理想の性格の正体

和田いの

本心

 午前七時。篠宮家の朝は、決まってキッチンから聞こえてくる軽やかなリズムで始まる。トントントン、とまな板を叩く包丁の音。それは、篠宮すみれが奏でる「幸せの合図」だった。

「あ、雄介くん、おはよう! ちょうどお味噌汁ができるところだよ」

 振り向いたすみれの顔には、朝日よりも明るい笑顔が浮かんでいる。結婚して3年。大学生の頃、演劇サークルの舞台袖で出会った時と変わらない、周囲の空気を一瞬で華やかにする輝き。どれほど月日が流れても、この家の太陽であり続けていた。

「おはよう。いい匂いだな」

 篠宮雄介は、少しだけ寝癖のついた頭をかきながら、穏やかな声で返した。彼はすみれより二つ年上で、その性格は深く静かな海を思わせる。感情の起伏が少なく、常に一定の温度でそこにいてくれる誠実さ。それが、繊細な一面を持つすみれにとって、どれほどの救いになってきたか計り知れない。

「今日はね、雄介くんが好きななめこのお味噌汁にしたの。あと、卵焼きもちょっと甘め」

「ありがとう。すみれの作る卵焼きは、世界で一番うまいよ」

 雄介は当たり前のように感謝を口にする。「ありがとう」と「ごめんなさい」。この二つの言葉を疎かにしないことが、二人が3年間、一度も大きな諍いもなく歩んでこれた秘訣だった。

 食卓につくと、すみれは「いただきます!」と元気に手を合わせ、本当においしそうに箸を進める。

「んーっ! やっぱり朝の温かいスープは体に染みるねえ」

 頬を膨らませて幸せそうに笑う彼女を見ていると、雄介の心にも温かな灯がともる。彼女はただ料理ができるだけでなく、その場を「味わい尽くす」天才だった。

「そういえば雄介くん、今日でちょうど3年だね」

 すみれが少しだけ声を落とし、照れたように上目遣いで言った。

「ああ。入籍してから、今日で丸3年だ」

「早かったような、ずっと昔だったような……。でもね、私、今が一番幸せだよ」

 すみれは素直だ。心に浮かんだ温かい感情を、一滴もこぼさずに相手に伝えることができる。その「隙」のある無防備な愛情表現が、雄介の決断力や行動力の源泉になっていた。



 二人の出会いは、大学の演劇サークルだった。

 当時、すみれは看板女優としてスポットライトを浴び、雄介は舞台監督として暗い袖から全体を統括していた。

 ある公演の直前、すみれが衣装のトラブルでパニックに陥ったことがあった。舞台袖で震える彼女の手を取り、静かに、しかし力強く「大丈夫だ。俺が後ろにいる。お前はただ、前だけ見て笑っていればいい」と言い切ったのが雄介だった。

 その時、すみれは気づいたのだ。スポットライトの中にいる自分を支えているのは、自分自身の才能ではなく、暗闇の中で決して揺るがないこの人の背中なのだと。

 結婚してからも、その構図は変わらなかった。

 すみれが職場の人間関係で少し落ち込んだ時や、家事で失敗してシュンとしている時、雄介は決して彼女を責めない。ただ黙って話を聞き、最後に「次はこうしてみようか」と具体的な解決策を提示してくれる。感情にムラのない彼の安定感は、すみれの感情を受け止めるのに、最も適していた。

「雄介くん、あの時の舞台監督の顔、今でもたまにするよね」

 食後のコーヒーを飲みながら、すみれがクスクスと笑う。

「どんな顔だ?」

「んー、なんだか『俺についてこい』っていう、頼もしい顔。でもね、今の雄介くんはもっと優しいよ」

 すみれは適度に甘えるのが上手い。雄介の腕にそっと自分の手を重ねる。その謙虚で気遣いのある触れ方一つにも、彼女の優しさが滲んでいた。



「今日は少し遠出しようか。3周年の特別プランだ」

 雄介がそう言うと、すみれは子供のように目を輝かせた。

「えっ、どこに行くの? 楽しみ!」

 雄介の行動は迅速だった。彼は数週間前に、すみれが「いつか行ってみたい」と独り言のように呟いていた海辺のレストランを予約していた。彼はすみれの言葉を、決して聞き流さない。経済的に自立し、大人の余裕を持った今の彼にとって、妻の願いを叶えることは何よりの喜びだった。

