天国鳩と、その魔法
伊藤なむあひ
天国鳩と、その魔法
「鳩だけ好きです」
彼女は名前も名乗らず、鳩のようなまん丸の目といやにハキハキとした喋り方でそう自己紹介をした。ラボに響き渡る機械音声みたいなイントネーションが印象的だった。それが彼女との出会いだ。
苗字にサン付けで所長に呼ばれ、嫌な予感がするなとおそるおそる行ってみると、もちろん的中。私は彼女の助手に任命された。私自身の研究はどうなるのかと抗議する間もなく、私以上に優秀な人間により完璧な引継ぎを提示され、私はその命令に従わざるを得なかった。
彼女の研究内容は鳩の巣作りについてだという。一般的に研究者というのは、その研究が社会に接続され、いずれなにかしらの経済効果を生むことが必要だ。少なくとも私はそう理解し研究者という矛盾を孕んだ職業を続けてきた。ただ彼女は、そこに当て嵌まらないだけの条件を満たしていたのだろう。
私の興味は二つあった。ひとつは、鳩の巣作りについての研究がいったい何に繋がるのかということ。もうひとつは、彼女が今後どのような失態を晒すかということ。ちなみに、私が知ることができたのはそのうちの一つだけだ。
辞令を受けた私は早速翌日に移動することとなった。所長から預かった地図を頼りに、私と彼女は電車とバス、そこから定期連絡船を乗り継いだ。
たどり着いたのは小さな島だ。人の住んでいる気配はなく、本当にこんな場所で研究ができるのかと訝しみながら船を降りるとすぐに二つのプレハブ小屋が目に入った。地図とプレハブを見比べ、ここで間違いないと観念した私は彼女の方を見た。
少なくとも三ヶ月は過ごす場所がこんなところで良いのかという不安が、不思議な話だが自分によりも彼女に対してあった。彼女は並んだ小屋を丸い目で数秒眺めた後、そこが自分の巣であるかのように自然にプレハブのドアを開け中に入っていった。
中身は思いの外きちんと整理されていた。ここで私と彼女が生活することを想像し、私はようやく彼女の助手に自分が選ばれた理由が分かった。確かにこの環境で大人の異性が二人で暮らすというのは、色々と問題があるだろう。あのラボで女性は私だけだったのだ。もちろん、だからといってこの采配に納得したわけではなかったが。
彼女は荷物だけ小屋に置くと、すぐに外に飛び出していった。案の定というか、彼女は鳩に夢中になっていた。こんな孤島にも鳩はいるのだなと感心しかけたが、むしろというか当然というか、鳩がいるからこそこの島が選ばれたのだろう。
プレハブはひとつを研究室、もうひとつを生活用とした。水道やガス、電気はどちらにもあったが、トイレとシャワー室が片方にしかなかったからだ。同性とはいえその日初めて会った人間と同じ部屋で寝ることに抵抗はあったが、部屋にあったホワイトボードで簡単な仕切りを作り、その日はもう眠ることにした。
翌朝、念のためにとセットしておいたアラームで目を覚ますと、既に彼女がプレハブから消えていた。夜中に彼女の動く気配で目を覚ました記憶が蘇った。先に眠ってしまったことを少しだけ後悔したが、彼女は小屋のすぐそばで空を見ていた。
私はいったん彼女を呼び戻し、所長に言われたことを彼女に説明した。結果が出るまで滞在して良いとのことだったが、私としては寒くなる前に島を出たいので二ヶ月が期限と嘘を伝えた。
食料は冷蔵庫と保管庫に用意されており、定期連絡船で一週間おきに翌週分の食料が運ばれる。何かトラブルがあればすぐに所長に、夜中など連絡がつかないときは海上保安庁に連絡すること。研究の途中経過は一週間おきに報告すること。
最後に、と前置きし、私は彼女に尋ねた。これはなんの研究なんですか、と。私には知る権利があります、と続けそうになるのをぐっと堪えながら、それだけを訊いた。彼女は、例の丸い目で私を見つめ答えた。
「鳩の巣を、大きくしています、どこまで大きくなるのかを」
