ナイトダイビング

二瓶佳子

第1話

 有給を使うことにした。年間5日は有休消化しないといけないのだ。休みを取ったところで、やりたいことなんてないのに。持て余す余暇の使い方をまだ思いつかない。


 都会の夏はどんどん気温が上がって、年々過ごしにくくなっている。コロナ渦に推奨された在宅ワークも、気づけば滅多に使われなくなっている。在宅ワークよりも、職場で他愛もない話をしながら働くのが、私には合っているんだけど。都会で働くメリットは、ランチの場所に事欠かない事だ。お金さえ出せば、流行の料理も、話題のレストランも、たいていはランチで楽しむことができる。都会のビル群に入っている会社で働いて、おしゃれなランチを食べて、夜は話題の店でワインを飲む。そんな毎日。


 部署の課長とランチに出てきた。


「桜田、慶良間ブルーって知ってる?」


「けらまブルー?なんですか?マリッジブルー?」


「違うよ。沖縄の、慶良間諸島のあたりの青のことだよ。沖縄本島から船で少し行ったところに、慶良間諸島っていうのがあってね、そのあたりがダイビングスポットなんだよ。綺麗な深い青が美しくてね。もちろん海底の地形も良くて、魚もたくさんいて。シュノーケルでも泳げるから。いいよ」


 キャベツを食べながら、吉住課長は私に言った。吉住課長は、十人いる課長の中で唯一の女性、そして独身だった。いまだ男性社会の根強いうちの会社では、女性課長も少ないし、それが独身だともっと少なかった。課長と同期の女性は、結婚して退職か、出産して働き方をセーブしていた。しかし昨今うちの会社は、株主総会で株主から女性役員が少ないことを指摘され、女性の管理職を増やさなければならないという方針に転換したようだが、これまで女性を育ててこなかったツケが来ていて、吉住課長はほぼ唯一の存在になっている。


「桜田、有給まとめて取るんでしょ?なにしたらいいかわからないって言ってたじゃん」


「そうなんですよ。せっかくだから旅行に行きたいけど、誰かと休みを合わせているわけじゃないんで、どうしようかなって」


「一人で行けばいいんだよ」


「沖縄に?一人でですか?」


 ハンバーグを割ると、肉汁が出てくる。この店も、この間グルメ番組で紹介されていた。


「沖縄だからだよ。リゾート地だから、恋人か家族でもいないと行けないようにみえているんでしょ」


「違うんですか?沖縄は大学の時に友達と四人で行きましたけど、リゾートって感じで、観光したり海に入ったり、あとグルメとかですかね。楽しかったなあ」


「目的があれば、一人でだっていけるし遊べるよ。私は冬になるとスノボに一人で行ってるでしょ?それはスノボに行くっていう目的があるからできるんだよ。もちろん、目的無く一人旅をする人もいるだろうけどね」


「課長、年末年始はニセコって言ってましたもんね。家にいてテレビ見てるのではつまらないって」


「そうそう。だって、一人で夜紅白とか見ちゃう?見ないよ。それに一人じゃおせちは買っても食べきれないからそもそも用意しないし。じゃあ、年末年始って何?ただの休暇?ならスノボ行くかってかんじ。冬はスノボ。で、夏はどうするかって言うと、私はダイビングに行くんだよ」


「ダイビングですか。そういえば大学生の時、ツアーで友達とライセンスとりました。でも、それ以来潜ってないけど」


「それ以来潜ってないの?もったいない。今時スキューバのライセンス取ってる子は少ないよ。お金も時間もかかるからね。それがあればダイビングのツアーに参加できるから、行ってきたら?慶良間ブルー、いいよ」


「・・・沖縄か」


 ハンバーグを食べながら窓の外を見ると、高層ビルの合間は、夏の空。季節の事を考えるのは、着る服を選ぶ時だけ。地下鉄は暑いから、なるべく涼しい服を。汗が響かない色の服を買わなきゃ。汗で浮かないファンデは何かな。サンダルを履くから、足の爪を綺麗にしなくては。そうだ、ネイルに行かなきゃ。日焼け止めも欠かせない。口コミで評価の高いやつはとりあえずプチプラでもハイブランドでも試してみる。そんな自分と、沖縄の海って、かなり遠い位置にあるように思えた。とりあえず、スマホで検索してみる。沖縄、スキューバダイビング、慶良間諸島、慶良間ブルー。


