アルケリア・クロニクル 〜世界が彼を「バグ」と呼ぶまで。〜

アズマ マコト

序章

『泣かないで――悠久の旅路の果て、原初の願い』

 そこは、輝く星々の地図すら届かない、捩じれた時間軸の果てにある、異なる理(ことわり)に支配された世界だった。


 かつて白亜の列柱が天を支え、清らかな祈歌(きか)が反響していた回廊は、いまや黒煙と熱波が支配する冒涜の墓場と化していた。


 空は堕ちた。

 頭上を圧するのは分厚い鉛色の雲と、それを下から舐め上げる毒々しい紅蓮の舌。崩落した天井の亀裂から降り注ぐのは、神の慈悲たる光ではない。燃え殻と煤(すす)だ。それらは死を告げる黒い雪のように音もなく降り積もり、足元に広がる血の海を粘り気のある泥濘(ぬかるみ)へと変えていく。吸い込む大気は融解した鉄そのもので、呼吸のたびに肺胞が焼け爛れ、内側から焦がされていく錯覚に襲われる。


 もはや、痛みは遠い彼岸にあった。


 右腕の感覚はない。肘から先が砕け、ただの肉と骨の屑となって垂れ下がっている事実を、視界の端が冷徹に捉えているだけだ。左手にしがみつくように握りしめた愛剣は、刀身の半ばから無惨にへし折れている。かつて「聖剣」と謳われ、数多の邪悪を払ったその輝きは、こびりついた脂と泥、そして持ち主の無力さによって曇り果てていた。


 ああ、重い。

 世界そのものが鉛となって、この背骨を軋ませているようだ。


 私は地を這っていた。膝の皮が擦り切れ、肉が泥に混じることなど些事(さじ)に過ぎない。ただ、数メートル先に横たわる「それ」へと、這いずることしか許されていなかった。


 瓦礫の陰、炎の照り返しを受けて、彼女がそこにいた。


 その死に顔は、この地獄においてあまりにも残酷なほど、神々しく美しかった。

 月光を紡いだような銀糸の髪が、どす黒い血溜まりの中で扇のように広がっている。閉じた瞼の静けさは、まるで午後の微睡(まどろみ)の中にいるかのようだ。

 だが、美しかった深い青紫(バイオレット)の瞳は、もう二度と開かれることはない。

 その胸を無慈悲に貫いた槍の傷跡だけが、絶対的な「終わり」を告げている。


 鮮明すぎる記憶が、網膜の裏で再生される。

 死角から放たれた、回避不能の凶刃。私の心臓を狙ったその穂先に対し、彼女は白銀のドレスを翻して飛び込んだのだ。

 躊躇いなど微塵もなかった。ただ私を生かすためだけに、その柔らかな肢体を盾として差し出した。

 貫かれるべきは、この無能な私だったというのに。


 震える指先を伸ばす。砕けた右腕はピクリとも動かない。折れた剣を捨て、泥に塗れた左手で、恐る恐る彼女の頬に触れた。


 冷たい。

 世界を焼き尽くす炎の熱気など無意味なほどに、彼女の肌は陶器のように冷え切っていた。


 指先についた彼女の血が、熱を帯びて皮膚の溝に食い込んでくる。それは単なる液体ではなかった。私の魂に焼き付き、決して洗い流せない罪の烙印となって、血管を逆流していく。守ると誓った。全てを賭して、この笑顔だけは守り抜くと、あの祭壇の前で誓ったはずだった。


