カルメンと私
藤田真暢
本文
私、カルメンになる。
「ミュージカルは真性アートじゃないからね」
深雪と同じオーディションに落ちた
「こんなことなら、音大付属生限定になんかしなきゃよかったのに」
励ましでもなく、応じる。
「だよね」
横田さん程度の歌い手ならどこにでもいるという言葉を茉白は口にしなかった。口に出すまでもないことだから。
なのに、そんな話が深雪にかかると「私、もうダメだ。ミュージカルさえ歌えないのに、オペラ歌手になれるわけがない。才能ないんだ。どうしてオーディションなんか受けたんだろう。恥ずかしいよ」とひたすら自分を責める話に変わる。横田さんはルックスと表情の豊かさだけで役を勝ち取ったんだよと慰めても無駄。ある意味、怪物なんだな、深雪は。他人なんて眼中にない。ひたすらme,me,me.良きにつけ、悪しきにつけ。あーダメだ、私。ねえ
あんなに落ち込んだのにカルメンになると言い出すなんて、深雪はやっぱり怪物だ。もちろん、オペラ歌手になる気なら選抜されることに慣れるしかないけど、『カルメン』のタイトルロールは深雪には無理筋すぎる。上松さんや山中さんもいるし、あんたには厳しいよとはっきり告げた。自分は含めない。私もメゾだけど、カルメン向きじゃない。ケルビーノのようないわゆるズボン役があるタイトルなら、ああもうこれは私のための舞台だと思えるのだけど。
カルメンは。彼女のあの情熱は私にもあるかもしれない。深雪を愛するようになって、カルメンの情熱が理解できるようになった。これがもし、深雪がケルビーノをやりたいという話なら(深雪は当然伯爵夫人を目指すから、架空の話だけど)、適当な口実をでっち上げてオーディションをパスする。深雪が少しでもケルビーノに近づけるように。私が辞退したところで深雪がケルビーノになれるわけではないけど、あの子と競いたくない。というか、深雪のためならオペラさえ捨てられるということを証明したいのかもしれない。だけど、カルメンは誰かのために自分を犠牲にするような女じゃない。彼女は自分だけを愛する女だ。私とは違う。私は自分を愛せない。自分にナイフを突き刺す女だ、私は。そんな自分を隠して軽薄な少年を演じることはできるけど、カルメンは無理。カルメンにはなれないとわかっているので、深雪のために自己犠牲は払えない。払うふりもできなかった。
「難しいって、どういうこと? 言っとくけど、私音域は広いんだからカルメンだって歌えるよ」
深雪は食ってかかるような口調で私に反論した。顔がこわばって、苛立ちと不安両方を放射していた。
「音域的に歌えるのは知ってるけど、深雪の強みは高音部の厚みと幅の広さなんだから、カルメンは深雪の良さを消してしまうと思うな。オーディションを受けるなら、ミカエラ役にしたら?」
ミカエラも深雪の声質からは少し外れる。もっとミカエラ向きの子が一人いるけど、深雪のようにずば抜けた才能というわけではない。卒業公演だから、ずば抜けた才能を持つ生徒が選ばれるかもしれないと頭の中で深雪が歌う姿を思い描いた。
「ミカエラには、私、全然感情移入できない」
「確かに面白みに欠ける役だけど、ありきたりな役を掘り下げるのも面白いかもよ。彼女は本当にただの従順な女だったのか考えてみたら?」
「掘り下げたって、カルメンの引き立て役でしょ、ミカエラは」
「だとしても、重要な役だよ」
オペラ『カルメン』で名前のある役がつくのは十人ぐらいだ。ミカエラは準主役だし、ソロのアリアもある。ビゼーらしいきれいな曲だ。キリ・テ・カナワのバージョンでミカエラのアリアを脳内再生してみた。想像していた以上に深雪に合った曲に思えた。でも、深雪はすくっと立ち上がり、「ハバネラ」を歌い始める。
恋は野の鳥
飼い慣らせない
呼んでも無駄よ
どうせ断られるんだから
脅しも祈りも役に立たない
喋る男と無口な男なら
私は無口な男が好き
何も言わなくていい
それが恋
それが恋なの
燃えるような目で私を見つめながら、深雪はカルメンになりきっていた。
*
ただの友達なら、深雪とはとっくに切れていただろう。深雪はわかりやすいタイプのわがままな性格とは違う。逆に余計なことまで気を遣う方。だから、私と仲良くなったんだと思う。私は気を遣われるのが苦手だし、それをはっきり態度で示す。深雪は私といると気が楽なんじゃないかな。
