あなたに会いにいきます

第1話 幸せな人生だったのに

 窓の外は、よく晴れていた。

 柔らかな光がレースのカーテンを透かし、部屋の中にゆっくりと流れ込んでくる。


 私はベッドに身を横たえたまま、その光を眺めていた。

 庭の木々は少し背が高くなり、季節の花が控えめに咲いている。

 手入れは、もう私の仕事ではない。


 ――静かだわ。


 そんなことを考えていると、廊下の方から足音が聞こえてきた。

 懐かしい、よく知っている足音。


「母さん」


「久しぶり」


 扉が開き、二人の息子が妻を伴い顔を出す。

 その後ろから、小さな影がひょこりと覗いた。


「おばあちゃん!」


 両手に抱えきれないほどの花束を持って、孫が一歩前に出る。


「まあ……」


 思わず、声がこぼれた。


「きれいね。ありがとう」


「なかなか来られなくて、ごめん」


「いいのよ。仕事が忙しいんでしょう」


 久しぶりに並んで見るその顔に、私は自然と微笑んでいた。


「大きくなったわね」


「会うたび、そう言われるけど、もう成長期はとっくに過ぎたよ」


 冗談めかした二人の息子の声。

 確かに、もう子供もいる相手に大きくなったとはおかしいかもしれない。


 けれど、子供は幾つになっても子供なのだ。


「みんな来てくれたのか」


 夫の声がする。

 私は少しだけ顔を動かして彼を見た。


 若い時と変わらない、柔和な微笑みに静かな物腰。

 私の大切な旦那様。


 ――あ。


 また始まった。

 この胸の痛み。

 私はもうこの原因不明の病で半年も寝たきりになっている。


 ……けれど、今日の痛みはいつもと違う。

 もっと深いところから体全部をどろどろに溶かしてしまいそうな感覚。


 そうか……いよいよなのね。


 息子たちが、時間を合わせて来てくれた理由。

 忙しい中、孫まで連れて。


 そういうことなのね。


「……母さん……」


 誰かの泣き声が聞こえる。

 息子の声か、それとも夫だったか。


 私は小さく首を振る。


「大丈夫よ」


 本当だった。


 胸は苦しいけれど、怖くはない。

 もう、十分生きた。


「こんなに長く生きられたもの」


 七十年。

 振り返れば、決して平坦な人生ではなかった。

 若い頃は、理不尽なこともたくさんあったけど。


 それでも。


 伴侶を得て、子供を育て、こうして孫の顔まで見ることができた。


「……いい人生だったわ」


 そう口にすると、誰かの手が、強く私の手を包む。


「ありがとう」


 何に対してかは、もうわからない。

 ただ、胸いっぱいに、満ち足りた気持ちが広がっていた。


 窓の外の光が、少し遠くなる。

 音が、静かに薄れていく。


 それでも、最後まで私は思っていた。


 ――私は、幸せだった。







 私の名はリッカ。

 リッカ・ソールウェイ公爵夫人。

 享年七十歳だ。


 振り返ってみれば、長かったようで、あっという間だった気もする。

 楽な人生ではなかったけれど、悪くもなかった。


 生まれた家は、正直に言ってしまえば、ひどい場所だった。

 妹ばかりを可愛がる両親と、それを当然だと思う妹。

 私はいつも彼らの顔色を窺って生きてきた。

 そんな場所から離れることができたのは、十八の年。

 その結婚は、望んで掴んだものじゃなかったけど。


 旦那様になった人は思った以上に私を大切にしてくれた。

 それはもうもったいないほどに。

 私をきちんと見て、きちんと扱ってくれる。それだけで、私はこんなにも強く優しくなれるのだと知った。


 ――悪くない人生だったと思う。


 こうして終われるのなら、

 私はもう、何も悔いはない。

 願わくは、残してきた家族がずっと幸せでありますように。


 それだけを祈りながら、意識を手放した。






 ◇◇◆◆◇◇






 冷たい水の感触に、私は反射的に手を止めた。


 雑巾を握っている。

 桶の水はまだ新しく、床には拭きかけの跡が残っていた。


「……あれ?」


 声を出した瞬間、私はぴたりと動きを止める。


 この声。


 高い。張りがある?