とまで言って、彼女は突然なにも喋らなくなった。うっかり吸い込まれそうな彼女の目は、いつの間にか私でなく窓の外に向けられていた。私が口を開きかけたとき、彼女は「見つけた」と呟いて研究室を飛び出した。何事かと後を追うと、彼女はプレハブのすぐ近くにいる一羽の鳩と見つめ合っていた。
鳩は私の知るような灰色のドバトと違い、眩いほどの白い羽を纏っていた。一瞬、私の目にはそれが神からの遣いのように映ったが、すぐにそんなはずはないと頭を横に振った。彼女の視線は先ほどまで私に向けていたものと違い、親密さを感じさせた。
「天国鳩です」
彼女は確かにそう言った。私が何か口にするよりも早く、その鳩に「お願いしますね」と頭を下げた。
そのような種類の鳩だということだろうか。『天国鳩』と呼ばれた鳩はその言葉を受けて、彼女を先導するようにゆっくりと歩き出した。私はなにも分からないまま鳩と彼女の背中を追いながら、大きさが逆の鳩の親子のようだと少しだけニヤけてしまった。
浜を離れ、森を抜け、砂利道を川沿いに進んでいくと、やがてひらけた野原のような場所に一本だけぽつんと生えている背の低い木に辿り着いた。
「分かりました」
そう言って彼女はなにか別のことに取り掛かろうとしたので、私は「ここに鳩の巣を作るということですか?」と尋ねた。
彼女はこれまでで初めて見せる笑顔を私に向けた。ああ、確かに男性研究員を連れて来なくて正解だった。私はそう確信した。
巣作りとはいっても、私たちが鳩の巣を作るわけではない。私たちの仕事は鳩が運びやすいように木の枝を折ったり、『ィシル』と彼女がいつの間にか名付けた例の白い鳩が示したビニールやプラスチックといった材料をそれらしい形や大きさに加工することだった。
巣はすぐにボウル程度の大きさになり、中華鍋ほどになり、そこからも日を追うごとに大きくなっていった。『ィシル』が呼んだのか、巣を作る鳩は一羽、また一羽と増えていき、気がつけば大群と呼んで差し支えのないほどの群れになっていた。
巣作りの補助は私と彼女二人だけでは追いつかない作業量になっていたが、いつの間にか私たちをフォローする鳩さえ現れた。鳩の巣は木の上の三分の一を、半分を、やがては一本丸ごとを飲み込んでいった。この頃には私にも巣作りを面白いという気持ちと、もっと大きくしたいという欲望が芽生えていた。
そんな島での生活も一ヶ月に近づいてきたある晩、どういう気持ちの変化なのか、これまで私への指示以外はほとんど喋らなかった彼女が自分の昔話をはじめた。夜中でも作業を続ける鳩たちの声と音のなか、ホワイトボード越しにそっと置かれる彼女の声には、あの鳩の白にも似たきらめきのようなものが含まれていた。
幼い頃の彼女は、ぼんやりとした子だと認識されていたそうだ。学校の勉強はもちろん、クラスメイトの顔や名前、担任が誰で自分が何組なのか、見たこと聞いたことを端から忘れていた。先生や両親はさぞ心配したことだろうが、彼女に言わせればそれは『脳の容量を空けておくため』に必要なことだったとのことだ。
言葉の通り、彼女はその後、決して忘れられないものと出会うこととなる。彼女はそれを『迎えに来た』と表現していた。
彼女の言葉をここに借りる。
「夜、でした、台風が来るぞ、とテレビが脅していて、確かにそれは、私の頭を輪っか状に小突いてくるから、痛くて、玄関を出ました、空気は水になる手前で、吐き気がしてきて、台風に見つからないよう、物置小屋に隠れようとして、そこで、目が合いました、白い、鳩がいました、迎えに来てくれたの、です、私は動けなくなり、そのまま台風がやってきて、ぬるい突風で、飛ばされるみたいに鳩がいなくなって、私はようやく、動けるようになりました、その日の夜は、鳩が無事か、心配で眠れませんでした、嵐が、夜が、明け、それは無くなっていて、風で飛ばされていたみたいで、」