表面的には人にすごく気を遣うのに、深雪は根っこの部分では自分にしか興味がない。よくまあここまで自分に執着できると呆れてしまう。ナルシストならわかりやすいけど、そういうわけではないので、深雪を好きになるまで気付けなかった。自分に否定的なのに、そんな自分にしか興味がないのが深雪だ。そりゃ、私だって自分は気になる。だけど、他人にも興味があるし、他人と比べて自分を相対化したいし、何でもかんでも自分、自分とは思わない。自分より他人に注目したい時もある。他人のイベントを乗っ取りたいとも思わない。矢野先輩がコンクールで優勝した時も、深雪は先輩の快挙には興味がなく、祝賀会に
深雪と続いているのは、セックスがあるからだ。苛々していても、体を
「ハバネラ」を歌い終えた深雪は、歌唱の感想をヒデコに尋ねた。ヒデコは大絶賛。オーディションでは審査員の心を釘付けにするでしょうとまで言ってのけた。当然だ。ヒデコは人を励まし、賞賛するAIなのだから。数学の吉岡先生の話では、分析型や帰納型のAIは人気がなくて廃れたのだそうだ。ただし、ヒデコだって「改善点を教えて」と頼めば、辛口の批評をくれる。辛口というか、さっきのあの褒め言葉は何だったの? と呆れるほどの手のひら返し。でも、深雪はその問いかけをしなかった。そんな深雪に苛立ったけど、改善点を訊いてみなよとは言えなかった。意気地のない自分にも苛立ち、いっそカルメン役に応募しようかと考えた。上松さんがカルメンを射止めれば、代役に選んでもらえるかもしれない。体格が似ているから、彼女の衣装をそのまま流用できる。「カルメンになる」なんて言っているけど、全然カルメン向きじゃない私だって、あんたよりはカルメンに近いんだよ。深雪にそう気付いてもらいたかった。……だけど、深雪と触れ合うと苛立ちや意地悪な気持ちは消えた。メルセデス役に応募しようかと考え直す。カルメンの友人。舞台にいる時間は長いしカルメンたちとの三重唱もあるけど、私でも十分こなせる。オーディションの前にはナーバスになるに決まっている深雪を支えるために、私も現場にいた方がいいだろう。オーディションを受けるつもりはないという茉白にフラスキータ役を勧めたりもした。フラスキータもカルメンの友人でメルセデスと一緒にいる。
「他の役で落ちた人よりその役を第一希望にした人を優先するみたいだから、翠も私も合格しそうだね」
茉白がそう言ったのは、うまい子はみんなカルメンかミカエラを希望するからだ。ミカエラ役に落ちた子をフラスキータ役に振り替えたりはしないってこと。
「卒業公演は拘束時間が長いからパスしようと思ったけど、翠が一緒なら楽しそう。大石先生が演出だから、現代風のプロダクションかな? ロマの衣装を着れるならもっと楽しいのに」
「現代風でも、私たちが着たことないような変わった服になるよ」
茉白は、歌詞はうろ覚えで「カルタの歌」を歌い始めた。私もそれに続く。茉白とは気が合うし、声質も合っている。私はカルタで恋を占うロマの女になりきる。深雪を忘れ、ロマの女が憑依した自分になった。でも、歌い終えて--実際にはこの後すぐにカルメンが歌い始める。そのシーンを思い描いて、深雪には無理だとはっきり悟った。「ハバネロ」では歌の精が味方してくれるけど、このシーンでは観客はありのままの深雪の歌を聴く。
深雪がいない舞台で私は何をしたいのだ。
「卒業公演だから、やっぱり自分が好きなアリアを歌おうかな」
思わず言った。卒業公演ではオペラや交響曲(今回はチャイ5)に出ない音楽科の生徒はソロや少人数で出演する。オペラの合唱は普通科の音楽好きな生徒の担当だ。音大の付属校なので、普通科でも歌や楽器が得意な生徒が多い。
「それもそうだね」
茉白は私の突然の変心をあっさり受け入れてくれる。こんな時にそれって私のせい? 私のせいで気が変わったの? と落ち込む深雪とは大違いだ。
「さっきちょっと思ったんだけど、『気高くも美しき花嫁』を一緒に歌わない?」
「あ、いいね」
笑顔がこぼれた。シュトラウスのオペラ『薔薇の騎士』。ゾフィーとオクタヴィアンの二重唱。小品だけど歌い甲斐のある曲だし、私たちの声質にも合っている。同じ曲が重ならないように調整しなければならないけど、他に希望者はいないだろう。高一高二と私はズボン役のアリアを独占してきたのだから。