「え?」


 思わず自分の喉に手を当てる。


「……え?」


 もう一度、今度は少し大きく声を出す。


「えええ?」


 そのまま、ばっと立ち上がった。

 ――体が軽い!


「ちょっと待って」


 そっと頬に触れるととんでもなく滑らかな感触に恐れ慄いた。


「……すごい。若い頃の体だわ。え、なにこれ。若返ったってこと?」


 夢って、ここまでリアルなの??


 そのとき。


「……何、騒いでるのよ」


 呆れた声が降りてきた。


 振り返ると、妹が腕を組んで立っている。

 心底気味悪そうな顔で。


「どうしたの?とうとう頭おかしくなっちゃったの?」


 私はきょとんとして、それから吹き出した。


「大丈夫よ。夢だから」


「は?」


「だって、こんなの現実なわけないじゃない」


 私はもう一度、腕をぶんぶん振る。


「ほら、こんなに元気!七十の体じゃ絶対無理よ」


 妹は一歩、引いた。


「……ねえ、頭でも打ったの?」


「いいえ」


 私は大きく息を吸い込んだ。


「こんな夢なら、ずっと見ていたいわ」


 そこまで言って、ふと不満が湧いた。


「……でも」


 ぐるりと周囲を見回した。


「なんでここなのよ」


 低い天井。

 古い床。

 見慣れすぎた実家。


「どうせなら、息子たちの家とか、夫と暮らしてた屋敷とかにしてくれればいいのに。夢のくせに気が利かないわねー」


「夢?何言って――」


 妹の声を聞き流しながら、私は雑巾を放り出した。


「ま、いいや。夢なんだし。……それともあの世かしら?」


 そして軽い足取りで廊下へ向かった。


「ちょっと! まだ掃除終わってないでしょ!」


「あんたがやっといて」


「はあ?!私になんて口をきくのよ!」


 怒号が追いかけてくるけど、無視して玄関から外に出る。


「屋敷に戻ってみようかしら。夢なのに念じただけでは行けないなんて不便だわ」


 その瞬間。


 庭先の木から伸びた枝に、手の甲が引っ掛かった。


「……っ」


 一瞬のことだった。


 じん、とした痛み、そして熱。


「……え?」


 手を見ると、赤い線が滲んでいる。


「……痛い」


 はっきりと、痛い。


「……あれ?」


 夢、なんだよね?


 私は指先で傷をなぞってみた。


 「うん、ちゃんと、痛い……おかしいわね」


 そのときだった。


 屋敷の中から、甲高い音が響いた。


 ――ガシャン。


 陶器が床に叩きつけられる、嫌な音。


 私は、凍りついた。


 その音を、私は知っている。


 忘れるはずがない。


「……まさか」


 次の瞬間、屋敷の中から母の叫び声がしたのだ。


「――誰なの!?これを割ったのは!これは私の大切な――」


「……曽祖父に貰った家宝……」


 私がそう呟いた直後、


「曽祖父に貰った家宝なのに!!」


 私はこの場面を知ってる。


 ――あの時の。


 私のせいにされた、あの事件。


 屋根裏部屋に閉じ込められ、一週間飲まず食わずで死にかけた思い出が蘇る。


「だからなんでよりによって、そんな嫌な夢を見ないといけないの」


 そう、口に出してみるものの、私の頭にはありえない考えが浮かんだ。


「これは……夢じゃない?」



 そんなまさか。

 この地獄から抜け出して、私は幸せになったはず。

 そして、皆に囲まれて、人生を終わらせたのよ?



 それなのになんで?


 私の脳裏に、以前流行っていた小説の内容が浮かんだ。


 その主人公は非業の死を遂げたあと、復讐のために時間を巻き戻して人生をやり直していた。


「それにしても、私はなんの後悔もない人生を送ったの。やり直しは必要ないわ」



 神様のいたずらかしら?



「ねえ?神様、聞いてる?どうせやり直すなら、結婚してからの生活でいいんだけど」


 私のため息混じりのそんな抗議をあざ笑うかのように、空からは冷たい雨が降り出した。



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