彼女は小学二年生だったそうだ。台風の日以来、彼女は近所で『お屋敷』と呼ばれる邸宅の、敷地内にある物置小屋の入口に鳩が巣を作るのを見続けるようになった。使用人が声をかけても、夜になり様子を見に来た両親が部屋に入るよう言っても、彼女は直立したまま鳩が巣を作る様子を凝視していた。
彼女はとにかく巣を作る鳩に夢中だった。巣のすぐそばに椅子を置き、夏だというので両親が簡易の小屋を巣のそばに作り、エアコンが設置され、やがてそれは彼女の新たな自室になった。両親が勧めるままに、彼女は鳩の巣ができていく様を夏休みの自由研究としてまとめた。
夏休みの終わりが近づいたある日、彼女は突然そのことに気がついた。一時的には自分たちの住居にしているものの、本当はもっと大きな、我々の想像もつかない建築物を作っているのではないだろうか、と。
彼女はすぐに巣作りの材料を集め、物置の周りを整備し、より広い空間を用意した。すると鳩は完成しかけていた巣の端を崩し、新たな巣を作り始めた。彼女は鳩に『ィシル』と名付けたそうだ。
私はここで「え」と声をあげた。そう、この島で他の鳩を先導し、時に彼女と相談しながら巨大な巣を作っている鳩も同じ名だからだ。彼女が最初に天国鳩と言った純白の鳩だ。
彼女が特定の役割をもった、つまり巣作りを先導する天国鳩を『ィシル』と、そう呼ぶ可能性もある。が、私は結果を恐れそれを訊かなかった。研究者としてあるまじき態度だったかもしれない。
話を戻そう。彼女はそのまま学校に通わなくなったそうだ。どのようにしたのかは当人たちにしか分からないが、自宅に居ながらにして中学校までの卒業資格を取得し、さらに数年後には自分の生まれ育った屋敷と広大な敷地すべてを鳩の巣に変え彼女は外の世界に出た。
彼女の実家が私には想像できないほどに裕福であったことは、ホワイトボードの下から伸びてきた日焼けの似合わない細い腕の先に握られた写真が示していた。彼女の研究結果として見せてもらった彼女のかつての『お屋敷』とその敷地は、彼女曰く通っていた小学校よりも広かったという。
一枚の写真では収まりきらないそれは、鳥の巣というよりも鳩の国という言葉を連想させた。言いようのない不安を覚えた私は、それ以降の彼女の話は無視して眠ったふりをした。
いったい、彼女は鳩に何を作らせようとしているのだろうか。私はここでようやくあることに思い至った。これまでずっと彼女が執着していると思っていたものは、鳩そのものではなく、鳩が作り出そうとしている『何か』なのだ。彼女は鳩と自分の王国を作ろうとしている? 分からない。けれど彼女にそれを訊くことはできなかった。
目を瞑ったまま、私は錦鯉の話を思い出していた。錦鯉は環境によって大きさが決まるというものだ。仮に六十センチメートルほどの小さい水槽で育ったのであれば鯉はその水槽の中に収まる程度の大きさまでにしか成長せず、大きな池で育った場合は一メートル以上に大きさに育つこともあるという。
もしかしたら鳩の巣もそうなのではないか。では、ひとつの島の広さを与えられたら? あり得ない妄想が膨らむ前に、私は別のことを考えるようにした。島から戻ったら何をするかなど、できるだけどうでもいいことを。
「みんな、鳩の巣なんて大きくして、どうするのか? と思ってるんですよね」
彼女は独り言のようにそう呟いた。言われるまでは思ってもいなかったが、言われてしまえば否定はできない。私は何も返せず、彼女の話が終わるのを待った。
「私はね、」
喉が鳴る。奇妙な緊張があった。
「天国を作りたい、」
私は彼女の言葉から身を守るように、用意されていた布団の中で体を丸めた。まだ秋だというのに手と足の先は冷え切り、頭から布団を被っても彼女の声は潜り込んできた。
「天国鳩はね、名前の通り、天国を作ってくれるんです、知っていましたか? 鳩はそれを作ってくれる、天国は存在しているのではなく、鳩たちによって、これから存在するんです、」
