どうしようもない僕に、天使は傘を差し出した

@aikaname

どうしようもない僕に、天使は傘を差し出した

雨は、言い訳みたいに降っていた。

 駅前のネオンも、コンビニの光も、濡れたアスファルトに滲んで、全部が「今さら何をしても遅い」と言っている気がした。


 喧嘩の原因は、ほんとうにくだらない。

 彼女――美咲が「たまにはちゃんと休みなよ」と言ったのに、僕は「誰が食わせてると思ってるんだ」と返した。


 言った瞬間に、胸の奥で何かが折れた。

 そんな言い方をしたかったわけじゃない。

 でも、疲れたときの僕は、いちばん近い人に向かっていちばん鋭い刃を振り回す。そういう、どうしようもない癖がある。


 美咲は、顔を上げなかった。

 ただ小さく、息を吐いて、コートの袖で目元を拭いた。


「……もう、いい。今日は帰る」


 玄関のドアが閉まった音が、マンションの廊下に薄く響いた。

 それだけで、部屋の空気ががらんとした。

 テレビの音も、冷蔵庫のうなりも、急に他人の生活みたいに遠くなる。


 追いかけるべきだった。

 「ごめん」と言えればよかった。

 けれど僕は、ソファに沈んだまま、天井の染みを数えた。


 しばらくして、耐えきれなくなった。

 外に出れば、何かが変わるような気がした。いや、変わらないと分かっているからこそ、変わるふりをしたくなった。


 傘も持たずにエレベーターを降り、雨の中に立った瞬間、冷たい水が襟から入り込んだ。

 それでも僕は歩いた。どこへ行くでもなく、ただ濡れるために。


 公園の手前の路地で、僕は立ち止まった。

 街灯の下に、白いものが揺れていたからだ。


 最初は、ビニール袋かと思った。

 けれど近づくと、それは人だった。


 淡い色のワンピース。靴は濡れて泥がついているのに、本人だけは雨に濡れていない。

 手にしている透明な傘の上で、雨粒が弾かれて、音だけが落ちていく。


 彼女は、僕を見るなり言った。


「あなた、言葉を落としてます」


「……は?」


 僕の足元を指さして、彼女はしゃがんだ。

 濡れた地面から、何かを摘まみ上げる。見えないはずのそれを、彼女は指でつまみ、息を吹きかけた。


 ふっと、胸が痛んだ。


「今、ここで落とした」


「落としてませんよ」


 彼女は立ち上がる。

 僕に向けて、摘まんだ“何か”を差し出した。


「玄関で落とした。あの人に渡すはずだった言葉」


 喉の奥が詰まった。

 ――ごめん。

 僕が言えなかった、たった二文字。


 彼女は、僕の顔を真剣に見つめたまま言う。


「拾ってあげます。拾えるのが、私の仕事だから」


「仕事って……君は、何者なんだ」


「天使、って呼ばれたりします。呼び方は人間の都合ですけど」


 冗談だと思いたかった。

 でも、彼女の声には、冗談特有の照れも笑いもなかった。

 ただ、事実を事実として置くだけの、静かな確かさがあった。


「じゃあ……僕は、どうしようもないってことか」


「どうしようもない人ほど、言葉を落とすんです」


 刺さる言い方なのに、なぜか痛みが少なかった。

 それは、責めている声じゃなかったからだ。

 むしろ、諦めずに“回収”してくれる声だった。


 彼女は傘を傾けて、僕の肩まで雨を遮った。


「行きましょう。落とした場所に、落とした相手がいるなら」


「……美咲は、もう家に――」


「いるかもしれない。いないかもしれない。

 でも、あなたの足は今、そっちに向かってます」


 僕の足が、いつの間にかマンションの方へ向いていた。

 気づいた途端、情けなさで笑いそうになる。


「……僕は、謝ったって、どうせまた同じことをする」


「その可能性は高いですね」


「はっきり言うな」


「はっきり言わないと、あなたは自分に嘘をつく」


 彼女は、傘の柄を握り直した。


「でも、同じことをする人でも、謝れる人はいます。

 落とす人でも、拾い直せる人はいます」


 雨音の向こうで、心臓が一度、大きく鳴った。

 たったそれだけで、僕の胸の中に、ほんのわずかな道ができた。


 マンションのエントランスに着くと、宅配ボックスの前に、美咲がいた。

 スマホを握ったまま、画面が暗くなっているのに気づかないようで、ぼんやりと立ち尽くしている。


 僕は、声をかけられなかった。

 怖かった。拒まれるのが。

 それ以上に、もう一度傷つけるのが。


 天使の彼女が、小さく僕の背中を押した。


「落とした言葉を、落としたままにしないで」


 僕は息を吸って、吐いて、それでも足りなくて、もう一度吸った。


「……美咲」


 彼女が振り向く。

 目が赤い。

 それだけで胸が潰れそうになった。


「さっきは……ひどいこと言った。

 あれは、本心じゃない。……いや、本心じゃないって言い方も卑怯だな。

 疲れてたとか、仕事がとか、そんなの理由にならない」


 言葉が喉でつっかえる。

 天使の彼女が、そっと指を鳴らした。


 不思議なことに、胸の中の詰まりがほどけた。

 たぶん、僕が落とした“言葉”を、戻してくれたのだ。


「ごめん。

 君が心配してくれたのに、僕は君を傷つけた。

 ……ほんとに、ごめん」


 美咲は、しばらく何も言わなかった。

 やがて、目を伏せて、短く笑った。泣き笑いの、弱い笑い方。


「……遅いよ」


「うん」


「でも」


 美咲は、僕の濡れた襟に指を伸ばして、くしゃっと掴んだ。


「風邪ひく。バカ」


 それが、許された言葉だと分かった。

 僕は、情けないほど安心して、目の奥が熱くなる。


 そのとき、ふと気づく。

 天使の彼女が、エントランスの外に立っていた。

 透明な傘をたたみ、雨に濡れる気配もなく、僕らを見守っている。


 僕が視線を送ると、彼女は小さく手を振った。


「ありがとう」と言う前に、彼女は口の形だけで告げた。


――落とさないで。

――落としても、拾い直して。


 音は聞こえないはずなのに、なぜかこの二言は間違いなく僕に伝わった。

 そう理解した次の瞬間、そこにはもう、誰もいなかった。

 雨だけが降り続いていた。


 美咲が僕の手首を掴む。


「……帰ろ。ちゃんと話して、ちゃんと寝よ」


「うん」


 僕は頷いて、彼女の指の温度を確かめる。

 僕の手はまだ冷たい。

 でも、今なら――この冷たさに言い訳をしないで、ちゃんと温めにいける気がした。


 どうしようもない僕に、天使は舞い降りたんじゃない。

 たぶん、傘を差し出しただけだ。


 濡れるか濡れないかは、僕が選ぶ。

 その当たり前を、今日だけは、ちゃんと選べた。

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