鏡の国とエントロピーの女王

ルシプァ🐈‍⬛✨デパートメント💫

鏡の国とエントロピーの女王

昔々、あるいは遠い未来。

 宇宙の暗い森のそばに浮かぶ「第9深宇宙観測ステーション」という名の鏡のお城で、博士のダイナと黒猫のプランクは平和に暮らしていました。

 百年の眠りから覚めたダイナと、彼女を救った観測機黒猫のプランクの物語は、めでたしめでたしで終わったはずでした。


 けれど、物理法則には「作用」があれば必ず「反作用」があるものです。

 プランクがあの日、無理やり運命をねじ曲げた歪みは、静かに、そして確実に、お城の「鏡」の中に溜まっていました。


 ある日のティータイムのことです。

 ダイナが紅茶に角砂糖を落としました。

 角砂糖が落ちるよりも先に「チャポン」と音がして、しずくが跳ねます。

 それから一秒遅れて、角砂糖が落ちました。


「……あら?」

 ダイナは首をかしげました。

 鏡の中のダイナは、まだ首をかしげていません。三秒も経ってから、鏡の中の彼女はゆっくりと動き出し、口は「らあ……」と動いたのです。


 プランクが、髭をピクリと震わせて言いました。

「ダイナ、鏡から離れるニャ。時空の位相がズレている。あちら側は、時間が逆さに流れる『鏡の国』だ」


 プランクの警告が終わるか終わらないかのうちに、廊下の向こうから大慌てで走ってくる白い影がありました。

 それは長い耳を持ち、チョッキを着た、真っ白な量子のゆらぎ――「タキオン粒子の白ウサギ」でした。

 ウサギは懐中時計を見ながら、光よりも速い速度で走り回っています。


「大変だ、大変だ! 原因が結果を追い越しちゃう!」

「待って、うさぎさん!」

 ダイナが呼び止めると、ウサギは驚いて、あろうことか硬いはずの鏡に向かってジャンプしました。

 鏡の表面が水面のように波打ち、ウサギを飲み込んでしまいます。


「追いかけなきゃ、プランク!」

「待つニャ、そこは『事象の地平線』の内側……!」

 好奇心の塊であるダイナは、止める間もなく鏡の中へ飛び込みました。

 プランクは深いため息をつくと(猫のため息はとても可愛いのです)、金色の瞳を光らせて、主人の後を追いました。


 落ちて、落ちて、落ちていきました。

 そこは、重力が強すぎて光さえ脱出できない、まっくらな縦穴でした。

 けれど不思議なことに、壁にはたくさんの数式や、誰かの古い記憶が書かれた本棚が並んでいます。

 ドン、と尻餅をついたところは、あべこべの世界でした。


 ここでは、リンゴは空へと落ち、壊れたカップは破片が集まって元通りになり、老人は若返ってゆきます。


 ダイナとプランクは、奇妙な森を歩きました。

 木々の間から、クスクスという笑い声が聞こえます。

 姿は見えず、ニヤニヤ笑いだけが空に浮かんでいます。

「質量を捨てたのかい? それとも、まだ観測されていないだけかな?」

 それは、実体を持たない情報の亡霊、「チェシャ猫」でした。


「おや、君たちは招かれざる客だね。女王陛下のお茶会へようこそ」

 森を抜けた先には、長いテーブルが置かれていました。

 そこには、無数の「ダイナ」が座っていたのです。


 白衣を着て倒れているダイナ。

 ガラスの棺の中で眠り続けているダイナ。

 空気漏れで息絶えたダイナ。


 それは、あの日プランクが「生」を確定させた瞬間に切り捨てられた、無数のパラレルワールドの残骸たちでした。

 彼女たちは、悲しそうな、それでいて愛おしそうな目で、生きているダイナを見つめました。

「いいわね、あなたは」

「私たちはずっと、確率の霧の中で待っていたのに」

「誰にも見つけてもらえなかった、かわいそうな私」


 ダイナは言葉を失いました。自分の「生」が、これほどの「死」の上に成り立っていたなんて。

 その時、空間が激しく歪み、真っ赤なドレスを着た巨大な影が現れました。

 この重力の底を支配する、「ハートの女王」またの名を「エントロピーの女王(特異点)」です。


「誰じゃ! エントロピーの法則を乱す不届き者は!」

 女王は激怒していました。

「一つの『生』に対し、これほどの『死』のゴミが出るなど、宇宙の計算に合わぬ! 矛盾は消去せねばならん! 衛兵、この娘の首をスパゲッティ化せよ!」


 女王の命令と共に、トランプの兵隊(重力子)たちが襲いかかります。

「逃げるニャ、ダイナ!」

 プランクが前に飛び出し、バリアを展開しようとしますが、ここでは物理演算が通用しません。プランクの体にもノイズが走り、足が透け始めています。


「だめ……プランク、やめて!」

 ダイナは叫びました。

 彼女は、怯える「死んだダイナ」たちの手を握りしめました。冷たくて、重さのない手でした。

「私は、逃げない。だって、この子たちも『私』なんだもの」


 ダイナは女王に向かって、毅然と言い放ちました。

「女王様、あなたの計算は間違っています!」

「なんじゃと?」

「情報は決して消滅しない。私は一つの結果だけれど、彼女たちもまた、可能性としてここに『在る』わ。切り捨てられたゼロじゃない!」


 ダイナは、震える手でプランクを抱き寄せ、そして周りの「影のダイナ」たち全員を抱きしめるように腕を広げました。

 それは、多世界解釈の肯定。

 選ばれなかった悲しみさえも、自分の一部だと認める「観測」でした。


「プランク、お願い。私たちを『全部』見て!」


 プランクは、ボロボロになった金色の瞳を、限界まで見開きました。

 生きているダイナも、死んでしまったダイナも、全てをひっくるめた「巨大な私(波動関数)」として、世界を再定義します。


《全多重世界ヲ許容。事象ノ統合ヲ開始——》


 カッ、と鏡の国が輝きました。

 それは、ブラックホールが情報を吐き出す時の、最後の断末魔の輝き(ホーキング放射)でした。


 光の中で、影のエリナたちが微笑みながら蒸発していきます。消えるのではありません。光となって、宇宙の隅々へと還っていくのです。

 女王の怒りの形相も、真っ白な光に溶けていきました。


「……ふぅ」

 気がつくと、二人はお城の床に転がっていました。

 テーブルの上には、冷めかけた紅茶と、転がった角砂糖。

 鏡の中を覗き込むと、そこにはいつものダイナが映っています。

 ただ、少しだけ。

 鏡の中のダイナの方が、優しく微笑んでいるような気がしました。


「おかえり、ダイナ」

 プランクが足元にすり寄ってきました。

「ただいま、プランク。……ねえ、鏡の中の私にも、お茶を淹れてあげましょうか」


 ダイナは鏡の前にもう一つ、ティーカップを置きました。

 カップから立ち上る湯気は、鏡の向こう側へと吸い込まれ、二度と戻ってくることはありませんでした。


 こうして、博士と黒猫は、選ばれなかった全ての可能性に祈りを捧げながら、いつまでも(あるいは宇宙が熱的死を迎えるその日まで)仲良く暮らしましたとさ。


 めでたし、めでたし。

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