 車内でも会話は途切れない。すみれは話題を盛り上げるのが得意だった。

「ねえ、見て! あの雲、なんだか大きなパンみたい。美味しそう」

「すみれは本当に食べることが好きだな」

「だって、美味しいものを食べると元気が出るでしょ? 雄介くんと一緒に食べるなら、なおさらだよ」

 そんな何気ない会話の端々に、彼女の「隙」が見える。地図を見ているはずなのに、いつの間にか反対方向を指差していたり、シートベルトに髪を挟んで「痛い痛い」と騒いだり。しっかり者のようでいて、どこか放っておけない魅力。それが雄介の「守ってやりたい」という本能を刺激し続けていた。

 目的地に着くと、そこは静かな岬に立つレストランだった。

「わあ……すごい。雄介くん、ここ、予約してくれたの?」

「ああ。いままでの感謝を込めてな」

 雄介はエスコートも自然だった。周囲の客や店員への気遣いも忘れず、スマートに振る舞う。その頼りがいのある姿に、すみれは改めて惚れ直していた。



 ディナーが始まると、すみれの真骨頂が発揮された。

 運ばれてくる一皿一皿に対し、「綺麗!」「香りが素晴らしいね」と、まるで演劇のワンシーンのように豊かなリアクションを返す。そして、口に運ぶたびに、本当に幸せそうな顔をして咀嚼する。

「このお魚、皮がパリパリで中がふわふわ……。幸せすぎて、溶けちゃいそう」

「気に入ってくれてよかった」

「雄介くん、一口食べる?ほら、あーん 」

 彼女の明るさは、独りよがりなものではなく、常に相手がどう感じるかを気遣った上でのものだった。

 雄介もまた、普段以上に饒舌だった。

「これからの十年の話をしようか」

 彼は真剣な眼差しですみれを見つめた。

「子供のこと、これからの住まいのこと。俺は、すみれがずっとこうして笑っていられる環境を作りたいと思っている。もし何か不安があるなら、いつでも言ってほしい。俺が全部、何とかするから」

 その力強い言葉に、すみれは少しだけ瞳を潤ませた。

「雄介くんは、ずっと変わらないね。でもね、私は雄介くんを支える存在でもありたいんだよ? 私、掃除も料理も、もっともっと頑張るから。雄介くんが外で頑張って帰ってきた時、家が世界で一番安心できる場所になるように」

 二人の愛情表現は、一方通行ではない。

 雄介が安心感と決断でリードし、すみれが明るさと細やかな気遣いで家を彩る。この完璧な歯車が、3年という歳月をかけて、滑らかに、そして強固に噛み合っていた。



 帰り道、車窓を流れる夜景を見ながら、すみれは静かに語り出した。

「私ね、たまに怖くなることがあるの。こんなに幸せでいいのかなって。雄介くんが優しすぎて、甘えすぎちゃってないかなって」

「いいんだよ。俺はすみれに甘えられると嬉しいんだから」

 雄介はハンドルを握る手に少しだけ力を込めた。

「それに、すみれの抜けてるところがあるおかげで、俺も完璧じゃなくていいんだって思える。よく笑って、よく食べてくれる。それだけで、俺の毎日は報われてるんだ」

 すみれは雄介の横顔を見つめた。

「ありがとう、雄介くん。大好きだよ」

「俺もだ、すみれ」

 家に着くと、すみれは真っ先に玄関の電気をつけ、いつものように「ただいま!」と大きな声で言った。家の中へと彼女の声が暖かさを吹き込む。

「さて! 明日の朝ごはんは何にしようかな。お祝いの続きで、ちょっと豪華にしちゃおう」

「ありがとう。楽しみにしているよ」

 二人はキッチンで並んで立ち、明日の準備を始める。

 特別な一日が終わっても、彼らの日常は続いていく。それは劇的なクライマックスの連続ではないかもしれないが、穏やかな優しさと、誠実な言葉と、そして何より「おいしそうにご飯を食べる」というささやかで絶対的な幸福に満ちた日々だ。