私は小さな声で歌った。彼女の言葉をかき消すために。幼い頃の記憶にある、楽しいメロディの曲。童謡かなにかの、懐かしいメロディ。布団の中に響く音は私の歌声と、合いの手みたいに差し込まれる彼女の言葉の断片。けれど気がつけば、私は、本当に眠りに落ちていた。
*
「今日からここを『鳩の天国』とします」
そう彼女が言った日から、島は、『鳩の天国』となった。不思議なもので、名前が付くと、その何かには輪郭が与えられる。いや、名前が付くことで初めて、この世界に存在を許されるのかもしれない。
島に到着してから、およそ半年が経っていた。私は島を出ることも、ラボに戻ることもせず、所長には「この島で暮らすことにしました」とだけ伝え、彼女と研究を続けていた。
彼女の宣言以来、島は加速度的に巨大な鳩の巣と化していった。彼女が天国鳩と、そしてィシルと呼ぶ鳩の呼び掛けに応じて、鳩はどこからともなく現れては増殖を続け、指示通りに巣は大きくなっていった。
小さな無人島から始まった『鳩の天国』は、どのように知られたのか日本全体にまで拡がっていた。もしかしたら、彼女の両親が動いたのかもしれない。いや、きっとそうなのだろう。ともかく、『鳩の天国』は連日、客と呼んで良いのか分からない訪問者たちが大挙して訪れるようになった。
私は、そこで彼女の手伝いをしていた。来訪者たちは皆、鳩がたくさんいるだけの『鳩の天国』を目当てにそこに訪れた。彼らの会話から、どうもSNSを中心に拡散しているらしいことがわかってきたし、島への連絡船は以前よりも多くの本数が出ているようだった。
所有権は既に彼女の手にあるのか、島のことに口を出してくる人間はいなかった。ただ島をガイドする者もいないようで、島はただ、多くの、そしてやけに鳩がいる島として人々に受け入れられていた。
やがて島は人でごった返し、私は受付から簡単なガイドから、鳩の世話から疲れ果てた彼女のケアまで、マネージャーのような仕事を含めありとあらゆることを手伝うようになっていた。
自分でも、どうしてそこまでするのか分からなかった。職としての研究者を辞め、だというのに今、なぜか彼女と、大量の鳩たちと共に『鳩の天国』と呼ばれる孤島にいる。困ったことに、私は、これまで感じたことのない充足を感じていた。
私は、一日の仕事を終えてくたくたになり、例のプレハブ小屋で彼女とホワイトボードを挟んで横になりながら、眠りに就く前に本土での鳩島の反応をチェックするのが日課になっていた。自分が携わる島が、多くの人間に受け入れられることに言いようのない喜びを感じていた。
『鳩の天国』の人気は一時的なものに終わらず、訪れる者も更に多くなっていった。鳩を見て、人によっては餌をやって、ただそれだけの島にいったいなぜそんなにも多くの人間が来るのか不思議に思うのだが、そういった者も一度島に行けばもれなく鳩の虜になった。
誰かが、この島は小さすぎると言い出した。事実5ヘクタール強しかないこの島は既に平日でも一日四千人、土日であれば一日一万人ほどの人が訪れるようになっており、何羽いるかもわからない鳩と人で、ずいぶんと窮屈になっていた。
やがて島を広げようという運動が始まった。明確な先導者はおらず、いつの間にかはじまったそれは、大きなうねりとなり社会的なムーブメントとなった。記録では十万人近い人間が参加したとあるが証拠はない。ただ、毎日入れ替わり立ち替わり島と本土とを繋げるために果てしない数の人間が土や砂で海を埋めて道を作っていった。
運動がニュースやSNSで取り上げられると、人々はさらに集まるようになった。やがて『天国拡張計画』と名付けられたその運動はより多くの人を巻き込み、一ヶ月もかからずに、島と神奈川県横須賀市とを物理的に接続した。
それによって何が変わったか。人々が船を使わずに島にアクセスできるようになったというのはもちろんある。むしろ当初はそのためにこの運動に参加した者がほとんどだった。けれど、いつしかこの動きは別の目的を、意味を持つようになっていたのだ。