 突然取った有給は、誰とも休みを合わせていない。いつもは彼と休みを合わせていたのに。とはいえ、彼は出不精だし、運転したくないし、海も山も嫌いなのでどうしても旅行に行きたいと頼み込んで箱根の温泉に行く程度だった。でも、この人と結婚するんだろうなって、思っていた。最初は就活のガイダンスで隣だったご縁で、連絡を取り合うようになった彼。お互い希望の業界に就職できて、新入社員の時期をお互い別の会社で、しょうもないグチを聞きながら励ましあったのだ。付き合いが長くなるにつれ、この人と家族になるんだろうなって。子供を産んで、子供が保育園に入って、小学校に入って。そんな未来がすぐそばにあるんだと思っていた。でもそう思っていたのは、自分だけだった。


 三十が目前になってきた頃、彼に聞いてみたのだ。結婚したいんだけどって。


「今はまだ早くない?俺仕事でキャリアも積みたいし」


「ずっとそう言ってるけど、じゃあいつになったら良いの?」


「いや、だって俺まだ三十だよ?」


「私だって同じ年齢だよ。うちの両親とも弟とも仲良くしてくれてるじゃん」


「いやそれは、普通仲良くするでしょ。人として」


「子供欲しいって言ってたよね?二人欲しいとか、マンションを買うなら武蔵境あたりがいいとか」


「そうそう、武蔵境とかよくない?ほどよく住宅街で」


「ローン組むなら早いほうがいいよ」


「あー、そうだけど、いきなり買う?」


「子供、私三十代で二人産みたいんだけど。子育ても、そこそこ終わらせて仕事に復帰したいし」


「そんなの焦らなくていいじゃん。今職場の先輩が産休入ってるけど、42歳だよ?莉奈はまだ二十代なんだから焦る必要ないでしょ」


 そう言って、スマホで動画を見始める。


「私たち、付き合って七年だよ」


「そうだけど……」


 彼はもうこちらを見ていない。このやりとりは何回目だっただろうか。もう二年以上は続くこのやりとり。ここから先に進んだことはない。ゲームのシナリオが用意されていない選択肢だったかのように、ループする。


 ざっくりと、考えていた、人生のスケジュール。三十くらいで結婚して、三十五くらいまでに出産する。


 スケジュールはあっさり崩れた。また振り出しに戻った。一から始めなくてはならない。その事実に、思い描いていた世界は遥か彼方であることを知った。みんなどうやって結婚してるんだろう。結婚して子供を産んで、育てて、それってこんなに難易度高いの?その手前にもたどり着けないよ。街を歩く子連れの人が、スーパーエリ―トに感じる。私がたどり着けない世界にいる人たち、どれだけ徳を積んだらその世界に入れるの?私の椅子はそこにはないの?あるとおもってたのに。


「課長はなんで独身なんですか?」


 食後のコーヒーを飲む吉住課長に、つい口をついて出てしまった言葉。コーヒーを飲みながらこちらを探るように見る吉住課長。


「独身で生きて行こうと計画して独身というよりかは、結果としてかな。いろんな人と付き合ったりもしたけど、これといって、なんていうか、結婚しようって思う人に巡り会わなかったって感じかなあ」


 コーヒーに落としたミルクを見る。簡単には交わらない。スプーンでかき混ぜてやっと交わるのだ。


「無理してする必要ないじゃん。生活は自分でなんとかなるし。それに結婚したところで、相手がヤバいやつで、こっちが搾取されるかもしれないでしょ」


「そんな人、そもそも選ばなくないですか」


「わからないよ。人の本性は、見えにくいし、自分が見たいようにしか見ないものなんだよ」


「見たいようにしか見ない・・・」


 ぎくりとした。


 どうして私は彼も同じ気持ちだろうなんて思っていたの。結婚や出産のタイミングは、私自身のことなのに。私にとって、彼は都合が良い相手だっただけなのではないか。


「結婚したって、別れるかもしれないし。別れるなら別れたらいいし。するもしないも、無理にすることじゃない。どっちだっていいと思うけど」


 コーヒーを飲み干した。


 那覇空港に降り立つと、湿った暑い風が吹き抜けた。十年ぶりだろうか。大学時代に友達と四人で旅行に来た以来だった。ハイビスカスの柄の看板がお土産屋さんを彩っている。南国特有の湿った空気。窓から外をみると、街路樹の椰子の木が揺れている。飲食店には、沖縄そばのメニューや、紫芋ソフトの看板が並んでおり、独特の音楽が流れている。それが、ここを東京とは別世界に演出しているのだ。明るい世界。明るく見える世界。


