アルケリア クロニクル

アズマ マコト

第1話黎明の残滓、遠い呼び声

 黎明の狭間、ルシアンは再びあの亡霊に囚われていた。


 墓標のように林立する灰色の塔。人の営みを拒絶する鋼鉄の巨神たちが、空を塞いでいる。警告を告げる赤光が明滅し、彼の心臓の鼓動と同期して世界を染め上げた。その裂け目を、鉄の獣が絶叫を上げて走り抜ける。鼓膜を突き破るほどの轟音。それは、遥か昔に聞き覚えのある、世界の断末魔だった。


 景色が歪む。轟音の向こう、瓦礫の山に誰かがいる。誰かが、彼の名を呼んでいる。

 夢の中の身体は鉛のように重い。必死に瓦礫を駆け上がり、喘ぎながら手を伸ばす。そこにいたのは、砕けた鉄骨の下敷きになった少女だった。絶望に色を失くした瞳が彼を捉え、か細い指先が、最後の救いを求めて虚空を掻く。


「――助けて」


 音にならない悲鳴。

 ルシアンの指が彼女のそれに触れた、その刹那。世界は赤黒い混沌に呑まれ、少女の存在そのものが光の粒子となって霧散した。


「……ッ、は……!」


 飛び起きたルシアンの胸を、暴れ馬のような心臓が内側から蹴り上げていた。乱れた呼気は熱く、喉に張り付く。脳裏に焼き付いて剥がれない夢の残滓。掴むことさえ許されない、しかし彼の魂に深く刻まれた原罪――**守れなかった、という記憶**が、胸の奥で燻り続けていた。


 孤児院の簡素な寝室。窓から差し込む夜明け前の青白い光が、見慣れた家具の輪郭を幽霊のように浮かび上がらせる。夢がもたらした恐怖と、それに抗うように燃え上がる焦燥が、彼の内で激しくせめぎ合っていた。この過去を振り払わぬ限り、未来などない。ルシアンは唇を噛み締めた。


 ---


 夜明け前の薄明かりが、フォルティア中央魔法学院の女子寮、その最上階にある大理石のバルコニーを青白く染めていた。肌を刺す早朝の冷気の中、ミリアはただ一人、手元の銀の水盤を覗き込んでいる。


 彼女はビロードの小袋から、小指の爪ほどの蒼い魔石を取り出すと、水盤の縁に彫られた窪みへと静かに嵌め込んだ。微かな燐光が走り、魔術回路が覚醒する。周囲の大気に満ちるマナが、渦を巻いて水盤へと収束していくのが肌で感じられた。ミリアは静かに、言霊にも似た古語を紡ぐ。


「ウルティ……イクシ……ロトゥ……」


 その呼び声に応じ、収束したマナが光の粒子となって水盤の上で舞い踊る。意思を持つ微小な星々のように、光は瞬く間に神代の紋様を描き出し、蒼く輝く魔法陣を水面の上に顕現させた。


 魔法陣が一際強く明滅した直後、それまで夜の闇を映していた水面が、静謐を湛えた魔鏡へと変貌する。

 波紋一つない水鏡に映し出されたのは、彼女のいる華やかな世界とは隔絶された、古びた石造りの建物。孤児院の庭だ。屈託なく笑い合う子供たちの輪から少し離れた場所に、一人の少年が佇んでいた。傾き始めた夕陽が、彼の痩身の影を地面に長く、長く引き伸ばしている。侯爵家の養女として、望むものすべてを与えられてきたミリアにとって、それはあまりに遠い世界の光景だった。


 ミリアの視線は、その少年にだけ焼き付いていた。名も、顔さえも知らぬ存在。だが、魂の奥底から湧き上がる説明のつかない渇望が、彼女にこの光景を**見せている**。それは焦がれるような痛みにも似て、彼女自身の意思では抗うことのできない、宿命の引力だった。