 篠宮すみれと篠宮雄介。

 演劇サークルで始まった二人の物語は、今、人生という大きな舞台で、第二幕の幕を開けたばかりだった。

 そこには、変わらない明るい笑い声と、それを静かに見守る確かな背中があった。

 3年目の夜は、春の予感とともに、どこまでも静かに更けていった。




 その日、光一は「聖域」に足を踏み入れたような心地でいた。

 大学時代の友人である篠宮雄介とすみれの家。閑静な住宅街に建つその一軒家は、いつ訪れても隅々まで整えられ、温かな西日が差し込むリビングには、すみれが活けた季節の花が香っていた。

「光一くん、いらっしゃい! 久しぶりだね、元気にしてた?」

 すみれが、笑顔で迎えてくれる。彼女は演劇サークル時代と何ら変わらない。常に前向きで、周囲への気遣いを絶やさず、会話を盛り上げる天才だった。

「まあ、元気かな。それにしても、お前らは相変わらずだな。世の中、結婚して数年も経てば、顔を合わせるたびに舌打ちしてるような夫婦ばかりなのに。ここはまるで、ドラマのセットみたいだ」

 光一が冗談めかして言うと、キッチンから冷えたビールを持ってきた雄介が、穏やかに笑った。

「そうか?俺たちはただ、お互いを尊重してるだけだよ。な、すみれ」

「うん! 雄介くんがいつも優しいから、私も自然と笑顔になっちゃうんだよ」

 すみれが少し照れたように甘える。雄介はそれを男らしい包容力で受け止める。

 光一は、胸の奥で小さな溜息をついた。羨望を通り越し、どこか非現実的な完璧さ。自分はといえば、先月彼女に振られたばかりで、部屋は荒れ放題、愚痴をこぼす相手もいない。この夫婦を見ていると、自分の人生の未熟さを痛感させられる。


 夕食の後。

「あ、ごめん、光一。この前借りた本、返し忘れてた。ちょっと取ってくる」

 雄介が席を立ち、すみれが「デザート、用意しちゃうね!」とキッチンへ向かった。

「あ、俺も行くよ」

 後を追った光一は雄介が本を探している間、書斎をうろうろしていた。雄介が愛用している古い机の端に、一枚の茶封筒が置かれているのに目を留めた。

 封筒の口は開いており、中から数枚の紙がのぞいている。

(なんだ……? 演劇サークルの時の台本か?)

 懐かしさに駆られ、光一は無意識にその紙を数センチ引き抜いた。

 しかし、そこに書かれていたのは、セリフではなかった。

 それは、箇条書きにされた「人格の設定」だった。

【すみれに演じさせている役の設定】

 ・常に明るい性格

 ・雄介のことが好き

 ・いつも前向き

 ・穏やか、優しい

 ・謙虚

 ・少し隙がある

 ・料理をおいしそうに食べる

 ・適度に甘える

 ・周囲に気遣いができる

 光一の背筋に、冷たい氷が滑り落ちたような感覚が走った。

 手が震える。さらに下の紙をめくると、そこには別の筆跡――すみれの文字で書かれた紙があった。

【雄介に演じさせている役の設定】

 ・男らしい性格

 ・すみれのことが好き

 ・穏やかで誠実

 ・感情にムラがない

 ・決断力がある

 ・「ありがとう」「ごめんなさい」が言える

 ・経済的に自立している

 ・愛情表現をしてくれる

「光一? どうした」

 背後から雄介の声がした。光一は飛び上がり、慌てて紙を戻そうとしたが、間に合わなかった。雄介の視線が、光一の手元にある「設定書」に落ちた。

 静寂が書斎を満たす。

 雄介の顔から、先ほどまでの穏やかな微笑が消えていた。しかし、怒りや狼狽があるわけではない。ただ、感情の読み取れない「無」がそこにあった。

「……篠宮夫婦は、ずっと演技をしていたのか……?」

 光一の声は、かすれていた。3年。この完璧な夫婦の、この美しい生活の正体が、互いに強制し合った「配役」の遵守であったというのか。


「光一、」

 雄介が静かに口を開いた。その声は、相変わらず優しく誠実だが、どこか薄い膜の向こうから聞こえるような冷徹さを孕んでいた。

「強制し合っているんじゃない。これは、俺たちが合意の上で結んだ『契約』だ。結婚する時、俺たちは約束したんだ。互いに相手に一生演じて欲しい役の設定を考えて、それを死ぬまで演じ続けよう、と」