 一人旅なんてしたことがない。いつも誰かと一緒に旅行していた。一人の時間をどう埋めたらいいのか、よくわからない。スーツケースを引きずりながら、ダイビングショップの送迎を探す。


 あの子、一人だとか思われないだろうか。


 カップルや、家族連れとすれ違うたびに、不安になる。あの人一人だと思われてるんじゃないか。何で一人なんだろうと思われてるよね。今この瞬間に、この状況を分かち合える人がいないことが、不安。私はいつの間にか、一人で歩けなくなっていた。そもそも一人で歩いたことなんてなかったのかもしれない。寄りかかっていたのは、私だ。誰かが常にそばにいることにあぐらをかき、一人では歩けない。私の両足は、あってないようなもの。仕事をして、お金を稼いで、自分の生活は自分で回して、自立した大人になったと思っていた。だから次は結婚と思っていた。それがどうだ、蓋を開けたら、周りを気にして一人ですら歩くことができない哀れな生き物。


 送迎の人が、名前の書かれた紙を持っている。そこに桜田莉奈様という文字を見つける。


「あの、桜田です!」


 真っ黒に日焼けした女性が、笑顔で迎えてくれた。


「オーシャンダイビングの佐々田です。もう一組お客様がいますので、少しお待ちくださいね」


 日焼けした肌に、茶色い髪、化粧っ気のない姿の女性だ。


 私といえばしっかりファンデーションを塗り、アイメイクもバッチリしてきてしまった。でも、ダイビングに来たというのにこのバッチリメイクは必要なのであろうか。場違いなのではないか。周りの目が気になる。


「いらっしゃいましたので、車に移動しましょうか。ここからウチのゲストハウスにそのままお連れしますね」


 足早に移動しながら説明をしていく。置いていかれないように、焦りながらスーツケースを転がす。


 ワンピースにサンダルの自分が、なんだか場違いに感じられる。きびきび移動できない。


 もう一組というのは、若いカップルだった。私はどう見えてるのかな。なんで一人なんだろうとか、思われてるんだろうなあ。あの格好でダイビングをするのかとか思われてるのかな。人からの目線が、私を値踏みして攻撃している様に思える。


 宿を併設してるダイビングショップで予約をとった。ホテルに一人で宿泊するよりは、気が楽だろうと思ったのだ。


「夕食は19時、朝食は7時からです。どちらも食堂です。明日は朝食の後、船から海に入るボートダイビングです。よく寝ておいてくださいね。あ、酔い止めを飲んでおいた方がいいですよ。持ってない場合は100円でお分けします」


 ボートダイビング。実はやったことがない。ライセンスをとった時は、陸から海に入るビーチダイビングだったのだ。


「あの、私全然経験なくて。ライセンスとって以来やってないんです」


「ペーパーダイバーなんですね。大丈夫ですよ。明日はリフレッシュのお客さんもいるので」


「リフレッシュ?」


「ブランクある方のコースです。一緒に説明しますよ」


 宿には、数人宿泊客がいるようだった。宿泊客たちは、それぞれ本を読んでいたり、スマホを見ていたり、テレビをみていたりしている。そして、それぞれが一人で過ごしているようだった。