 水盤の冷たい縁に置かれた彼女の指が、無意識に込められた力で白く色を失う。なぜ、彼なのか。この衝動の正体は何なのか。答えのない問いが胸を締め付ける。今はまだ、こうして遠くからその存在を感じることしかできない。遥か彼方で確かに息づく、己が運命の片割れを。


 ---


 夜明け前の静寂は、いつもと違う響きを持っていた。

 フォルティア共和国、東区画に佇む孤児院の共同部屋。窓枠から滑り込む朝の光は、まだ白く冷たい色をしていた。その光は、始まりではなく終わりの宣告のように、ルシアンの胸を冷たく刺した。


 ベッドの縁に腰掛け、彼は息を殺して床の古びた革鞄を見下ろす。中身は、彼の世界のすべて。着古したシャツが二枚、石のように硬いパン、そして母の形見だと聞かされた一冊の古書。それだけだ。布が擦れる微かな音さえ、眠る仲間たちの穏やかな寝息を妨げるようで、彼の指先は強張った。


 荷造りの手が、ふと止まる。見上げた天井の染みは、見慣れた世界の地図だった。ここで何年過ごしたか。笑い声も、すすり泣きも、すべてがこの壁の内側にあった。家族同然だった温もり。これを手放し、たった一人で生きていけるのか。未知という荒野に裸で放り出されるような恐怖が、足元から這い上がってくる。


 だが同時に、衝動があった。この壁の外には何がある。自分は何者になれる。確かめたいという、焼け付くような渇きが恐怖を凌駕していく。ルシアンは唇を固く結ぶと、最後の一枚を鞄に押し込み、留め金を力強く引き上げた。

 パチン、と乾いた音が虚空に響く。それは過去への未練を断ち切る、決別の音だった。


 鞄を肩に、静かに立ち上がる。二段ベッドで眠る幼い少年たちの無防備な寝顔。散らかったままの木のおもちゃ。すべてが愛おしく、同時に、もう手の届かない景色に見えた。彼は自分の寝床だった場所へ歩み寄り、冷たい石壁にそっと右手を触れる。指先が、幼い日にナイフで刻んだ小さな傷跡を探り当てた。声なき別れを、その傷に刻むように。

 ここは、彼の揺り籠であり、最初の世界だった。


 もう振り返らない。心に誓い、音を立てぬようドアノブを回す。ひやりとした金属の感触が、旅立ちという現実を突きつけた。軋む蝶番の音が静寂を裂き、彼の背中を押す。

 一歩、また一歩。ルシアンは静かに、しかし、二度と戻らぬ覚悟で新たな世界へと踏み出した。


 ---


 孤児院の正門前、朝霧の中にエドガー院長が立っていた。初老の背は少し丸みを帯びているが、その瞳は変わらず穏やかで、深い慈愛と、そして隠しきれない寂寥を湛えていた。ルシアンが歩み寄ると、院長は何も言わずに懐から分厚い封筒を取り出す。


「ルシアン。これを持って行きなさい」


 差し出されたのは、上質な羊皮紙の封筒。流麗な筆記体で『冒険者ギルド・東方支部 受付嬢ライン様』と記されている。


「院長先生、これは……」


「私の古い友人でな。多少口は悪いが、根は優しい。お前のような無一文の駆け出しには、あれくらいが丁度いい」


 院長は茶目っ気たっぷりに片目を瞑ったが、その声は微かに震えていた。ルシアンは封筒を受け取る。ずしりと重い。それはただの紙切れではない。院長が長年かけて築いてきた信用と、ルシアンへ贈る最後の守りだった。