*
放課後、正門の近くで牧野助手に声をかけられた。牧野さんは管弦楽部の指揮者平田さんの助手で、地元のセミプロオーケストラのコンマスでもある。そのオケがマーラーの『復活』をやった時に聴きにいったのがきっかけで話すようになった。オペラ歌手になりたいのに、一番好きな作曲家はオペラを作らなかったマーラーだ。人生をやり直せるなら金管楽器を学んでマーラーのシンフォニーに挑戦したい。
「中原君、『カルメン』のオーディションに応募しないんだって?」
「メルセデス役もいいかなと思ったんですが、田中さんと『薔薇の騎士』をやることにしました」
茉白も『復活』を聴きにいったので、牧野さんと面識がある。
「オクタヴィアンとゾフィーの二重唱だね? 君ら向きの……そこそこ難曲だが、君らなら入賞できるんじゃないか」
「入賞は別にいいんです」
オーディションに落ちたら、深雪は気持ちをソロ発表に切り替えられないだろう。入賞も狙えない。私が入賞したら、ますます落ち込んでしまう。
「それよりもいい機会だからホフマンスタールの作品を読んで、郷愁という感覚を理解したいです」
『薔薇の騎士』を聴くと感じる、泣きたくなるような寂しさ。でもそれは私のものではない。一流の音楽のおかげで生じる借り物の感覚だ。あの感覚を心でつかみ取らなければ、いい歌手にはなれない。未来に憧れるのは無理だけど、過去なら愛おしく思うことができるかもしれない。自分が生まれる前の過去なら。
「研究熱心なのは、中原君の強みだ」
「ありがとうございます」
「でも、それに囚われすぎだ」
えっと思う。牧野さんがそんな踏み込んだことを言うのは初めてだ。
「どうして冒険しないんだ?」
「カルメンは私の声に合いません」
そのことだろうと思って答えた。
「ただの思い込みじゃないのか。中原君ならもっとやれる……なんて言うとクソかっこ悪い青春ドラマのセリフみたいだけど、レパートリーのことなら、事実だからな。君はまだ高校生なんだぞ。役を絞るには早すぎる。知識を詰め込んで批評家になったり、自分をプロデュースしたりするのはもっと後でいい。……君は、ゴーグを着けるなという教えをきっちり守っているけど、生の感覚で勝負せずに自分がゴーグになろうとしている。それじゃ、ゴーグを着けずにいる意味がない。思考や分析で壁を作らず、心で感じてみろ。自分で一歩踏み出して、冒険するんだ」
そう言って牧野さんはにっこり笑い、歩き出した。
私のことを何も知らないで。そう思いながら、駅に向かって歩いた。他の子とは違い、私は自分で何でも決めるしかない。間違わないように、あちこちに気を配りながら。覚えてないけど、ろくに話せないうちからお店や街で流れる曲を覚えて歌っていたらしい。一度聴けば覚えるし、難しい曲でも平気で歌う。母は私をアイドル塾に入れた。歌がうまいならアイドルになれる、ぐらいの知識しかなかったのだ。私はアイドルになれるほどかわいくないけど、横田さんが音大付属小に合格したのと同じように、ルックスはゴーグが修正する前提で受け入れてもらえたのだと思う。歌の先生がいたのは覚えている。弾き語りできるアイドル路線も検討されたのか、ピアノも教えてもらえた。小三からは、班に分かれて競い合う雑魚アイドルになった。私はローンウルフ班--群れない子が集まったという設定の班に入った。設定というか、私の場合実際に群れない子だったけど。アイドル活動には興味がなく、特にキャピキャピ笑うのが苦痛だった。ローンウルフ班はキャピキャピ度が低めだったけど、笑わなくていいわけではない。笑ったり元気にガールズトークをしたりする合間に他の班の子たちと競い、お互いを挑発した。ただの設定の筈なのに、現実と仮想の区別がつかなくなって、他の班の子たちを嫌うようになった。今私には嫌いな子がいないけど、あの頃負の感情を使い果たしたんじゃないかと思う。津山さんがイドバタに三浦さんの悪口を(小学生のくせに高校生と付き合っていることを赤裸々に)書き込んだのもいつもの延長だ、と思った。感覚が麻痺して、それほど悪いことには思えなかった。ただ、その悪口は嘘だったので、三浦さんの班の子たちが問題視して、津山さんは締め上げられることになった。最初に、あの記事を書いたのは私じゃないと言い張ったのが悪かった。