 その神が、この結末を用意したというのか。


 喉の奥から、乾いた音が漏れた。それは言葉の体をなさず、血の泡となって唇の端から零れ落ちる。


「……あ……ぅ……」


 絶叫と共に、熱い雫が溢れ出した。流したそばから熱波に焼かれようとも、魂から湧き上がる慟哭は止まらなかった。

 胸の奥底で渦巻くのは、悲嘆などという生易しいものではない。もっとドロドロとした、煮え繰り返るような黒い熱量だ。


 理不尽だ。

 なぜ、清らかな彼女でなければならなかった。なぜ、守れなかった私だけが生き延び、こうして無様に這いつくばっている。

 祈りなど、何の意味もなかった。正しさなど、圧倒的な暴力の前では塵芥(ちりあくた)に等しかった。


 私は、折れた剣の柄を握り直すこともできず、ただ彼女の冷たい亡骸に額を押し付けた。

 視界が赤く明滅し、意識の縁が焦げ落ちていくのがわかる。


「……神よ……」


 掠れた声が、喉の肉を削りながら響く。それは救いを乞うためのものではない。


「……貴様を、許しはしない……」


 この無力な己を。この理不尽な世界を。そして、彼女を奪ったすべての因果を。


「……何度生まれ変わろうとも……この業火だけは、決して忘れない……」


 たとえこの肉体が朽ち果て、魂が砕け散ろうとも、この渇きと憎悪だけは魂の楔(くさび)となって残り続けるだろう。

 愛していた。

 だからこそ、この愛は永遠の呪いとなる。


 視界が急速に闇に塗りつぶされていく。

 最期に残ったのは、世界が崩れ落ちる音と、指先にこびりついた彼女の血の感触だけ。

 意識は深い闇の底へと沈んでいくが、そこには安息など微塵もない。ただ、永遠に癒えることのない傷口が、暗黒の中で赤く、熱く、脈を打ち続けていた。


 ***


 死は終わりではなかった。

 守れなかったという絶望は、魂に焼きつく呪いとなって、私を次の器へと引きずり込んだ。

 もっと力が欲しい。

 理不尽な暴力をねじ伏せ、大切なものを守り抜くための力が。

 そう願って目覚めた世界は、煤と油と、無慈悲な鉄の獣が支配する戦場だった。


 ***


 灰色の雪が、死に絶えた世界を静かに埋葬していた。


 空を見上げても、そこには太陽も雲もなく、ただ分厚い鉛の層が垂れ込めているだけだった。大気が、質量を持ったかのように重い。呼吸をするたびに、ざらついた粒子が肺胞の奥まで侵入し、内側から肉を蝕んでいくような感覚がある。


 視界の先には、かつて文明を誇ったであろう巨大な石塔が、無残にへし折られて並んでいた。天を衝くほど高かったはずのそれらは、いまや煤けた墓標となり果てている。その隙間で明滅するのは、凝固しかけた血液のような、不吉な赤色だけだ。夕焼けのような温かさは微塵もない。それは警告の色であり、この世界が既に終わっていることを告げる信号のようだった。


 大地を揺らす振動が止まらない。

 遠くで何かが崩れ落ちる音が、腹の底を震わせる重低音となって響く。大気が震え、鼓膜を圧迫し続ける。


 男は泥と瓦礫の海を這っていた。

 膝の皮が剥げ、鋭利な石片が掌に食い込むが、痛みは遠い。感覚が麻痺しているのか、それとも恐怖が痛覚を凌駕しているのか。ただ、喉の奥からせり上がってくる鉄の味だけが、自身の生存を辛うじて証明していた。


「……あ……」


 掠れた呼気が、灰色の空気に溶ける。

 視線の先に、小さな影があった。

 崩れた壁の下、瓦礫の隙間に挟まるようにして、少女が倒れている。

 顔は灰に塗れ、表情は読み取れない。ただ、その細い肩が微かに上下していることだけが、彼女が単なる「物体」ではなく、まだ温かい「命」であることを示していた。


 助けなければ。

 思考よりも先に体が動く。泥を掻き、重い石を退けようとするが、腕には力が入らない。まるで深海の水圧に縛られているかのように、すべての動作が緩慢で、もどかしい。


(だめだ、間に合わない)


 根拠のない確信が、冷たい楔となって胸に打ち込まれた。

 その予感を裏書きするように、地面の振動が変わる。


 巨大な質量が、地殻そのものを軋ませるようなリズムで迫ってくる。

 瓦礫の山の向こうから、巨大な影が現れた。

 無限の軌道を鳴らしながら進む、鋼鉄の塊。生き物のような有機的な曲線を持たず、ただ殺戮のためだけに鋳造された「鉄の獣」。その無機質な砲塔が、ゆっくりとこちらへ――いや、少女の方へと旋回する。