「……ありがとうございます。俺、必ず……立派になって、恩返しに来ます」


「恩返しなどいらん。……ただ、生きて帰ってこい。辛くなったら、いつでも戻ってくればいい」


 その言葉に、ルシアンは強く首を横に振った。ここで頷けば、自分は一生この温かい檻から出られない。


「いいえ。俺はもう、ここには戻りません。……行ってきます」


 深く、深く頭を下げ、ルシアンは門に背を向けた。一度だけ振り返りそうになるのを、固く握りしめた拳でこらえる。

 背に突き刺さる院長の視線が、朝霧よりも濃く、そして痛いほどに温かかった。


 ***


 フォルティア共和国の冒険者ギルドは、いつだって生存者たちの熱気と死臭で澱んでいた。

 ルシアンが黒ずんだ樫の重い扉を押し開けると、濃密な空気が奔流となって彼を殴りつけた。それは、燻された獣脂、錆びた鉄、安酒、そして乾ききらない血の匂いが混じり合った、命の残滓そのものだった。孤児院の日に焼けた木の匂いや、魔法学院の冷たい石とインクの香りとはまるで違う、生の暴力性がそこには渦巻いていた。


 広大なホールの石床は、長年踏み固められて黒光りしている。ホールの壁の一角に鎮座する巨大な依頼掲示板には、羊皮紙から獣のなめし革まで、出自も知れぬ無数の依頼書が、まるで瘡蓋のようにびっしりと貼り付いていた。その前では、歴戦の傷跡を刻んだ傭兵たちが唸るように言葉を交わし、テーブルではフードを目深に被った術師たちが、血の染みのついた地図を囲んでいる。鎧の擦れる音、鞘に納まる剣戟の微かな残響、意味を成さない怒号と笑い声。あらゆる音が混じり合い、一つの巨大な生き物の呼吸のようにホールを満たしていた。


 その圧倒的な生命力の濁流に一瞬息を呑みながらも、ルシアンは覚悟を決めて足を踏み入れた。目指すは、ホールの奥に長く伸びる受付カウンター。そこだけが、この混沌とした空間で唯一、秩序を保っているように見えた。冒険者たちが作る無骨な列の最後尾に、彼はそっと身を滑り込ませた。


 祈るように待った時間は、永遠にも感じられた。やがて彼の番が来る。カウンターの向こうには、柔らかな茶色の髪を肩で切りそろえた女性が座っていた。糊のきいたギルドの制服は、周囲の荒々しさとは不釣り合いなほど清潔で、彼女の存在だけがこの場所の時間の流れから切り離されているかのようだった。


「こんにちは。ご用件を」


 女性は、ルシアンの歳不相応に強張った顔を見つめ、静かな声で問いかけた。その目は、ただの子供に向けるものではない。品定めをするような、鋭い光が宿っていた。ルシアンは一度だけ固く目を閉じ、震える指で懐から封筒を取り出した。長年彼を縛りつけ、そして今、唯一の希望となったエドガー院長の手による、蝋で厳重に封をされた一通の手紙だ。


「……エドガー院長からの、紹介状です。ライン様にと……」


 ライン、という名に、女性の眉が僅かに動いた。彼女は無言で封筒を受け取ると、慣れた手つきでペーパーナイフを滑らせる。中の便箋に目を通す彼女の表情は凪いでいたが、ルシアンにはその静けさが嵐の前の海のようにも思えた。この数行のインクが、彼の運命を決定づける。


「……あの石頭のエドガーが、ね。雪でも降るかしら」


 ラインは手紙から顔を上げると、初めてルシアンを真正面から見据えた。その視線は探るようで、試すようで、そしてほんの僅かな慈悲が滲んでいた。ギルドという怪物の入り口で、自分がひどく矮小で、場違いな存在に思えてならなかった。


「それで……登録は……」

「ええ、もちろん。……ただ」


 ラインは言葉を切り、表情から一切の感情を消した。それは事務的な冷たさではなく、これから告げる言葉の重みを相手に理解させようとする、大人の顔だった。彼女はカウンターの下から一枚の羊皮紙を取り出す。


「ルシアン君、あなたは九歳。ギルド法では十二歳未満の登録には『保護観察期間』が課せられる。聞いている?」

「保護……観察……?」

「要するに、一度の失敗も許されないということ」


 ラインは羽ペンを指先で弄びながら、淡々と、しかし残酷なほど明確に告げた。

「最初の三ヶ月、あなたが受けられる依頼はDランク以下の『市内雑務』か『薬草採取』のみ。戦闘行為は一切禁止。もし、この期間中に重大な規律違反、あるいは無謀な行動で問題を起こせば……登録は即時抹消。あなたは敗北者として、孤児院へ強制送還される」