それは、鳩島を、日本国の本州に接続すること。つまりは本州の天国化だ。繋がった瞬間なにかが劇的に変わったわけではない。だが人々の認識が世界を、現実を変えていったのだろう。
鳩島の鳩たちは人間が作った道を悠々と歩き、または道を目印に飛び、次々に本州に上陸していった。そしてその場にいた人々はそれを、気がつけば拝むような形で眺めていた。
私の心は、完全に研究者に戻っていた。それはもちろん、職業としてのそれではない。純粋に、何かを調べ、知りしたいという気持ちだ。つまりそう、私は彼女とィシルが作り出す天国がどこまで広がりかを、最後まで見届けたくなっていた。
そうして、日本はどんどん変化していった。けれどそのことに違和感を持つものは既にいなかった。
鳩のグッズが中高生を中心に爆発的に流行した。
鳩をシンボルとしたモニュメントが各地にできた。
鳩を賛美するドラマやアニメ、漫画、小説が次々と生まれた。
ストリートに鳩のグラフィティが多く描かれた。
鳩視点でプレイするVRゲーム『アイムピジョン』発売。
鳩への信仰が生まれた。
鳩への不殺が憲法に盛り込まれた。
鳩の食事を専門に作る工場が各地に建設された。
鳩の食事は人間たちの税金で賄われることになった。
大きく、屋根があり、日当たりの良い建物から順に鳩に譲渡していった。
流行語大賞と『今年の一文字』がどちらも『鳩』になった。
酉とは別に十三番目の干支として鳩が加えられた。
鳩の鳴き声を録音した音源『愛』が各種ストリーミングサービスで合計五億再生を突破した。
鳩の写真集『ビューティフルシングス』が発売された。
鳩の写真集の初版を購入するために多くの人間が書店に並んだ。
一番先頭の者は発売日の二週間前から並び、睡眠と食事を取らなかったことで救急車に搬送された。
鳩の写真集を最初に手に入れた者が帰り道に何者かによって本を強奪された。
鳩すこ権(鳩が健やかに生きる権利)という権利が生まれた。
鳩は健やかに生きるべきで、人間はそれに尽くすべきだった。
鳩が選挙権を持った。
選挙の結果、全ての議員枠は鳩で埋まった。
鳩が健やかに生きるには人間の生活レベルを下げる必要があった。
労働者の賃金から鳩税が引かれるようになった。
買い物をすると鳩税が引かれるようになった。
人が死ぬと鳩税が徴収されるようになった。
固定資産に応じて鳩税が徴収されるようになった。
成人一人につき一羽の鳩をお世話させていただくことになった。
成人の基準が十二歳に引き下げられた。
成人一人につき二羽の鳩をお世話させていただくことになった。
鳩最高!
鳩万歳!
ぱしゅ、という音がどこかから聞こえた。鳩たちが飛び立っていく。なんだろうと思う暇もなく、私の目の前で彼女がスローモーションみたいにして、ゆっくりと前のめりに倒れていき、そのまま、顔面から砂浜に着地する。え?
気がつけば、私は『保護』されていた。
私は状況がわからないまま拘束され、島から連れ出され、マイクロバスのような車に乗せられ、離れた位置に停められた船に押し込まれ、長い時間波に揺られ、アメリカ西海岸に着いていた。彼女が撃たれた日からおよそ二週間が経っていた。
それから、また長い時間をかけて私は取り調べを受けた。あまりに向こうの言葉を理解しない私に、やがて通訳が付けられた。拘束されて初めて味方ができた気がしたが、彼は表情を崩さず、イエスかノーで答えるだけでいい、と私に言った。
あなたの国で起こった出来事について喋りなさい。
イエス
鳩の陰口を言ったものが逮捕されたか。
イエス。
鳩に敬称を付けなかった者が投獄されたか?
イエス。
投獄された者の中で流行病に罹った者がおり、監獄にいた人間全員が焼却処分された?
イエス。
誤って鳩を殺してしまった者が連行され三親等内の親族もろとも死刑になったか?
イエス。
今回の首謀者は『鳩子』と呼ばれる女性か?
