初めて家出した僕が出会ったのは家出11回目の彼女だった

えうの むとさ

第1話


 初めて家出した日の夜は少し肌寒く、けれど星がきれいな夜だった。

 行く当てもなく途方に暮れていたところ、なんとなく、公園に行こうと思った。だから僕は近所からは少し離れた公園へと足を運んだ。

 田んぼに囲まれるようにして作られた、こじんまりとしている公園だ。

 普段から人がいないその公園には、こんな深夜にはもちろん誰もいないはずだった。

 だから、先客がキイキイとブランコを漕いでいる姿に、僕は心底驚いた。

 目に映ったのは透き通ったような白皙の肌。それとは対照的な漆黒の髪は肩までストレートに下ろされていた。

 モデルみたいな凛とした目つきは大人っぽい。しかし高くも低くもない鼻と少し小ぶりな唇からは子供っぽさを感じる。

 一瞬、頭がぼーっとして、


「君は?」


 気が付けば後ろから声を掛けていた。

 彼女は、足でズズズっとブレーキをかけて止まった後、僕の方を振り返った。

 だから、僕は彼女の顔を正面から見ることとなった。

 そして彼女は少しだけ困った顔をしてこう言ったのだ。


「んーーー。まぁ隣、座り座りなよ」




「ちょうど話し相手がほしいなーと思ってたんだー」

「……僕は……誰もいない方が良かったよ」

「まぁまぁ、そう言わずにさ。おしゃべりしようよ」

「あの、普通こんな夜中に知らない人から声をかけられたら怖いと思うんだけど、君は平気なの?」

「うん。だって君子供じゃん」

「こど…………」


 ぱっと見、同い年くらいに見えるけど。

 

「それで、なんで君はこんな深夜に出歩いてるの?」

「それは……いえない」

「家出だ?」

「…………」

「沈黙は図星のサインだよ」


 図星だった。

 なんとなく長話しになりそうな気がしたから、僕は彼女の隣のブランコに座った。


「そういう君も、家出でしょ?」  

「……まぁね」


 僕がそう問うと、彼女は少しぎこちなく応えた。

 

 

「で君は何歳なの?」

「出会ったばかりの女の子に年齢を聞くなんて、君、嫌われるよ」

「それはもっと大人の女性の話だろ」


 少なくとも彼女は制服を着ていて、学生であることは確かだ。

 

「今年で17だよ。君は?」

「……今年で16」

「へぇ。やっぱり、私がお姉さんだ?」

「…………年齢だけで考えればね」

「あれれ? 敬語は?」


 彼女はいたずらっぽく、僕をからかってくる。

 

「同じ家出仲間じゃないか。敬語なんて堅苦しいと思ってさ」

「まあ、それでいいよー」


 あらためて、彼女の顔の半分を見る。

 僕よりも少しだけ大人っぽい…………ような気がしなくもない。


「君も、ブランコこぎなよ。気持ちいよ」

「僕は……いいよ。そんな気分じゃないし」


 彼女は多分変な人だ。

 

「家出したのは、今回が初めて?」


 僕は静かに頷く。


「なら、私がいろいろと教えてあげよう」


 まるで、彼女は何回も経験があるような口ぶりだ。


「先輩になんでも訊きなさい」


 と、彼女は胸を張る。

 沈黙も気まずい。仕方がないので質問してあげる。


「じゃあ、質問。もし雨が降ったらどうするの?」

「あそこの橋の下で過ごすかな」

「冬場は?」

「ダンポールに包まって寝ると暖かいんだー。人類はもっとダンポールの偉大さを知るべきだよ」

「食べ物はどうしてるの?」

「またに無料配布があってね。それで……」

「まるで浮浪者だ」

「ひどい! 私は家出少女ですっ」


 彼女は右の頬だけを膨らませて怒る。

 

 

「そういう君は、何回目なの?」

「私は……」


 そこで言葉をためて、ブランコがてっぺんに到達した瞬間、彼女は言った。


「11回目、だよ」

 