 ごくり、と喉が鳴った。強制送還。あの息の詰まる場所へ、無力な子供として連れ戻されること。それは彼にとって、死よりも耐え難い屈辱だった。ルシアンの瞳の奥に、恐怖と反骨の炎が同時に燃え上がるのを、ラインは見逃さなかった。


「……やります。無茶はしません。ですが、必ず……結果は出します」

「いい目ね。あの石頭が心配するわけだわ」


 ラインはそこで初めて、悪戯っぽく口の端を吊り上げた。

「もう一つ。ギルドには『年少者育成枠』という制度がある。最低限の装備一式と、この建物の三階にある寮室を貸与しましょう。お代は『出世払い』。……あなたが一人前の冒険者になって、稼いだ金で、利子をつけて返済すればいい」


 それは、野垂れ死にを覚悟していたルシアンにとって、神の恵みにも等しい申し出だった。だが、彼は安易に飛びつかない。無償の施しの裏にある『対価』の存在を、そしてそれが未来永劫自分を縛る『借金』であるという事実を、本能で理解したからだ。


「……出世払い。もし、俺が稼げなくなったら……」

「その時は、ギルドの終身奴隷コースよ。食堂の皿洗いから便所掃除まで、死ぬまで働いて元を取らせてもらうわ」


 ラインは冗談めかして笑ったが、その目は笑っていなかった。ここは弱者に手を差し伸べる慈善施設ではない。甘えは、死を意味する。その容赦のない現実が、逆にルシアンの心を奮い立たせた。子供ではなく、対等な契約者として扱われている。それが誇らしかった。


「分かりました。……その契約、受けます。俺は絶対に、皿洗いでは終わらない」

「契約成立。ようこそ、冒険者ギルドへ。――坊や」


 ラインが差し出した手を、ルシアンは小さな両手で、骨が軋むほど強く握り返した。その手は大きく、温かく、そして微かにインクと血の匂いがした。


 ◇


 夕暮れの陽光が、ギルドのステンドグラスを血のように赤く染めていた。ホールに渦巻く無数の埃が、その光の中で金色に乱舞している。ルシアンがギルド併設の酒場エリアに足を踏み入れた瞬間、むせ返るような熱波が彼の顔を撫でた。それは人の密集によるものではない。死線を潜り抜けた者たちが吐き出す、あまりにも生々しい生命力の発露そのものだった。


 昼間の事務的な空間とはまるで違う、混沌と喧騒がそこにあった。荒削りなテーブルには巨大なエールジョッキが叩きつけられ、あちこちで獣のような咆哮と爆笑が交錯する。鎧を脱ぎ捨てた戦士、ローブを緩めた魔術師、得体の知れない獲物を背負った斥候。誰もが、今日一日を生き延びたという事実だけで、世界を征服したかのようなオーラを放っていた。


「おい、新入り! 突っ立ってると踏み潰すぞ!」


 通りすがりのドワーフが、豪快に笑いながらルシアンの肩を突き飛ばした。その拍子に、黒鉄麦のエールが彼のブーツに飛び散る。慌てて身を引いたが、ドワーフは振り返りもせず仲間たちの輪に消えていった。

 誰も彼に敵意は向けない。だが、誰も彼を「一人前」として見てはいなかった。ここでは実績だけが身分証だ。名も無き子供など、風景を構成する染みの一つに過ぎない。


 ルシアンはホールの隅にある長椅子に、まるで亡霊のように腰を下ろした。隣では、傷だらけの革鎧を着た二人組が、今日の戦果を肴に酒を呷っている。


「……オークの右腕を俺が断ち割った瞬間だ。背後からお前の岩槍(ロックランス)が奴の脳天を砕いた。完璧な連携だったな」

「へっ、てめえが囮になって時間を稼がなきゃ、俺の詠唱は間に合わなかったさ。感謝しろよ、なあ」


 彼らの言葉は、ルシアンの知らない世界の響きを持っていた。それは、今の自分には到底手の届かない、血と栄光に満ちた物語。彼はただ、その物語の片鱗を、息を殺して聞いていることしかできなかった。


