第3話

 消毒液の匂いと、やたら主張の強い柔軟剤の匂いが、鼻の奥をつん、と刺した。


「……神谷くん。聞こえる? 起きられる?」


 額にあたる手のひんやりした感触。

 頭の奥で、コンコン鳴ってる鈍い痛み。


 ゆっくりまぶたを持ち上げると、黄ばんだ天井と、見覚えしかない薄緑色のカーテンが視界に広がった。


(保健室、確定)


「あ、起きた。よかった」


 視界の端から、白衣+カーディガンの女の先生が顔を覗き込んでくる。

 黒縁メガネの奥の目が、ほっとしたみたいに細まっていた。


「気分どう? 吐き気とか、どこか痛いとこは?」

「あー……頭が、ちょっとガンガンするくらいです」


 口から出た自分の声が、やけに軽い。

 三十五歳まで魔物と怒鳴り合った喉じゃない。十七歳の、まだ細い声。


「さっき横断歩道で倒れたって聞いてね。救急車呼ぶかどうかで、ちょっとした騒ぎだったんだよ?」

「……すみません」

「謝ることじゃないけどね。とりあえず、お母さんには連絡してあるから。もうすぐ来るって」


 お母さん。

 その単語だけで、胸の奥がぴりっとする。


 上体を起こそうとした瞬間、世界がゆらっと揺れた。

 くらりと視界がぶれて、思わずベッドの柵を掴む。


「ほら、急に起きない。……はい、ゆっくり」


 先生に肩を支えられながら、そっと上半身を起こす。


 そこで初めて、自分の身体が視界に入った。


 紺のブレザー。

 ゆるく結んだネクタイ。

 制服の袖口から覗く、細い手首。


 手の甲を見て、思わず固まる。


(……傷、ない)


 ヒビ一つ入っていない剣も、握り続けてきたタコも、矢傷の痕も、全部きれいに消えていた。

 皮膚は薄くて、柔らかくて、十七歳の「元の俺」のそれだ。


(体は完全に、あっち行く前の神谷晴人。中身だけ、十八年分遠回りした三十五歳)


 いやな意味で、高スペック。


「生徒手帳か保険証、出せる?」

「あ、はい」


 枕元の机を見ると、黒い学生カバンがぽん、と置かれている。

 見覚えのありすぎるロゴ。


 中を探ると、スマホと、生徒手帳が出てくる。

 表紙を見た瞬間、心臓が一拍分飛んだ。


(うわ、懐かし……)


 震えないように気をつけながら、生徒手帳を開く。


 写真。

 制服。

 まだあどけない顔。


 名前の欄には、はっきりこう書いてあった。


 ――神谷晴人。


 誕生日も、在籍クラスも、全部「知っている通り」だ。


「字、ちゃんと読めてる? ぼやけたりしない?」

「大丈夫です」


 この端っこのシミまで覚えてる。

 事故る前の日、ジュースこぼしたやつだ。


 先生に生徒手帳を渡しながら、こっそりスマホのロック画面に目を落とす。

 表示された日付を見て、息が詰まる。


(……マジかよ)


 十七歳の俺が、トラックに突っ込まれかけた、まさにあの日。

 十八年分の異世界人生を挟んで、カレンダーは一日も進んでいない。


(あの糞女神、本当に“あの続き”に戻してきやがった)


 ここまでは、願い通りだ。

 問題は、この先。



 先生から、よくある質問セットを一通り浴びる。

 ちゃんと全部答えられたので、「とりあえず意識ははっきりしてるね」という判定をもらう。


「お母さんが来るまで、このまま横になってていいから。変な感じしたらすぐ呼んでね」


 カーテンが閉じられる音。

 足音が遠ざかって、保健室はしんと静かになる。


 薄いカーテン越しに、夏の午後の光が柔らかく揺れていた。


(……さて)


 今のこの状況をざっと整理する。

 体は十七歳。

 制服は高校生。

 中身は三十五歳。

 で、たぶんどこかに「未来視」。


(……よし、問題の追加オプションいきますか)