「そんなの……狂ってる。じゃあ、お前たちの間に『本音』はないのか? 嫌なことがあったり、イライラしたり、そういう人間らしい部分は……」

「そんなものは、とうに捨てたよ」

 雄介は机に手をつき、窓の外を見つめた。

「人間なんて、放っておけば醜くなる。長く一緒にいれば、相手の欠点に苛立ち、言葉は荒くなり、気遣いは消え、愛は義務に変わる。世の中の『本音』でぶつかり合っている夫婦を見てみろ。光一、お前はあんな地獄を幸福と呼ぶのか?」

 光一は絶句した。雄介の言葉は、恐ろしいほど論理的だった。

「俺たちは演劇サークルで学んだはずだ。役を完璧に演じ切るためには、自意識を殺さなきゃならない。もし俺が、仕事で嫌なことがあって不機嫌な顔ですみれに接したら、それは『篠宮雄介』という役の欠陥だ。すみれが掃除をサボったり、俺に文句を言ったりしたら、それは『篠宮すみれ』という役の崩壊だ。だから俺たちは、死ぬまで幕を降ろさない。この契約について話し合うことすら、禁止している」

 雄介は続ける。

「俺は人と関わる時、ずっと演技をしてきた。俺が本音で話すと確実に嫌われる。俺はそれほどに根っからの悪い人間なんだ。他人が死んでもどうでもいいと思ってるし、面白ければどんなに倫理観のないことをしてもいいと思ってる。デスゲームを開催して視聴者が楽しめればそれでいい。好奇心だけで人を殺してみたい。いろいろな犯罪をして俺がなにを思うのかを知りたい。産まれた子供を20歳になるまで閉じ込めてグロ動画だけを見せ続けたい。そのあと外の世界に出して観察したい。そんなことを本気でしたいと考えている。自分が楽しければ他人がどうなろうとどうでもいい。これが俺の本音だ。...だから俺は演じ続けてきた。元々演じていたから、すみれから一生演じようという提案をされた時、それはいい案だと思った。役の設定まで決めてくれるのだから、いつものように相手の性格を考えて役を決める手間が省ける」


 光一は、恐怖で震える足で一階へと逃げた。

 階下では、すみれが軽やかな鼻歌を歌いながら、フルーツをカットしている。その音が、今の光一には不気味な舞台演出のBGMのように聞こえた。

 一階には、何も知らない――あるいは完璧に知らないふりをしている――すみれが、最高の笑顔で待っていた。

「光一くん、お待たせ! 旬の桃、すごく甘いよ。2人とも、一緒に食べよ!早く座って!」

 彼女の笑顔を見る。それは「常に明るい性格」という設定の出力結果。

 彼女の気遣い。それは「場の空気が読める」という設定の実行。

 彼女がおいしそうに桃を頬張る姿。それは「料理をおいしそうに食べる」という台本の再現。

 光一は、喉の奥がせり上がるのを感じた。



 光一が逃げるように去った後、篠宮家のリビングにはいつもの「穏やかな沈黙」が流れた。

 雄介は皿を洗い、すみれはテーブルを拭く。動作の一つ一つに無駄がなく、互いへの配慮に満ちている。

 すみれは、キッチンの鏡に映る自分の顔をチェックした。

 口角は適切に上がっているか。目は優しく細められているか。

(よし、完璧)

 彼女は、自分の哲学に絶対の自信を持っていた。

 世の中の人間は「ありのままの自分を受け入れてほしい」などと、厚かましいことを言う。ありのままの人間なんて、利己的で、不潔で、残酷なもの。

 怒りを抑える。不満を隠す。笑顔を絶やさない。それらはすべて「演技」だが、その演技を放棄した瞬間に、人間関係は腐敗し始める。

(悪い面も含めて受け入れてくれる人がいい? そんなの、甘えだわ。だいたいそんなことをいう人に限って、相手の悪い面を受け入れられずにすぐに嫌いになる)

 すみれは心の中で毒づく。相手の悪い面なんて見たくない。だから、自分も見せない。悪い面は無いに越したことはないから。

 理想の人間を演じ、相手にも理想を演じてもらう。

「篠宮雄介」という理想の夫が必要だった。彼が「感情にムラがない」という役を演じ続けてくれる限り、彼女の世界は平穏で、安全で、美しいままでいられる。

(人なんて、もともと何かを演じてる。なら、最高に美しい劇を死ぬまで上演し続ければいいじゃない)