 淡々とした彼女の言葉に思わず胸がどきりと音を立てた。予想外の回数だったからだ。もっと2回とか、あって3回、くらいだと思っていた。

 11回。

 彼女の口ぶりからして初めてではないことは明らかだったが、まさかそんなに多いとは思っていなかった。

 しかし、そんな重大なことなのに、目の前の彼女はケロリと平気そうな顔をしている。 

 だから僕も決して顔には出さず、最大限平然を装う。


「君はなんで家出したの? 理由を聞かせてよ」


 彼女はブランコをこぐスピードを緩めず、すぐにそう問いかけてきた。まるで自分の話には関わらない方がいい、と伝えているみたいだった。


「出会ったばかりの人にする話じゃないでしょ」

「同じ家出仲間の、しかも、私はプロフェッショナルだよ。聞き手としては十分でしょ。それに、夜はまだまだ長いんだし暇つぶしに、ね」

「まあ、確かに」


 こういうのは案外何も知らない他人の方が話しやすいのかもしれない。



「親と、喧嘩したんだ。僕の親は、少し過保護っていうか、僕のプライバシーとか選択に対して過度に干渉してくる節があるんだ。これといったきっかけとかはなくて、なんていうか、長期的に不満とストレスが積み重なったって感じ。今日も僕の成績が下がったってことで1時間くらい『将来どうするんだ』とか『このままじゃ……』とかごちゃごちゃ言われて、それが嫌になって、積もってたものも爆発して、家を出てきた。そんな子供みたいな理由だよ」


 僕が話し終わると、彼女はしばらく沈黙していた。

 静かな夜には、周期的に揺れるブランコの音だけが響いていた。

 やがて、彼女が口を開く。


「子供みたいな理由だって分かってるなら、どうして帰らないの?」

「これは、一種のストライキなんだ。話し合いでどうにもならないのなら、行動で示すしかない。とりあえず、今日はここで夜を明かすつもりだ」


 彼女は小さく『そう』と呟いた。

 それから、続ける。


「君の両親の話をもっと聞かせてよ。嫌だったこととか、嬉しかったこととか」


 なぜだろう。

 普段ならしない話も、彼女の前でならすらすらと話すことができた。

 僕は心の奥に溜まっていたものを全て吐き出すように打ち明けた。

 彼女は『うん、うん』と適度に相槌を打ちながら、僕の話を丁寧に聞いていた。聞き手として、彼女は上手だった。だから僕もいつもより感情をさらけ出せたような気がする。

 やがて僕が話し終わると、彼女はゆっくりとブランコを止めた。


「やっぱり、君は家に帰るべきだよ」


 彼女は遠くの夜空をみつめながら、そう言った。


「僕の話、聞いてた?」

「うん。聞いて、そう思った。君はやっぱり愛されてる」

「なんで分かるの?」

「うーん。逆に私が愛されていないからかな」

「…………」


 そういう自虐はやめてほしい。どう反応すればいいのか分からない。

 

「僕は今ストライキ中なんだ」

「それも大事だけど、もう十分伝わってると思う。今頃、両親も君を一生懸命探しまわってるんじゃないかな? だから、見つからないようにこんな遠い公園にまできたんでしょ?」

「…………」

「ほらね」

 

 僕の方を見てくる彼女に、心の内を悟られたくなくて、すぐに目をそらす。


「きっと君の両親も言い過ぎたことを後悔してる。そして、おそらく君も、家出したことを後悔してる。お互いに後悔し合っているのに仲直りしないのは、きっと悲しいよ」


 その言葉に胸が痛む。

 彼女は、正しい。


「これで君の両親も、今までより君の気持ちを考えるようになったと思う。それは、君が家出を決意したからだ。でもこれ以上両親を心配させるのは良くない」


 彼女にそう言われ、心の奥に隠れていた罪悪感が顔を出した。

 僕にも非があったように思えてくる。


「でも大切なのは、その後の仲直りだよ」

「……」

 

 仲直り。

 その言葉を頭の中で反芻した。


「気持ちの整理ができるまでは、ここにいてよ」


 彼女は、優しかった。


「君に相談してよかったかも」

「それはどうも」


 心の中にあったモヤモヤが少しだけ晴れた気がする。

 誰かに相談するだけで、気持ちが軽くなるというのは本当のことなんだろう。


「5キロほど体重が減った気分だ」

「ダイエット成功だね」


 はあ、と大きなため息が口からこぼれる。

 冷静になって考えてみると、自分もまだまだ子供だなと実感する。

 大人になったと勘違いしていた自分が馬鹿らしくなった。


「家に帰って、ちゃんと謝るよ」

「うん。それでよし」


 彼女は親指を立てて、手でグッドサインを作りながらそう言った。


「ありがとう」

「どういたしまして」

 

『だてに、11回も家出してませんから』と、彼女は冗談めかしくそう言った。

 その言葉で、思い出す。

 そうだ。

 自分のことだけで頭がいっぱいになっていたけれど、僕が帰ったら、彼女はどうなるのだろう?