 願いにセットでお願いした、ちょっと見える系チートスキル。

 あの女神の性格からして、真面目に「ちょっと」盛ってくるとは思えない。

 逆に、最大限嫌がらせ方向に寄せてくる未来しか見えない。


(未来視、未来視……起動)


 とりあえず、心の中でそれっぽいことを唱えてみる。

 ……何も起きない。


「スキル発動、《未来視》」


 小声で言ってみる。

 ……何も起きない。


(三十五歳メンタルで保健室で一人でスキル詠唱してるの、素でつらいな)


 気持ちを切り替えて、少し方法を変える。


(“未来を見る”ってことは、今から先の自分の視界を、先に覗き見するイメージで……)


 意識を、ぐっと「一歩前」に押し出す感じ。

 その瞬間――


 パチッ。


 頭の奥で小さなスイッチが弾けたみたいな感覚が走り、視界がすとん、と暗くなる。


 次の瞬間。

 目の前に、短い動画みたいな映像が流れ込んできた。


 ──保健室。さっきまでと同じベッド。

 カーテン越しの光は、さほど変わっていない。


 ただ、違うのはドアの方だ。

 扉がノックされ、先生が顔を出す。

 その少し後ろに、見覚えのありすぎる人影。


『晴人、大丈夫?』


 母さんの声だ。

 映像の中の俺は、少し気まずそうに笑って、「うん」とうなずいている。


 そこで、映像はふっと途切れた。


 目を開けた。

 さっきと同じ保健室。

 ドアはまだ閉まっている。

 母さんの気配も、先生の足音もない。


(……今のが、未来?)


 考える間もなく――


 コン、コン。

 ノックの音。


「神谷くんのお母さん、来られましたよー」


 カーテンの向こうから、たった今聞いたばかりの先生の声が聞こえた。

 俺は条件反射のように上体を起こす。


 カーテンが開いて、先生と、その後ろから母さんが顔を出した。


「晴人、大丈夫?」


 たったさっき、「映像」の中で聞いたのと同じ、少し上ずった声。


(確定。これが未来視)


 一分くらい先の、自分の視界を動画で先取り。

 そのあと、現実が「映像通り」に追いついてくる。


 母さんと先生とのやりとりは、映像で見たのと、ほとんどズレなく進んだ。


 一分ほど先の「このままいった場合の未来」を、ワンカットで覗き見できる。


(……いや、仕様は分かった。問題は“そこ”じゃない)


「一分て。お前さあ」


 女神のことだ。

 絶対、あの時こう思っていた。


『“未来がちょっと見える系”って言ったし? ちょっと=一分! はい論破☆』


「国語やり直してこい。マジで」


 テストにもギャンブルにも中途半端なんだよ、この一分。

 でも、俺が期待していた「チート」とは、なんかこう……もっとこう、ドーン! って感じのやつで。


「……しかもだよ」


 天井に視線を固定したまま、もう一つの大問題を口にする。


「高校生からやり直したかったって言いましたよね、俺。

 “やり直し”って普通、中身もある程度リセットすると思わない?」


 結果、今。

 中身三十五歳、外見十七歳。

 十七歳のクラスメイトたちと、同じ教室で机並べるのは確定。


(これ、一歩間違えたら犯罪なんだよな……)


 女神の性格を思い出す。

 ちょっと可愛い顔して、平然と世界を一つくらい救わせてくるタイプのイカれ女神。

 祝賀会のときも、人が本気で願いを口にしてるのを見て、絶対内心ニヤついてた。


「どうせ今も、上から見て笑ってんだろ。『うわー、三十五歳メンタルで二周目高校、エモい〜』とか言って」


 想像すると、腹の立ち具合が増す。


 そんなことを考えているうちに、スマホがブルル、と震えた。

 画面には、メッセージアプリの通知がぽん、と浮かぶ。


『さっき横断歩道で倒れてたの、たぶん神谷くんだよね?

 大丈夫?』


 一瞬だけ、心臓が一拍ぶん強く打った。けれど、名前に覚えはない。

 ――クラスメイト。


 画面の送り主を見て、眉がぴくりと動く。


 火野朱音。


(……そんなクラスメイト、いたか?)

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