イエス。
通訳の男性は最後まで無表情だったが、物々しい装備で制服を着た周りの人間たちは、私が「イエス」を口にするたびにその表情を険しくしていった。
イエス。イエス。イエス。イエス。
どこでそこまで調べ上げたのかという質問の全てに、私はそれしか言葉を知らないかのように、しっかり「イエス」と答えた。
目の前で見たものもあれば、話を聞いただけのものもあった。けれど、事実と違うことはひとつもなかった。ひとつ質問に答えるたびに、私は体から魔法を剥がされていくように感じた。
日本の周りの小島はもちろん、北海道と四国、九州に続き、沖縄までもが『鳩の天国』と呼ばれたあの島と繋がっていた。それはつまり、日本全土の『天国化』を意味していた。
これらの一連の出来事は一年と少しの間での出来事であり、有り体に言えば、日本は鳩に支配されつつあった。私はそれを見ていた。聞いていた。知っていた。
鳩島が世界に発見されたあの日からおよそ一年と三ヶ月。世界は私たちの知らないところで選択したのだろう。日本という大きな『鳩の天国』を、このまま自然多き鳩の楽園として放置しておくか、それとも、『天国化』が世界に及ぶ前に、軍事力を投入し大きな更地に戻すか。その結果が、砂浜での例の出来事なのだろう。
静かに、そして素早く『天国』にやってきた彼らは、何の挨拶もなく、何の声がけもなく、何の断りもなく、何の躊躇もなく、彼女に向けて発砲した。
砂浜にうつ伏せに倒れた彼女は、撃たれた場所を中心にして砂浜を赤く染めていた。そうして私たちの研究は終わった。
私も、彼女と同じになるのだろう。それを覚悟していた。訊きたいことを訊き、知りたいことを知り、確認したいことを確認したら、私もまた砂浜に小さな赤い染みを作るのだ。そう思っていた。
本当に、人生というのはなにひとつ自分が想像している通りにならない。それは自分にとって良いものであれ、悪いものであれ等しくやってくる。今回のことでいえばそう、私は砂浜の一部になることなく、唐突に、釈放された。
通訳の男が、別れ際に私の肩を叩いた。それが何だったのか私にはわからない。頑張れよ、といった同情的なものだったのか、それとも。私はそうしてアメリカは西海岸の、縁もゆかりもない土地に放り出された。
*
マジックショーが終わり、まばらな拍手が小さな会場に響いた。海岸沿いの小さなバーで、このようなイベントは珍しかった。客も最初は面白がっていたが、次第に飽きてきたのかショーが進むにつれ近くの席にいる者同士で会話するようになっていった。
低い段差の小さなステージからは誰もいなくなり、バーのオーナーは再びBGMを流そうとしたが操作を誤ったことでラジオ放送が店内に流れた。
「……全土で、鳩の姿が、減って……」
ラジオはオーナーの舌打ちと共にすぐに消され、店内には力強いソウルの歌声が流れ出す。客たちは少し前までのショーのことなど忘れたみたいに語り、笑い、怒り、泣き、再びそれぞれの時間を楽しみ始める。
バーからは、質の悪い酒に酔った男女が時間と共に出て行った。やがて、海面が朝日に照らされていく頃、バーのオーナーが私に声をかけた。
「閉店時間だ」
彼は夜通し働いていた者特有の、滲んだ汗とやや窪んだ目、そしてくたびれた表情をしていた。
「誰か待ってるのかい?」
私は立ち上がり、出口に向かい、振り向かずに答える。
「もうすぐ来るの」
店を出ると、そこにはいままさに地上を照らそうとする太陽が覗いていた。海岸沿いの海面は朝日をたたえ、光り輝く水面には無数の鳩たちが映し出されていた。私は大きく両手を振り、空を埋め尽くしそうな鳩たちを歓迎する。そうしてバーを振り返り、あの二棟の小屋を思い出した。
「鳩だけが好き」
久しぶりに話す母国語は、どこか不自然なイントネーションだったように思う。
集まった鳩たちは皆、そのささやかなくちばしに木の枝や蔓、蔦のようなものを咥えていた。そして、無人のバーの屋根の上に集まると、少し遅れやってきた一羽の純白の鳩を迎えた。私はその鳩に、聞こえるか聞こえないか程度の声で話しかける。
「見つけたよ。あの島よりも、もっと大きな島を」
白い鳩は遠いところから飛んできたのだろう。疲れを感じさせるゆっくりとした、それでもどこか威厳を感じさせる動きで他の鳩たちの中央に降り立った。そして、くるくくーくるくく、と、天に届くような美しい鳴き声を発した。
私はそれを、まん丸な目で見ていた。
天国鳩と、その魔法 伊藤なむあひ @namuah_san
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