 彼女は、雄介の背中に近づき、そっと腕を回した。

「適度に甘える」というアクションの実行。

「雄介くん。光一くん、なんだか元気なかったね。私、何か失礼なことしちゃったかな?」

「いや。あいつはただ、俺たちの幸せが眩しすぎただけさ」

 雄介の返答は「優しい」「誠実」「男らしい」。

 百点満点のセリフだった。



 翌日。

 昨夜の余韻が残るキッチンに、甘い香りが立ち込めていた。

「ほら、雄介くん! じっくりアパレイユに浸したから、中までプルプルだよ」

 すみれが、いかにも「幸せな妻」といった足取りで、皿をテーブルに運んでくる。厚切りのパンには絶妙な焦げ目がつき、粉糖が冬の初雪のように美しく振られている。

「おいしそうだな。いただきます」

 雄介は、設定された通りの「穏やかで誠実な夫」の微笑みを浮かべた。ナイフを入れ、一口運ぶ。

「……うん。完璧だ。こんなに美味しいフレンチトーストは、店でも食べたことがないよ」

「本当? よかったあ!」

 すみれは両手を頬に当て、少女のように顔を輝かせる。

 雄介の脳内では、この甘美な朝食の風景とは全く別の思考がある。

 心からの賞賛を口にしながら、内側では深い虚無の中にいた。

 彼の本性は、この温かなリビングとは対極にある。もし彼が「役」を脱ぎ捨てれば、このフレンチトーストを窓から投げ捨て、すみれが絶望に染まる顔を観察することにこそ、真の悦びを見出すだろう。あるいは、この平和な街に致命的な毒を撒き散らし、人々が阿鼻叫喚の中で踊る「デスゲーム」を開催したいという渇望が、彼の深淵には常に渦巻いている。

 しかし、彼は演じる。それが最も合理的だからだ。

「すみれ、今日はこの後、少しゆっくりしようか。君も疲れただろう」

「私は全然平気! むしろ、雄介くんの肩を揉んであげたいくらい」

 すみれの言葉は、慈愛に満ちている。だが、彼女の瞳の奥もまた、雄介と同じように「舞台上」の光しか宿していなかった。



 雄介にとって社会生活とは「更生不可能な犯罪者」が、囚人服を着て模範囚を演じるようなものだった。

 彼は幼少期から、他人の痛みというものが理解できなかった。転んで泣いている子供を見れば「なぜあんなに非効率な音を出すのか」と観察し、虫を殺す時は「どの段階で生命活動が停止するのか」を冷徹に分析した。

 成長するにつれ、彼は自分の本性を晒せば、この社会という檻から排除されることを学んだ。

 だから、彼は「善人」をトレースすることにした。

 ドラマの主人公、小説の聖職者、成功した起業家。彼らの言動をサンプリングし、自分の人格にパッチを当てていく。

 すみれとの出会いは、彼にとって天啓だった。

 演劇サークル。そこは、嘘をつけばつくほど称賛される場所だった。

「雄介くん、あなたの演出は素晴らしいわ。人間の本質を突いている」

 そう言ったすみれの瞳を、雄介は忘れない。

(本質?俺が描いているのは、君たちが『こうあってほしい』と願う、都合のいい幻覚だ)

 だが、すみれもまた、同じだった。

 彼女は「ありのままの自分」を全否定していた。

 人間は誰しも、醜い嫉妬や、どろどろとした怒りを持っている。彼女は、そうした「不純物」を他人にぶつける行為を、暴力だと考えていた。

「愛しているなら、理想の姿だけを見せるべきよ。汚い部分は、一生隠し通して墓場まで持っていくのが、本当の誠実さだと思わない?」

 プロポーズの夜、彼女はそう言った。

 雄介は、初めて自分と同種の、しかしベクトルの違う「怪物」に出会ったと感じた。

「いいよ、すみれ。演じ合おう。死ぬまで、幕を下ろさずに」

 それが、二人の結婚の誓いだった。

 指輪を交換するよりも、神に誓うよりも、その「設定の共有」こそが、二人を強く結びつけた。


 フレンチトーストを食べ終え、すみれが皿を下げる。

「雄介くん、コーヒーのおかわり入れるね」

「ありがとう。すみれの淹れるコーヒーは、いつも温度が適切だ」

 雄介は、凄惨な事件のニュース記事に目を落とした。

『一家心中。無理心中を図った父親の動機は――』

(つまらない。なぜ死ぬ必要がある? 家族全員を地下室に監禁し、互いの肉を食わせ合う実験でもすればよかったのに。その方が、人間の限界値という面白いデータが見れただろう)