 男は手を伸ばした。

 指先が震えている。あと数メートル。いや、あと数センチ。

 少女の服の端に触れようとした、その瞬間だった。


 音が、世界から剥離した。


 すべての空気が吸い出されたかのような、完全な真空。

 大気が張り詰め、肌が粟立つ。

 直後、視界が白一色に塗り潰された。


 熱くはなかった。ただ、圧倒的な光だった。

 空を引き裂く炎の槍が、音速を超えて着弾したのだ。

 衝撃波が遅れて届き、男の体を紙切れのように吹き飛ばす。


 地面に叩きつけられ、肺の中の空気が強制的に吐き出された。

 視界が明滅する。聴覚は機能を失い、錆びた針で神経を直接抉られるような鋭い耳鳴りだけが、脳内で反響していた。

 砂埃が舞い上がり、世界は再び灰色に閉ざされた。


「……ぁ……」


 男は顔を上げた。

 手を伸ばした先を見る。


 そこには、何もなかった。

 少女の姿も、彼女を押し潰していた瓦礫も、彼女が横たわっていた地面さえも。

 すべてが綺麗に抉り取られ、ただ焦げ臭い穴だけが口を開けている。

 血の一滴すら残されていない。

 圧倒的な熱量が、存在そのものを瞬時に蒸発させ、この世から抹消したのだ。


 男の右手が、虚空を掴んだまま固まっている。

 指先に残っているのは、爆風の熱と、ざらついた灰の感触だけ。


 内臓が、冷たい鉛に変わったようだった。

 叫び声を上げようとしたが、喉が痙攣して音にならない。

 ただ、ひゅ、ひゅ、という引きつった呼吸音だけが、自分の口から漏れている。


 圧倒的な力の奔流。

 その前では、人の命など路傍の石ころよりも脆く、儚い。

 守りたかったもの。救いたかったもの。

 それらは意味を成す前に踏み潰され、跡形もなく消え去る。


 熱い雫が、頬を伝って瓦礫に吸い込まれていく。

 枯れ果てたはずの涙が、まだ残っていたことに愕然とする。



 声にならなかった絶叫。灰の舞う中、一瞬だけ光が屈折して——銀色の髪が風に揺れるような幻影が浮かんだ。

 紫水晶のような瞳。かつて失った誰かの面影が、あの少女の中にも確かにあった。

 同じ冷たさで、指先から命が滑り落ちていく感覚。


 再び救えなかった。


 彼の喉から絞り出された叫びは、荒廃した街に虚しく響いた。

 守れなかった。その悔恨だけが、死にゆく世界で唯一の、温かく湿った真実だった。


 鉄の獣たちが、再び駆動音を響かせて進み始めた。

 その無慈悲な響きが、男の意識を黒く塗り潰していく。


 ***


 また、守れなかった。

 暴力の前では、個人の力など無に等しい。

 ならば次は、知恵を。命の理(ことわり)そのものを解き明かし、死の運命すら書き換える知識を。

 血に塗れた泥の中から、魂は再び空へと還り――そして、清潔で冷たい、滅びの静寂に満ちた部屋へと堕ちていく。


 ***


「BP 60/40!心拍数140!」


 救命センターに轟く声。無影灯の光が鋭く照らし出す処置室。


「輸液全開!O型準備!」


 私は手を洗い、急いでガウンを羽織る。36時間目の勤務。頭の中で数字と画像が踊り、目の奥が痛い。


「交通事故。16歳女性。車対自転車。GCS 6。」


 担架に横たわる少女。黒い髪が血で濡れ、顔は蒼白。


 私は瞳孔を確認する。「瞳孔左右差あり!CT準備!」


「先生、BP下がってます!40台!」


「クラッシュシンドロームの可能性。腎不全が始まっている。」


 私は少女の顔を見る。


 その時だった。