 ***


 祝祭の轟音が、酒場の梁を震わせる。高らかに打ち鳴らされたエールのジョッキから、黄金色の泡がこぼれ落ちた。戦いを終えた男たちの間には、言葉はほとんどない。ただ、疲労の滲む笑みと、互いの呼吸を読むだけで通じ合う、死線を越えた者だけが湛えることのできる濃密な信頼が満ちていた。

 その熱狂の片隅で、ルシアンは己の小さな掌をじっと見つめていた。今日一日、鞘から抜かれることすらなかった剣。誰の命も守れず、誰の血も浴びなかった、あまりに無垢な手。


「……いつか、俺も」


 絞り出した声は、生存者たちの交響曲にかき消されて、誰の耳にも届かない。だが、その音にならなかった誓いは、彼の臓腑の奥深くで確かな熱を帯びた熾火となった。この場所に、自分の席を。あの背中と肩を並べて、同じ祝杯を掲げる日を。その日まで、決して。


 酒場の喧騒は、もはや単なる音ではなかった。遠い未来から彼を呼ぶ、血と栄光の預言そのものだった。


 ***


 月光が、剃刀のようにギルド寮三階の窓から差し込み、殺風景な個室の床に零れた牛乳のような光溜まりを作っていた。軋むベッド、小さな木机、衣類を収める簡素な箪笥。それだけが部屋のすべて。何十人もの寝息と悪夢が渦巻いていた孤児院の共同部屋に比べれば、この静寂は天国のはずだった。だが、今のルシアンには、その静けさがあまりに広漠として、心許なかった。


 ベッドの縁に腰掛け、窓の外を眺める。見知らぬ街の石瓦の甍が、月の光を鈍く反射しながら波のように連なっていた。その先には、外壁の黒い背骨が横たわり、その向こうには、名も知らぬ魔物たちが闇に蠢く荒野が広がっている。

 院長との永遠のような別れ。冒険者ギルドという巨大な生き物の胎内で感じた熱気。ラインと交わした、命の重さを持つ契約。そして、あの酒場で見た、英雄たちの背中。あまりに多くを飲み込んだ一日が、これから始まるであろう長大な旅路の、まだ最初の頁に過ぎないことを、彼は皮膚で感じ取っていた。


「……っ、ふぅ」


 肺の底から息を吐き出し、仰向けに倒れ込む。古びたスプリングが、拷問されるような悲鳴を上げた。硬いマットレスの感触が、現実の輪郭を背中に刻みつける。もう、朝を告げる声はない。温かい食事を用意してくれる手もない。明日からは、この身一つで、己の命を繋いでいかなければならない。


 不安がないと言えば、それは欺瞞だった。胃の腑には、強制送還という言葉が呪いのように冷たい石となって沈んでいる。だが、その恐怖の石を溶かすほどの熱病のような高揚感が、彼の全身を駆け巡っていた。未知へ踏み出すことへの、原始的な歓喜が。


 天井の闇に向かって、ルシアンは右手を伸ばす。何かを掴もうと虚空を掻き、やがて、指の一本一本に意志を込めて、強く、強く握りしめた。


「……やってやる。絶対に」


 それは誰に聞かせるでもない。己の魂に刻みつける、最初の契約だった。目を閉じれば、孤児院の消毒液の匂いとは違う、古い木材とランプの油、そして壁や床に染みついた微かな血と汗の匂いがした。それが、冒険の匂いなのだと直感した。


 やがて、少年の規則正しい寝息だけが、部屋を満たしていく。月の光が静かに床を渡り、世界のどこにも等しく、夜は更けていった。

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