 

 まだ、大きな問題が残っていた。

 彼女は僕の話を聞いてくれたのだから、今度は僕が彼女の話を聞いてあげる番だ。

 だが、そこには踏み込めなかった。

 なぜなら、彼女が抱えているのは、きっと僕なんかでは背負いきれない大きな問題だから。

 

 顔の左半分を大きなガーゼで覆っている彼女の事情。

 それが、ただのケガであるならば、僕もこんなふうには考えなかった。

 

 顔の左顔面を覆う分厚いガーゼ、そして、11回の家出。

 それが意味する答えが、僕は震えるほどに怖かった。

 

 たとえば。

 そう。

 あくまで、たとえばの話。


 大抵の人間は右利きで、そして右手で人間の顔面を殴れば、ちょうどあんなふうに顔の左側だけを怪我することになる、とか――――――。


 怖くなって、だから、僕は彼女に家出した理由を訊けなかった。


 彼女は、また、顔の左半分を隠すように、ブランコをこぐ。


「僕が帰ったら、君はどうなるの?」


 それが、唯一、僕の口から出た言葉だった。

 

「私は……ほら、11回目だから」


 慣れている、のだろうか。

 

 「今日はここにいるよ」


 彼女は11回の経験から、自分は今、何をすべきなのかを理解している。そんな彼女が『帰らない』という選択をしたのであれば、おそらくそれが最善なのだろう。

 


「じゃあ」


 と、僕は立ち上がった。


「うん。ばいばい」


 と、彼女は言う。


「それと、もうここに来ちゃダメだよ」


 そのまま、僕は逃げるように公園を後にした。

 結局、16歳の、まだまだ子供でちっぽけな自分には、彼女を助けることなんて、できはしないのだ。

 










 


「約束、破るのが早いよ」


 別れてから十分もしない内に、コンビニで買った袋をぶら下げて公園に戻ってきた僕を見て、彼女はそう言った。


「まっすぐ家に帰るとは言ってない」

「でも、公園には戻ってきた」

「見て。まだ公園の敷地には足を踏み入れてない」

「屁理屈だ」

「ちゃんと家には帰るから。両親にも連絡はしたし」

 

 彼女は『はぁ』と、子供のささいないたずらに呆れるみたいに、ため息をついた。


 「今日は、ここで夜を過ごすんでしょ? なら、差し入れをしようと思って」

 「そんな……」


 僕は袋ごと彼女に差し出す。


「お金は……」

「いいよ。相談に乗ってくれたお礼」


 彼女は申し訳なさそうにそれを受け取った。

 

「とりあえず、必要になりそうなものは全部買ってきたから」

「こんないっぱい、悪いよ」

「いいって」

「でも……」

「気にしなくていいって」

「それは……」

「『こんくらいじゃ、たりねえよ』くらいに思ってればいいんだよ」

「こんくらいじゃたりねえよ!」

「実際に言う奴があるかっ」


 彼女は表情を崩して、楽しそうに笑った。


「あはは。ごめんね。すごくうれしい。ありがとう」


 その言葉だけで、やってよかったという気になる。


「今度こそ、本当に帰るんだよ」

「うん。分かってる」

「それじゃあね」


 最後にもう一度『ありがとう』と言った彼女を尻目に、僕は帰路に就いた。

 これで少しでも彼女の助けになれただろうか。

 

 

 

 

「やあ」

「また来たんだ……」


 翌日。

 学校が終わった後、僕はまたあの公園に立ち寄っていた。


「昨日はありがとう」

「それは、こちらこそ」


 彼女は昨日とは違い、公園に設置されてあるベンチに座っていた。

 相変わらず、顔の半分は見えない。

 僕は彼女の隣に腰を下ろす。


「それで、両親とはどうなったの」

「まぁ、ハッピーエンドってところかな。両親も謝ってくれたし、僕も反省してる。しっかり話し合って、お互い……」

「それはよかった」

 

 僕の言葉を遮るように、彼女は言葉を重ねた。それが、少しうらやましそうに、少し嫉妬しているように見えた。

 彼女も、少し間違えたという顔をした。僕は全然気にしていない、という顔をする。

 


「それで、今日はどんな悩み?」

「悩みがないと、この公園にきちゃいけないの?」

「悩みがないと、君がここに来る理由がないでしょ」

「単純に公園で遊びたくなったんだ」

「そんな柄じゃないくせに」

「こう見えて、いつまでも童心を忘れたくないタイプなんだ」

「そう」


 彼女はそれ以上言及してこなかった。


「今日は何してたの?」

「ずっとここにいたよ」

「学校は?」

「休んだよ。流石にこの顔じゃあね」


 痛々しいまでの分厚いガーゼを指しながら、彼女は言う。

 それから、彼女は公園での暇つぶし方法を嬉しそうに僕に語った。

 僕は静かに聴いているだけだった。


 1時間ほど、そうしていただろうか。

 ふと見上げると、空の半分が赤く染まっていることに気づく。

 