 無影灯の光が彼女の髪を照らし、一瞬—銀色に輝いたように見えた。


「...え?」


 私は目を擦る。疲労だ。幻覚だ。


 だが、もう一度見ると、そこには彼女が横たわっていた。


 あの人が。


「違う」


 心の中で否定する。これは患者だ。16歳の少女だ。


「心停止!」


 モニターが警告音を鳴らす。


「除細動器!」


 パドルを胸に当てる。「離れて!」


 ショックを与える。少女の体が跳ね上がる。


 リズムは戻らない。


「エピネフリン投与!」


 CPRを続けながら、私は再び少女の顔を見る。


 銀色の髪。紫の瞳。あの日、私が守れなかった人。


「違う!集中しろ!」


 汗が目に入り、視界が歪む。


「先生、30分経過しました。」


 私は必死に胸骨圧迫を続ける。


「もう一度!」


「先生...」


 同僚の手が私の肩に置かれる。


「もう...」


 私は手を止める。時計を見る。死亡時刻、3時17分。


 少女の顔を見る。黒髪の、知らない少女だ。


 なのに、なぜ—


「また守れなかった」


 私の膝が崩れる。


「先生!」


 誰かが叫ぶ。


 床に倒れながら、私は思う。


 あの人じゃない。あの人じゃないのに。


 あの人は、決して私を責めたりはしない。

 なのに、なぜ私の心は、こんなにも許しを乞いたがるのか。


 ふと、視界が滲んだ。

 無機質な手術室の光が、溢れ出した涙に反射して七色に歪む。


 また、繰り返してしまった。何度、この喪失を味わえば、私は「正解」に辿り着けるのか。


 暗闇が私を包み込む。


 ***


 救えなかった。

 知識があっても、技術があっても、結局は何も救えなかった。

 積み重なる無力感。魂の摩耗。

 もう、何も残っていない。名前も、記憶も、自我さえも。

 ただ「守りたい」という渇望だけが、穴の空いた魂の縁にこびりついている。

 そして、ボロボロになった魂は、最後の重力に引かれて落下する。

 全ての始まりであり、全ての終わりとなる場所――惑星アルケリアへ。


 ***


 夜の帳が裂ける音はしなかった。

 ただ一瞬、世界という名の巨獣が、その呼吸を止めただけだ。


 天蓋の遥か彼方より飛来した蒼白の凶星は、大気の層を音もなく貫通し、地表の理(ことわり)を焼き尽くしながら深淵へと突き刺さった。衝撃波よりも先に訪れたのは、絶対的な静寂である。時が凍りつき、因果の糸がたわむほどの質量を持った「特異点」が、この世界という器に無理やりねじ込まれた瞬間だった。


 その魂――後に「ルシアン」の名で語られることになる光の奔流――は、あまりにも速く、あまりにも悲痛な輝きを放って深奥へと過ぎ去った。

 だが、その苛烈な摩擦によって削ぎ落とされた「残り香」があった。


 本体から剥離した光の粒子。それは凍てついた涙のようであり、砕け散った宝石の粉末のようでもあった。本来ならば虚空に霧散するはずのその儚い輝きは、地下深くに眠る祭壇――四千年の時を経て廃棄され、闇の中で忘れ去られていた失われた文明の遺産へと漂着した。


 静寂は、唐突に破られた。

 地表から降り注いだ、莫大なマナの奔流。それは禁忌に触れた地上の種族(ハイエルフ)に対し、天より飛来した『白い翼』が下した粛清の嵐による余波だった。

 規格外のエネルギー流入が、死んでいたはずの回路を無理やり焼き通す。


『警告(アラート):過剰マナ流入。緊急起動(エマージェンシー・ブート)』


 薄暗い空間に、悲鳴のような重低音が響き渡る。

 ヒュオォォォン……!