 雄介の脳内には、常人なら正気を失うような残虐なヴィジョンが、色鮮やかな4K映像のように流れている。

 ふと、キッチンから聞こえてくるすみれの鼻歌が耳に届いた。

 彼女が歌っているのは、大学時代の公演で使われた劇中歌だ。

「雄介くん、今日はね、午後からお庭の掃除をしようと思ってるの。春の花を植えたいなと思って」

 すみれが、エプロンの紐を締め直しながら振り返る。

「ホームセンターへ苗を買いに行こうか。君が選ぶ花なら、きっとこの家に似合うよ」

「嬉しい! 雄介くんって本当に優しいね」

 優しい。

 その言葉が、雄介の耳の中で滑稽に響く。

 彼は、もし許可されるなら、庭に花を植える代わりに、生きた人間を土に埋めて、その苦悶の表情が枯れていく様をタイムラプスで撮影したいと考えている男だ。

 だが、口から出るのは「優しい夫」の台詞だけ。

 彼女が雄介に求めた「役」を、彼は忠実に、かつ完璧に遂行し続けている。


 午後のホームセンター。

 家族連れで賑わう店内で、篠宮夫婦はひときわ目を引く存在だった。

「ねえ、あの夫婦、素敵ね」

「新婚さんかしら?」

 通り過ぎる人々の囁きが、すみれの耳に心地よく届く。

(そう。そうよ。これが私の欲しかった世界。誰もが憧れる、汚れのない、完璧な幸福)

 すみれは、雄介の腕に柔らかく体重を預ける。

 彼女の心の中は、実は氷のような計算機で満たされている。

(雄介くんの歩幅、右側への傾き……。私の設定した『頼りがいのある夫』の挙動として満点。彼は本当に素晴らしい役者。時々、彼の中に潜む『真っ暗な穴』のような気配を感じるけれど、それを表に出さないプロ意識には敬意を評するわ)

 すみれは知っている。

 雄介が時折、冷酷な目で自分を見つめていることを。

 食事をしている時、寝顔を見ている時。彼の瞳の奥に、自分を人間としてではなく、ただの「物体」として測定しているような、不気味な光が宿ることを。

 普通なら恐怖で逃げ出すだろう。だが、すみれは違う。

(いいのよ、雄介くん。あなたが何を考えていようと、私を『愛すべき妻』として扱い続けてくれる限り、それは愛と同じ。本音なんて捨ててしまえばいい。私たちは、美しい嘘だけで構成された、世界で一番贅沢な城に住んでいるのよ)

「すみれ、このパンジーはどうだい? 君の好きな紫色だ」

「わあ、素敵! 雄介くん、よく覚えててくれたね」

 二人は微笑み合い、カートに苗を載せていく。

 その光景は、どこからどう見ても、幸せの絶頂にある夫婦そのものだった。


 夕暮れ時、庭仕事に精を出す二人。

 雄介はスコップを使い、手際よく土を掘り返していく。

(……土を掘るという行為は、実に本能的だ。深さ1.5メートル。それだけあれば、大抵のものは隠せる。すみれをここに埋めたら、彼女は最後の一息まで『雄介くん、大好き』と演技を続けるだろうか? それとも、設定が壊れて、獣のような叫び声を上げるだろうか?)

 雄介は、無意識にスコップを握る手に力を込めた。

「雄介くん? どうしたの、そんなに力んで」

 すみれの声に、雄介は即座に表情を切り替えた。

「いや、少し根が深くてね。……よし、抜けたよ」

「さすが、頼もしいね!」

 すみれは、汗を拭う仕草さえも計算し尽くされた美しさで、雄介に麦茶を差し出す。

「ねえ、雄介くん。もし私たちが、いつか演じることに疲れてしまったら……どうなるのかな?」

 すみれが、ふと、そんな質問を投げかけた。

 これは「設定」にはない、アドリブだった。

 一瞬、庭の空気が凍りついた。

 雄介の脳内で、無数の警告灯が点滅する。

(これはテストか? 彼女は俺の化けの皮を剥ごうとしているのか? それとも、彼女自身が限界なのか?)