「さ、君はそろそろ帰る時間だよ」


 『君は』

 その言葉で、僕は拳にぐっと力をこめ勢いよく立ち上がった。

 彼女はやっぱり今日も帰るつもりはないらしい。



 「だから君は、どうなるの」

 

 僕は少し怒りを込めて言った。昨日、彼女を残して自分だけ家に帰ったことを後悔していたからだ。

 


「私は……今日もここで過ごす、かな」

「じゃあ僕もここにいるよ」

「それはだめ。君には帰る場所がある」


 まるで、自分にはないみたいに、彼女は言う。

 

「それは君にもあるはずだ」

「ないよ」

「ある」

「ないってば」


 僕は感情的になっていた。

 だから、自分には到底助けられないと分かっていてもお節介を焼いてしまうのだ。

 

「じゃあ、君はどうなるの? このまま一生この公園で過ごすってわけにもいかないでしょ? それに――――――」



 

「暴力を振るわれる場所が、私の帰る場所だっていうの?」

「?!」


 

 急に浴びせられた冷たい口調に、思わず凍えてしまいそうな寒気がして、本当にそれが彼女の口から放たれた言葉なのかと確認するために、僕は彼女の方に振り向いた。


「変な正義感で、私の事情に関わろうとしないでよ。そういうの、迷惑だから」


 どこまでも僕を突き放すように、はっきりと彼女は言った。


「……でも」

「じゃあ、何? 君は私のことを救えるの?」

「それは…………」


 今までの彼女からは考えられないような冷たい目をしてした。

 僕は言葉を詰まらせて、押し黙るしかなかった。

 助ける。それはきっとできない。

 僕が沈黙していると彼女はまくしたてるように続ける。


「私と君は、名前も知らない赤の他人だよ。無視すればいいんだよ。確かに私は昨日、君を助けたのかもしれない。それは私には君の話を聞いてあげられると思ったから。けど、君の場合はどうなの? 私の事情を受け止められるの? そのうえで、同情して助けてくれるの? 助けられるの? できないよね。できないことをやろうとしないでよ。そういうの嬉しくないから」


 自分の考えの浅はかさが悔しかった。自分には彼女のことを救えないと分かっていたのに、けれど、放ってはおけなくてお節介をかけて結果的に彼女を傷付けてしまった。


「賢い君になら分かるでしょ? もう、関わってこないで」


 それだけ伝え終わると、彼女は逃げるように公園から出ていった。 

 どんよりとした雲は、空全体をどこまでも覆っていた。

 公園には僕だけが一人残された。

 僕は歯を食いしばることしかできなかった。

 僕には彼女を助けることなんてできない。その事実が僕の胸を締め付けていた。

  





 翌日。 


「サンドイッチを買ってきたから一緒に食べようよ」

「…………」

「はい、一つあげる」

「…………」

「あれ? もしかして苦手だった?」

「…………」

「でも、お腹空いてるでしょ?少しでも食べた方がいいよ」

「ねぇ、なんで君は昨日あんな別れ方をしたのに、今日もひょうひょうとした顔でこの公園に来られるの……」

「まあ、…………バカだから?」

「…………私が間違ってたのかも」


 彼女は怒るというより、完全に呆れた様子で、はぁと深いため息をついた。そんな彼女に僕は無理やりサンドイッチを手渡す。


「……おいしい」

「それはよかった」

 

 僕もサンドイッチを頬張る。


「で、今日は何の用?」

「君を助けようと思ってさ」

「………………君本当にバカだね。一番触れづらい話題じゃないの?」

「触れづらいからって、触れなきゃいけない話題だってあるんだよ」

「だからって、君が責任を感じる必要なんてないよ。君は何もしなくていいんだよ。私なんてほっといて、学校で友達と楽しく遊んでたらいいんだよ」

「でも、僕は君に救われたんだ。だから、恩を返したい」

「別に私は君を救ってない。君が勝手に助かっただけだよ。私はその手助けをしたまで」

「そんなことを言われても、僕の気持ちは変わらないよ」

「………………」


 

 僕のめげなさに彼女も怒るのを諦めていた。

 

「………………ありがとう。その気持ちは凄く嬉しい。けど、本当に君には何もできないんだよ。今まで思いつくことは全部やったの。でも、何も変わらなかった」

「…………」

「1回目は両親が喧嘩した時。雰囲気が悪くて家にいたくなくって飛び出したのが初めて。2回目は両親が離婚した時。お母さんに引き取られた。優しかったけど段々ヒステリックになってきて、暴言や暴力もそこから始まったの。3回目は学校で嫌なことがあった時。あの家庭とは関わるなって学校の親同士で噂が広まったみたい。それでどこにも私の居場所がなくなったの。4回目は……なんだったかな、もう覚えてないや………………」