 暴走気味に回転を始めた「魔導モーター」が、溢れ出したマナを強制的に物理エネルギーへと変換していく。

 何者かが遺した巨大な臓器のごとき、あるいは忘れられた神殿の心臓部のようなその装置。魔術と超科学が未分化のまま融合した、異形の培養槽。

 表面に刻まれた幾何学的なラインが、深紅の魔導LEDのように激しく明滅し、エラーを吐き出しながら再稼働する。

 空中にホログラムのごとき人工精霊の光粒が乱舞し、壊れた立体術式を描いては火花を散らす。


 泥をこねるような、原始的な生命の生暖かさはそこにはない。

 あるのは、氷が結晶化するような、鋭利で危険な構築の音だけだ。


 光の粒子が、有機的な螺旋を描いて収束する。

 それは無機物の構築ではない。生命の創造そのものだった。

 爆発的な速度で細胞が分裂し、神経が走り、温かな血液が脈管(みゃっかん)を満たしていく。骨格が組み上がり、筋肉がそれを覆い、最後に柔らかな皮膚がすべてを包み込む。

 生成されたのは、まだ幼い、少女の肉体だった。

 まつ毛の一本、指先の爪の曲線に至るまで、神が創造したかのように完璧でありながら、それは紛れもなく「ヒト」としての質感を持っていた。

 月光を織り込んだような銀の髪が、濡れた肩にはらりと掛かる。

 だが、その完成された美貌だけが、どこか作り物めいて静止していた。


 少女の瞼が、痙攣するように震えた。


 意識の海から浮上した瞬間、彼女を襲ったのは「生」の歓喜ではない。

 身を切り裂かれるような、猛烈な喪失感だった。


 寒い。

 痛い。

 足りない。


 まるで身体の半分を根こそぎ奪われたかのような、魂の幻肢痛。あるはずのない心臓の鼓動を探して、胸の内側を爪で掻きむしりたくなるような焦燥。

 彼女の魂は、生まれたその瞬間から、ぽっかりと空いた穴を抱えていた。その穴は極北の風が吹き抜けるように冷たく、どんなに空気を吸い込んでも埋まることはない。


 ここはどこだ。

 私は何だ。

 なぜ、こんなにも「ひとり」なのか。


 その問いに対する答えは、この世界には用意されていなかった。

 だから彼女は、自ら世界を定義するために、その機能(め)を開いた。


 カッ、と。

 少女の瞳が見開かれる。


 そこに宿ったのは、母を求める赤子の濡れた光ではない。

 無機質で、底知れぬ深淵を湛えた、観測者の瞳。

 深い青紫(バイオレット)の双眸。その虹彩の奥で、幾何学的な光紋が激しく明滅する。それは世界という書物のページを、乱暴な手つきでめくり、情報を貪り食う獣の眼差しだった。


 大気の成分、重力定数、魔力濃度、因果律の歪み――。

 視界に映るすべてが、意味を持つ記号として彼女の脳髄へ雪崩れ込む。

 それは知的な探究心などという高尚なものではない。飢えた生物が餌を求めるように、あるいは溺れる者が酸素を求めるように、彼女は「自分に欠けている何か」を探して、世界の構造を解析(み)始めたのだ。


 少女の唇が、わずかに開く。

 言葉を持たぬ喉から、空気が漏れる音がした。


「……あ……」


 それは意味を成さない、世界に対する最初のノイズ。

 硝子細工の少女は、冷たい祭壇の上で身じろぎもせず、ただ虚空を見つめ続けていた。


 だが、その視線の先。

 目には見えない「凍てついた涙」の奔流に、ふと、少女の指先が触れた。


 回路が熱を帯びる。

 プログラムにはない、記述されていないエラー。

 なぜ、この魂はこれほどまでに泣いているのか。

 なぜ、この熱はこれほどまでに愛おしいのか。


 彼女の論理演算(ロジック)がショートし、その奥にある「魂の核」が震えた。

 それは生存本能よりも先に、誰かを守ろうとする、原初のエラーだった。


 少女は、祈るように唇を動かした。


「……な……か……」


 拙い、あまりにも拙い、最初の音。


「……ない……で……」


 泣かないで。


 その一言は、悠久の時を超えて、彼を守れなかった彼女が一番伝えたかった、最初で最後の約束だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る