その後、ヒデコが考えた文章をコピペしただけだと訂正したけど、時既に遅し。AIに責任を押し付けるなんて、とファンが離れた。私たちも津山さんを止められなかったことの責任を問われた。私はあの時を再現する。繰り返し。繰り返し。現実とは違う道を行く自分を夢想する。思い出したくないこと、醜いことをしてしまったから。私たちはローンウルフなのだから、津山さんは一人で責任を負うべきだと突き放してしまった。優しさのかけらもない冷酷な狼。私たちはそう呼ばれて、津山さん共々プロジェクトから放逐された。後で思えば、ローンウルフである私たちには勝ち目はなかった。他の班の子には親がついて、話すこともイドバタに書き込むことも全てチェックしていたのだ。津山さんの事件でも、母親たちはありったけの知恵を絞ってライバルである私たちを追い落とそうとしたに違いない。イドバタで話題になった『ありのままの私』という手記を覚えている人もいるだろう。「母親の支配から逃れて、これからは自分の言葉で話したい」という内容の。あの手記を書いた子を知っている。アイドル時代のライバルの一人だ。あれを読んで、何のビジョンもなくアイドル活動を続けていた自分を憐れんだ。ありのままに、隙の多い人生を送っていた幼い自分を心で追いかけた。
もう失敗はしたくない。だけど、迷った時に誰かに相談したくても、私にはアイドルになれなかった娘を泣いて責めるような親しかいないのだ。何一つ助けてくれないどころか、私に罪悪感を押し付けるだけの親。私は自分で決めた道を進むしかない。蹴落とされずに済む、安全な道を。
だけど。親を頼れないのは深雪も同じだ。深雪の両親はお金持ちだけど芸術には全く興味がなくて、音大付属の受験にも反対した。進学校から有名大に進んでほしかったみたい。最終的に折れたのは、深雪の成績では進学校には行けそうにないと理解したためだ。深雪が不安定な性格なのは、親に認めてもらえないせいなんだろうか。私とは違い、深雪は両親を愛している。親に認めてもらうために必死なのかな。--何にしても頼れる相手がいないというのは、道を狭めてしまうことの言い訳にはならない。深雪のように果敢にチャレンジする子もいるのだから。結果が出なくても、得られるものはあるだろう。牧野さんが言うように、私はまだ高校生だ。失敗は傷にはならない。不祥事でアイドルをやめさせられるのとは話が違う。わかっているんだけどね。わかっているのに、どこかで怯えてしまっていた。牧野さんのおかげで、布団の中から這い出せるだろうか。
などと言いながら、結局、私がカルメン役に名乗りを上げたのは深雪に冷たくされたためだった。「私もカルメン役に応募しようかな」と話した時、深雪は「ふーん」としか言わずどんな意味でも心を動かされた様子がなかった。私を恐れもせず、ライバル心を閃かせもしなかった。私が何をしようとどうでもいいようだった。そのくせ、そのすぐ後で私の体を求めてきた。普段と同じように。
私はカルメンになる。そう決めた。
*
授業料無償制度がなければ、音大付属には通えなかった。個人レッスンを受ける余裕はないので、普段は無料のV動画を見て自分で練習している。でも、カルメンになるためにジャズ部のトレーナー三上さんに教えを乞うことにした。三上さんは大学院で音楽教育を研究している。お金を稼ぐためにジャズ部で教えているけど、クラシックの声楽指導が本職だった。前にジャズ部の練習を見学した時、この人に教わりたいと思った。
オーディションまでは二週間しかないので、やれることは限られているけど、声に深みを出す特訓を繰り返した。三上さんは私に技巧を封印しろと指示した。V動画にはスキル磨きを奨励している番組が多いし、成功するとうまくなった気にもなれるけど、高三で技巧に走るのは早すぎる--先にやることはいくらでもあると言われると合点がいく。高音部ではなく、メゾのゾーンを練習しろとも言われた。もともとメゾにしては、高音に強いからだ。上松さんと私がカルメン役を競うことになると三上さんは考えていた。高音部の安定度や声量は私の方が上だから、それ以外を訓練した方がいいと。
カルメン役として、三上さんは深雪を歯牙にもかけなかった。