 どこまで悲しそうに、彼女は語る。

 

「具体的な考えはあるの? 何をすればいいか分かってるの? 何もできないでしょ、君には」


 

 僕に何も言わせず、まくしたてるように、彼女は言葉を続ける。

 

「別に、君をせめてるんじゃないよ。むしろ感謝してる。私がこんなに突き放しても君は何度も私の所に来てくれた。そんなひと今までいなかったから、だから、凄く嬉しいよ」


 強い言葉を言ったからその後、褒め言葉も並べておこうーーーという感じではなかった。

 その言葉は彼女の本心だと思う。


「だから、友達でいようよ。今日あったことを話して、笑い合って、時々遊ぶ、そういう普通の友達。でも、お互い深掘りは禁止。ほら、いくら仲がいい友達にだって知られたくないことや、探られたくないことってあるじゃない? だからそういうことには触れないようにしてさ。お互いうまいこと付き合っていこうよ」


  

 彼女のその言葉に逃げてしまえば楽なのだろう。僕のなかにある罪悪感も正義感も、時間が経てばなくなっていくかもしれない。

 だけど…………


「じゃあ決まりね。あ、そういえば、私たちまだお互いの名前も知らなかったね。私は――――――」


 このままだと彼女は救われない。

 きっと顔の怪我も治らない。

 何も解決しない。


 けど…………

 僕に何ができるのだろうか。

 ただの、どこにでもいるような16歳の子供だ。ちっぽけで、無力で、一人の女の子を救うことさえできない。

 でも。

 それでも何か言わなければ。そんな気持ちが強まって頭を必死に動かして、それで口から出た言葉は自分でも驚くような単語だった。

 

「…………空手」

「え?」


 自分自身、何を言ったのか分からなかった。咄嗟に口から出た言葉だった。でも、それがきっと彼女の助けになると、そう思えた。

 

「か、空手だよ!! そうだ、それだ!!」

「え? ちょっと、どういうこと? 急に」


 彼女は目を丸くして、本当に理解できないという顔をしていた。


「確かに、僕には君は救えない。だから、空手を習おうよ! 君が、強くなればいいんだよ! 誰も手出しできないくらいに強くなれば……もちろんそれですべてが解決するとは思えない。思えないけど、せめて、暴力はなくなるかもしれない。自分より強い奴に暴力を振るおうなんて気にはならないだろ! だから、空手!!」


 彼女は予想外の意見に頭が混乱しているようだった。それでも、僕はまだ、言葉を続ける。


「親戚に空手を教えている人がいるんだ。その人に事情を話せばきっと大丈夫だよ。僕も一緒に――――」


 そこまで言った時、彼女は今まで溜め込んでいたものを全部吐き出すかのように、勢いよく笑った。

 そんなにおかしなことを言っただろうか。でも彼女の今までで一番の笑顔を見れて少し嬉しかった。

 やがてひとしきり笑った後、彼女は落ち着いたようだ。

 

 

「あーーー面白かった。何それ……。空手って……。やばいっまた笑いそう…………」

「僕は、真剣だったんだけど……」

「それは分かってるよ。だから、面白いんだって。まさか空手ってっ…………強くなればいいってっ……流石にそれは私も考えたことなかったよ」

「う…………」


 恥ずかしさで、顔が熱くなった。そんな僕を彼女は『ふふっ』とまた軽く笑ってから、何か納得したように空を見た。

 

「でも、うん。やってみたいな、空手」

「ほ、ほんとに!?」

「うん。何か変わるかもしれないし、変わらなくても君と一緒に――――――」

「じゃあ、今すぐ行こう!」

「え?! ちょっ……」


 僕は彼女の手を取って走り出した。


「さ、流石に急すぎない?」

「善は急げだ」

「ふふっ、まぁ、いっか」


 彼女と一緒に公園から飛び出す。結局のところ、僕は漫画の中のヒーローみたいに、ヒロインの女の子を自分の力だけで助けることなんてできない。けれどそれがその人を助けない理由にはならない。


「あーあ。なんだが楽しくなってきちゃった」

「きっと楽しくなるよ。これから」

「ふふっ。期待しとくね」


 

 本当に大切なことは彼女自身が変わること。僕はその手助けができればそれでいいのだ。

 





  

 

「私、君のこと好きになっちゃうかも」


 

小さい声で呟かれたその言葉は、しかし、確実に僕の耳に届いていた。






 



 

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