、涙の温度がない。湿って冷たい。彼は振り返らなかった。
しばらくすると霧が少し薄れ、道の縁を示すガードレールが見えた。遠くに民家の灯りが一つだけ浮かぶ。生活の灯り。
それが見えた瞬間、彼はようやく息を吐いた。
――帰れる。
そう思った、その瞬間が危なかったと彼は言う。安心した途端、心が緩む。緩んだところへ霧が触る。その“触り方”が、次の音として来た。
――ゴォン。
重い鈴の音。鳥居の鈴だった。聞くなと言われたものほど、耳は拾ってしまう。耳が拾うと、心が反応する。心が反応すると、足が一瞬止まる。その一瞬が、霧にとっては十分だ。
音に合わせて、幼い声が笑った。
――またね。
その「またね」は別れの言葉ではなかった。続きの約束だった。帰してやる、という気まぐれの宣告みたいに、軽く言われた。
彼は灯りの方へ歩き続け、集落の端に出る。霧は嘘のように薄くなり、田んぼの水面が街灯を映しているのが見えた。現実が戻る。戻るほど逆に怖くなる。さっきまでの白い世界が、最初から存在しなかったみたいに消えていくからだ。
彼はそこで初めて、自分の手が空っぽなのに、まだ何かを握っている気がすることに気づいた。紙片はいつの間にかポケットに入っていた。入れた記憶はない。“入れた”という結果だけが抜けている。
帰り道がつながっていない――彼が電話で言ったのは、こういうことだったのだろうか。
その夜、彼は実家へ戻らず、町のビジネスホテルに泊まった。帰れば安心できるはずなのに、帰るのが怖かった。家の玄関をくぐる行為が、霧の続きと結びつく気がしたからだ。
ホテルの部屋に入り、靴を脱ぎ、手を洗い、ベッドに腰を下ろしたとき。
掌がむず痒かった。握っていたはずの感触が消えない。何も持っていない手を見つめると、そこだけ少し白く見えた。霧の白さではない。皮膚の白さが薄くなる、という感じだった。
夜中、鈴が鳴った。
――チリン。チリン。
目が覚めるほど大きくはない。夢の中に混じる程度の小ささ。けれど夢の中で、鳥居が現れた。あの鳥居。鳥居の向こうで子どもの声が笑う。
――あそぼ。
――続き、しよ。
彼は夢の中で返事をしそうになり、舌を噛んだ。噛んだ痛みが現実に残った。夢なのに跡が残る。跡が残る夢は、夢の顔をした何かだ。
――ざんねん。
――次は、きっと。
翌朝、彼は父に電話をした。父はしばらく黙ってから、短く言った。
「……鈴、聞いたか」
彼が言葉に詰まると、父は続けた。
「助ける声は、はっきり喋れない。はっきりさせたら取られるからだ。
はっきりした声は、だいたい向こうのものだと思え」
それから父は、最後にこう言った。
「忘れろ。
忘れろ、じゃない。忘れたふりをしろ。
思い出すほど、向こうは“続きを持ってくる”。
……それと、お前、喉が震えたろ」
彼は答えられなかった。たしかに震えた。返事はしなかった。けれど喉は返事の形を作りかけた。
――霧は、その“かけた”を覚える。
ここまで話して、彼はようやくカップに口をつけた。湯気が鼻先に当たっても、彼の呼吸は浅いままだった。私は何か言うべきだと思いながら、言葉が見つからなかった。軽い慰めは、彼の中でまだ湿っているものに触れてしまう気がした。
彼はぽつりと言った。
「……帰ってきたのに、俺の中にまだ“向こうの存在”が残ってる」
その言い方が、妙に現実的で怖かった。幽霊を見た、という話より、生活の中の境界が少しずつ狂う話の方が、人の背中を冷やす。
「手、さっきから……」
私が視線で示すと、彼は自分の手を見た。震えは収まっていない。彼は何も持っていない掌を、確かめるように眺め続けた。
「握ってた感触が消えない。紙は、まだある」
彼はポケットから小さな和紙を出した。墨で線のようなものが引かれているだけで、文字はない。お守りらしさもない。
ただ、触るとわずかにざらつき、湿り気を拒むように乾いている。
「これが……しるべ」
彼はそれ以上説明しなかった。説明できないのだろう。説明した瞬間、それが“意味”になってしまうからかもしれない。意味になったものは、何かの呼び水になる?
「あぁ、少しよくなったよ。今日はありがとう」
その後、いくつかありふれた世間話をし彼の調子が戻ったのを確認した私は変えることにした。
私が帰る支度を始めると、彼は玄関まで見送りにきてくれる。廊下に出ると、さっき感じた湿った土と古い木の匂いが、まだ鼻の奥に残っていた。彼の部屋の匂いなのか、話の匂いなのか、区別がつかない。区別がつかないことが、いちばん嫌だった。
ドアの前で、彼が小さく言った。
「……振り返るな。今夜は特に、だ」
私は頷いて、返事の代わりに手を上げた。彼の忠告が、父の忠告と同じ形をしていたからだ。階段を降り、外へ出ると、街の霧はまだ薄く残っていた。街灯の光が丸く滲む。
ただの霧だ。天気だ。そう言える程度。それでも私は、歩きながら耳を澄ませてしまった。
チリン、とどこかで小さく鳴った気がした。気のせいだと思うには、音が妙に“こちらの呼吸の間”にぴたりとはまった。私は息を浅くし、足を止めなかった。
翌日、彼から短いメッセージが来た。
『今朝、玄関に泥が落ちてた。俺の靴は洗ったのに……』
『それと、しばらく自分の名前を声に出さないことにする』
救われたのか、と聞かれたら。たぶん彼は「助かった」と答えるだろう。けれどその答えの中に、もう一つ別の答えが混じる。
――助かったのに、終わっていない。
――帰ってきたのに、どこかがまだ戻っていない。
【小話】地方怪談噺 廃棄物13号 @soushi2192
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