ショートショート|返品した男

緋月カナデ

返品した男

■ ■ ■


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深夜のリビングルーム。エヌ氏は安楽椅子に深く体を沈め、ぼんやりとテレビ画面を眺めていた。


仕事の疲れと、昼間に犯したミスのせいで、なかなか寝つけなかったのだ。上司の叱責、同僚の冷ややかな視線。思い出すだけで胃のあたりが重くなる。


ザッピングを繰り返していると、ふと奇妙な通販番組で手が止まった。


派手なセットも、わざとらしい観客の笑い声もない。ただ白一色の背景に、銀色のスーツを着た司会者が一人、にこやかに立っているだけだ。


「皆様、人生に『もしも』があったらとお考えではありませんか?」


司会者の声は、不思議と耳に心地よく響いた。


「あの時、あんなことを言わなければ。あっちの道を選んでいれば。……そんな『不要な過去』、私どもが返品・交換いたします」


エヌ氏は鼻で笑った。どうせ怪しげな自己啓発教材か、催眠商法だろう。


しかし、画面の下に表示された『お試し無料・即日対応』という文字と、フリーダイヤルの番号が、妙に網膜に焼き付いた。


迷ったのは一瞬だった。


「どうせ眠れないんだ。ちょっと試してみるか」


からかってやるつもりで、エヌ氏はスマートフォンを手に取った。


「はい、カスタマーセンターでございます」


驚くほど早く電話がつながった。


「テレビを見たんだがね。本当に過去を返品できるのかい?」


「もちろんでございます、お客様。現在はキャンペーン中につき、どのような『失敗』でも、無条件で引き取らせていただきます。本日の失敗など、いかがでしょう?」


なぜバレているのか。エヌ氏は少し不気味に思ったが、勢いで昼間のミスを事細かに話した。


「承知いたしました。それでは、返品処理を実行します」


オペレーターがそう告げた瞬間、視界がぐにゃりと歪んだ。


気がつくと、エヌ氏は会社のデスクにいた。時計は昼過ぎ。まさにあのミスの直前だ。


不思議なことに、これから起こるトラブルの回避方法が手に取るようにわかる。エヌ氏は鮮やかに仕事をこなし、上司からは激賞され、同僚からは羨望の眼差しを向けられた。


「これはすごい……」


その夜、帰宅したエヌ氏は興奮冷めやらぬ様子で、再びテレビの前に座った。


人生には、消したい過去が山ほどある。失恋、受験の失敗、友人への暴言。


彼は次々と電話をかけ、過去を「返品」していった。


気に入らない出来事が起きるたびに、受話器を取る。邪魔者は消え、チャンスだけが舞い込む。


会議室での彼は、予言者であり支配者だった。競合他社の極秘情報は筒抜けで、株価の変動もまるで新聞の縮刷版を暗記しているかのように読み取れる。


プライベートも同様だ。気立てが良い美しい妻、非の打ち所のない子供たち。彼は若くして富と名声を手に入れ、誰もが羨む「正解」だけの人生を手に入れた。


□ □ □


しかし、完璧に整えられた人生というのは、噛みごたえのない流動食のように味気ないものだった。


苦労がないから、達成感もない。失敗がないから、笑い話も生まれない。まるで、チートコードを使ってゲームを消化しているような、白々しい空虚感が彼を襲い始めた。


それに、修正を重ねるたび、どこか現実感が薄れていくような不安もあった。


「……やりすぎた」


豪華な調度品に囲まれた部屋で、エヌ氏は溜息をついた。人間、多少の傷や汚れがあったほうが、生々しく生きられるのかもしれない。


彼は決心して、あの番号にダイヤルした。


「あー、もしもし。このサービスを解約したいんだが」


「解約でございますか? 現在は長期優良会員様として、特別プランをご利用いただいておりますが」


「いや、もういいんだ。全てを元に戻してくれ。君たちのサービスに出会う前の、あの冴えない自分に」


エヌ氏は強い口調で言った。完璧すぎる人生は、彼にとって最大の「失敗」だったのだ。これを返品せずして、何とする。


「かしこまりました。お客様のご要望通り、当社のサービスをご利用いただく前の状態へ、『完全返品』させていただきます」


「ああ、頼む。二度とかけないよ」


「ご利用、誠にありがとうございました」


オペレーターの澄んだ声が途切れると同時に、世界がホワイトアウトした。


■ ■ ■


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深夜のリビングルーム。エヌ氏は安楽椅子に深く体を沈め、ぼんやりとテレビ画面を眺めていた。


仕事の疲れと、昼間に犯したミスのせいで、なかなか寝つけなかったのだ。上司の叱責、同僚の冷ややかな視線。思い出すだけで胃のあたりが重くなる。


ザッピングを繰り返していると、ふと奇妙な通販番組で手が止まった。


派手なセットも、わざとらしい観客の笑い声もない。ただ白一色の背景に、銀色のスーツを着た司会者が一人、にこやかに立っているだけだ。


「皆様、人生に『もしも』があったらとお考えではありませんか?」


司会者の声は、不思議と耳に心地よく響いた。


「あの時、あんなことを言わなければ。あっちの道を選んでいれば。……そんな『不要な過去』、私どもが返品・交換いたします」


エヌ氏は鼻で笑った。どうせ怪しげな自己啓発教材か、催眠商法だろう。


しかし、画面の下に表示された『お試し無料・即日対応』という文字と、フリーダイヤルの番号が、妙に網膜に焼き付いた。


迷ったのは一瞬だった。


「どうせ眠れないんだ。ちょっと試してみるか」


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あとがき


読了ありがとうございました


回帰するオチは定番ですが実家のような安心感があり私はスキです❤️

ニヤリとした人、ゾッとした人は❤️応援や☆で称えてもらえると嬉しいです!


現在noteに掲載していた作品群を手直ししてカクヨムに投稿し始めたので、今回のお話が気に入って頂けたのなら、作家フォローもよろしくお願いします

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ショートショート|返品した男 緋月カナデ @sharaku01

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