歯牙にもかけられなかった深雪がカルメンになったのだけど。上松さんは泣いた。私に負けるならわかるけど、大室さんに負けるのは受け入れられないと言って。茉白は怒って、オーディションで勝ち取ったミカエラ役を辞退した。深雪の恋のライバルにはなりたくないと言って。
「翠を選ばないなんて、審査員はふざけてる。リサイタルでやるならあの『ハバネラ』もありかもしれないけど、二重奏や三重奏はどうするの? 他の子が大室さんに気を遣って、歌い方を変えるの?」
「そうなるのかな」
「卒業公演なのに、自分の歌い方ができない--役のせいじゃなくて、他の役との兼ね合いで調整しなきゃならないなんて変だし、私は無理だな」
三上さんも、あの審査員たちは馬鹿だと言ってのけた。陰で。ジャズ部のトレーナーの仕事を失うわけにはいかないので、面と向かっては言えない。
私にはわからなかった。深雪の歌をフラットには聴けない。だけど、深雪はカルメンにふさわしい子だとは思う。勝利の喜びに輝いていた。私の敗北など、歯牙にもかけていないようだ。「残念だったね、翠」の一言で終わり。オペラの稽古で頭がいっぱい。私の前でアリアを繰り返し歌い、賞賛の言葉を聴きたがった。
残酷な人。私は、ドン・ホセのように深雪を殺してしまうかもしれない。
「雰囲気的に最もカルメンらしい? 何だそれ」
牧野さんが笑った。再び門の近くで会った時、私がそう言って深雪を褒めたからだ。
「確かにある種の魔性の女らしい雰囲気はあったけど、カルメンとは違う。彼女はカルメンにしては線が細すぎる。ホセが彼女に執着するのではなく、彼女がホセを離さないように見えたよ。そういう意味の魔性の女だ。現代風の演出をするにしても、あれはちょっと厳しいな。あのな、中原君。大室君がカルメン役を射止めたのは、彼女の父親が高校に多額の寄付をしたからだよ」
「寄付……?」
牧野さんは頷く。
「文系の学校の補助金がごっそりカットされたのは知っているだろ。ここの高校は普通科にも理系クラスがないから、カット率が高い。おまけに、クラシック音楽自体が税金ではなく寄付金でまかなう芸術分野ということになったから--うちのオケなんかは民間のスポンサープラス団員の副業収入で運営しているから問題ないけど、自治体のオケはどこも存続か廃止かで揺れているよ。まあ、だからって高校の卒業公演のタイトルロールを親の寄付額で選ぶなんて世も末だけどな」
「深雪--大室さんはそのこと……?」
「どうかな」
牧野さんは小さく頭を振った。
「親に聞かされていなくても、なぜ自分が選ばれたのか当然疑問を持つだろうと思ったが、君のその様子じゃ、そうでもないようだな。中原君は思考や分析で壁を作り過ぎるが、大室君は自分の感情がそのまま事実になる性格なのか……。ある意味、芸術家向きの性格だ。だからといって、彼女のカルメンが成功するとは思わないが」
牧野さんとわかれて、校舎の方に戻った。寄附の話を深雪にぶちまけたかった。親は私を認めてくれないなんて言ってるけど、あんたの親御さん……涙が出てきた。私には誰もいない。思い切ってチャレンジしても、いつの間にかゲームのルールが変わっている。私は負け続けることしかできないのだ。慎重に安全な道を選んでいるつもりだったけど、どの道を選んでも結果は決まっているに違いない。
「ねえ、ヒデコ。私、卒業公演のオーディションに落ちたんだ。どうすればいい?」
黙っているのが辛くて、そんなことを尋ねる。
「また別のオーディションがありますよ」
「嘘つかないでよ。学生が主要な役で出演できるオペラなんてそうそうないのに」
「そうでしたね。翠さんが参加できるオペラの公演はしばらくありません。オペラは諦めて、名門大学に進むのはどうですか? 翠さんは成績が良いので、孝明大学のいくつかの学部、天佑大学の外国語学部、元治大学の文学部などの推薦を受けられる可能性が高いです」
「そういう推薦って、親が金持ちだと有利?」
「親が金持ちだと有利というわけではありません。一、二年の全ての試験と三年一学期中間試験の成績で決まります」
「それも悪くないね」
歌うのをやめてもいいんだと思った。歌以外で誰かに負けても、これほど苦しくはないだろう。カルメンや深雪のいない世界で生きてみようかと自分に尋ねた。
カルメンと私 藤田真暢 @mayo_fujita
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