 しかし、雄介はすぐに最適解を導き出した。

 彼は、悲しげに、しかし慈愛に満ちた目で彼女を見つめ、その手を握った。

「疲れる? ……そんなことはありえないよ、すみれ。俺にとって、君を愛し、君を守ることは、呼吸をするのと同じくらい自然なことなんだ。演じているなんて、一度も思ったことはない」

 完璧な嘘。

 すみれの瞳が、潤んだように見えた。

「……ありがとう、雄介くん。私もよ。私も、あなたと一緒にいるこの時間が、唯一の幸福だと思ってる」

 彼女もまた、完璧な嘘で応えた。

 彼女は、もし自分が演じるのをやめれば、雄介という「猛獣」が自分を食い殺すだろうという直感を抱いている。そして、それを防ぐ唯一の方法が、彼に「優しい夫」という首輪をはめ続けさせることだと確信していた。



 夜。

 全ての家事を終え、二人は寝室で横になる。

「おやすみなさい、雄介くん」

「おやすみ、すみれ。いい夢を」

 照明が消され、部屋は暗闇に包まれる。

 暗闇の中で、二人は目を開けていた。

 隣で聞こえる相手の寝息が、本物か、それとも寝ているふりなのか、もはや判別する必要すらない。

 雄介は、天井を見つめながら、自分がかつて書いた「デスゲーム」のプロットを思い出していた。

(……監禁した家族に『理想の家族』を演じ続けさせる。もし一度でも設定を外れたら、即座に処刑。残酷で、美しいゲームになるだろうな)

 彼は、隣にいる「最高の共演者」の体温を感じながら、至福の悦びに浸っていた。

 一方、すみれもまた、暗闇の中で冷徹に自分を律していた。

(明日は、もっと『献身的な妻』としての深度を上げよう。雄介くんがもっと私に依存するように。彼が私なしでは、この『夫』という役を維持できなくなるほどに)

 二人を繋いでいるのは、愛ではない。

 それは、互いの深淵を覗き込まないという「契約」であり、

 相手を理想という檻に閉じ込め続けるという「支配」であり、

 そして、この世界で自分だけが、相手の正体を知っているという「共悦」だった。

 窓の外では、春を告げる風が吹き始めていた。

 演劇サークルの舞台袖で始まった二人の物語。

「……大好きだよ、すみれ」

 雄介が、眠りに落ちる寸前の甘い声で囁く。

「……私も。愛してるわ、雄介くん」

 すみれが、夢心地のような声で応える。

 その言葉のどちらにも、一滴の真実も混じっていない。

 しかし、これほどまでに純度の高い「幸福」が、この世に他にあるだろうか。

 夜は更け、二人の怪物は、美しい仮面をつけたまま、静かに眠りについた。

 明日もまた、明るい笑顔で、完璧な一日が始まるのだ。



 光一は、夜の渋谷を彷徨っていた。

 宮下パークの喧騒、スクランブル交差点を往来する無数の人々。

 彼らは皆、何らかの仮面を被っている。会社員としての顔、友人としての顔、恋人としての顔。

 だが、篠宮夫婦のそれは、レベルが違った。彼らは「演技」を「真実」にすり替えるために、魂を売った。

(あれは、本当に幸福なのか……?)

 光一は、雄介の書斎で見つけた設定書を思い出していた。

 もし、あの設定が「本人の性質」ではなく、単なる「命令」なのだとしたら。

 すみれが笑うたび、彼女の心の中では、押し殺された本当の感情が溜まっているのではないか。

 雄介が優しくするたび、彼の内側では、誰かを殴り倒したいような衝動が、理性の鎖でがんじがらめにされているのではないか。

 だが、光一は同時に、自分の生活を振り返る。

 本音で語り合い、醜い部分も見せ合った元カノとは、結局、罵り合いの果てに別れた。

「ありのまま」の果てにあったのは、修復不可能な傷跡だけだった。

 それに比べれば。

 あの、嘘だけで塗り固められた、しかし一点の曇りもない篠宮家のリビングは、救いそのものではないか。

 光一は、スマホを取り出した。

 かつて一緒に演劇をしていた仲間たちのグループライン。

 そこには、仕事の愚痴や、家庭の不満、自虐的なネタが溢れている。

 そのどれもが「本音」で、そのどれもが「つまらない」。

 光一は、篠宮夫婦だけが到達した、あの「狂気的なまでに美しい虚構」を、誰にも話せなかった。話してしまえば、あの美しい舞台を壊してしまう。


 一ヶ月後。

 篠宮家では、結婚3周年の記念パーティが開かれていた。

 呼ばれたのは、光一を含む数人の旧友たち。

「すみれさん、本当に料理上手ですよね! 羨ましいな、雄介」

 友人の一人が、並べられた豪華な手料理を見て歓声を上げる。

 すみれは、謙虚に、しかし最高のタイミングで微笑んだ。

「そんなことないですよ。雄介くんがいつも『おいしい』って食べてくれるから、作りがいがあるだけなんです」

 そのセリフを聞いて、光一は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 それは、あの日書斎で見た設定書の文言そのものだった。

「料理をおいしそうに食べる」「謙虚」「会話を盛り上げる」。

 光一の視線に気づいたのか、雄介がグラスを持って近づいてきた。

「光一、飲んでるか?」

 その目は、一ヶ月前、書斎で「本性」を覗かせた時の冷たさは微塵もなかった。

 そこにあるのは、完璧な、誠実で頼りがいのある「篠宮雄介」という役者だった。

「ああ……。お前ら、本当に幸せそうだな」

 光一は、皮肉ではなく、心からの敗北感を込めて言った。

「そうだろう? 俺たちは、一分一秒、この役を愛しているんだ」

 雄介の声は低く、光一だけに聞こえるように言った。

「光一、お前が言った『本音』なんて、ただのサボりだ。自分を磨くことをやめた奴の言い訳だ。俺たちは、最高の自分を演じ続けることで、本当にその役になっていくんだよ」

 その時、すみれが二人の方を向き、大きく手を振った。

「雄介くん、こっちでみんなが演劇サークル時代の話聞きたいって! ほら、光一くんも一緒に!」

 光一は、彼らの方へ歩き出した。

 ライトアップされたリビング。磨き上げられた床。配置された花。

 そこは、世界で最も過酷で、最も優雅な「二人だけの劇場」。

 彼らは、死ぬまで幕を降ろさない。

 互いの欠点を見ず、醜さを排し、理想という名の仮面を肉体に縫い付けて。

 もし、どちらかが演技を忘れたら?

 もし、どちらかが「本当の自分」を晒してしまったら?

 その時、この美しい家は一瞬で崩壊するだろう。

 だが、彼らの目を見ればわかる。そんな日は、永遠に来ない。

 彼らは、互いに「完璧な嘘」を捧げ合うことこそが、究極の愛だと信じているのだから。

 すみれが、雄介の腕に「適度に甘える」。

 雄介が、すみれの頭を「優しく」撫でる。

 客たちの笑い声が、舞台を彩る。

 光一は、グラスの酒を飲み干した。

 その味は、ひどく甘く、そして死ぬほど苦かった。

「……乾杯。最高の、役者たちに」

 独り言のように呟いた光一の声は、すみれの明るい笑い声にかき消され、誰に届くこともなかった。

 篠宮夫婦の「幸福」は、今日も一分の隙もなく、完璧に上演され続けている。



 深夜。

 すべての客を送り出し、後片付けを終えた後。

 夫婦はリビングで向き合った。

「お疲れ様。今日も、楽しかったね」

 すみれが言う。

「ああ。最高のパーティだった」

 雄介が返す。

 二人は、そのまま数秒間、見つめ合った。

 その沈黙の間に、何が交わされたのか。

 設定についての確認か?

 それとも、仮面の下にある、言葉にできない疲労か?

 いや

 二人は、同時に、最高に美しい笑顔を作った。

「「愛してるよ」」

 重なった言葉。

 それが、本心から出たものか、台本通りのセリフなのか。

 その答えを知る者は、この世には誰もいない。

 彼ら自身でさえ、もう、思い出せなくなっているのだから。

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理想の性格の正体 和田いの @youth4432

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