 なんとなく居場所がなくて、部屋に戻る。


 ダイビング客専門のゲストハウスに泊まるなんて初めてで、過ごし方がわからない。これまで一人の時ってどうしていたのだろう。手持無沙汰にペットボトルのお茶を飲む。


 夕飯の時間になり食堂に行くと、何人か既に食事をしていた。名前のカードが書かれた席に座る。


「ごはんと味噌汁は、そこから自分で取ってくるんですよ」


 斜め向かいの女性が教えてくれた。


「ありがとうございます」


 ここがホテルでも旅館でもないことを思い出しながら、自分で用意をする。ゴーヤチャンプルに、海ブドウ、お刺身、揚げ物。


「今日からですか?」


私より一回りぐらい年上だろうか、斜め向かいの女性が気さくに話しかけてきた。


「はい、明日ボートダイビングを予約していて」


「あ、明日のね。多分私も行くよ、それ」


「そうなんですか」


「台風もいないし、天気もよさそうだから、きれいだと思うよ」


「台風、いないって言うんですね。ライセンス取って以来潜ってなくて。久しぶりで手順がよく思い出せないんですけど。教本を引っ張り出して読んでみたりしたんですが」


「あー、なかなかね。行く機会むずかしいよね。東京の人?」


「はい」


「私も都内なんだけど、都内からだと、近場は三浦、真鶴、少し足を延ばして伊豆とかがダイビングのポイントかな」


「結構いかれてるんですか?」


「んー、実はそんなでもないの」


 雑談が、一人であることを忘れさせてくれる。話す相手がいることが、貴重なことのように思えてきた。


「たまたま仕事で休みが取れて。どうしようかなあって思ってたら、最近ダイビングに行ってなかったなって思って、来てみたの」


「あ、私も同じです」


「ライセンスはどこで取ったの?」


「大学生のころに、友達とグアムで取ったんです。ツアーで」


「へー、いいね。グアムもきれいだよね。沖縄もいいよ。離島もきれいだけど、本島からでも十分楽しめるの。明日は慶良間のボートツアーだよね?」


「はい、職場の先輩から、慶良間ブルーを見た方がいいって言われまして」


「あー、それは正解だね。慶良間ブルー、濃紺と青の間の、澄んだ青。なにもない澄んだ水の、ひたすら青な感じ、いいよ」


「そうなんですか。私知らなくって」


「あとね、この時期に来たなら、ナイトダイビングがおすすめだよ」


「ナイトダイビング?」


「そっちはビーチエントリーなんだけど、ほら、明後日満月でしょ?」


「満月?そうなんですか?」


「明後日はここにいる?」


「はい」


「満月の夜は、明るいのもあるんだけど、珊瑚が産卵するんだよ。神秘的で、素晴らしいから、ぜひ行った方がいいよ。今来てるお客さんはほとんどそれ目当てだし、佐々田さんに言えば、入れてくれると思うよ。ビーチエントリーだから、砂浜からそのまま入ってくの」


「珊瑚が産卵…、珊瑚って産卵するんですね」


「あはは、そこからだよね。名前なんていうの?私は加奈子。都内在住で看護師やってます」


「あ、私は桜田莉奈です。都内在住で、メーカー勤務です。加奈子さん、よろしくおねがいします」


「莉奈ちゃん、あしたのボート、よろしくね」


 加奈子さんは、新宿の大きな病院で看護師をやっているらしい。吉住課長より年上だろうか。真っ黒に日焼けしていて、締まった体をしている、快活な女性だ。身につけているのはスポーツメーカーのものばかりで、ひらひらとしたワンピース姿の自分との違いになんだか恥ずかしくなる。恥ずかしくなるのは、場違いなのは明らかに私の方で、加奈子さんの方がこの場に合った姿だからだ。ダイビングにも一人でよく来るらしい。


「誰かと一緒に来ると、気を使うからね。誰かがいればいたで、それも楽しいんだけれども。楽しさの居場所が違うのよ。一人で行くのと、誰かと行くのとは」


「楽しさの居場所、ですか」


「誰かといても、個体は別だし、最小単位は自分一人だから。何をするにしてもね」


「わたし、今回が一人旅初めてで。いまいち楽しみ方がわからないですね。まわりから一人だって思われてるんじゃないかって思ってしまって。自意識過剰ですよね」


「自分が誰かと旅行している時に、あの人一人だ、とか思う?」


「どうだろう、思うかもしれないし、思わないかも」


「自分が楽しい時ってのは、周りのことなんか見てないよ。つまり、あの人一人だって見てる人なんて、お土産屋さんの人くらいだよ」


「あ、そっか」


 なんだか、自意識過剰で滑稽な気がしてきた。なんでこんなに他人の目を気にしているんだろう。加奈子さんとは話が弾んで、食事の後にビール片手にラウンジで少し話し込んだ。


「ナイトダイビング、申し込みなよ!じゃ、明日ね」


 全く違う社会で生活している人と話すことなんて、初めてかもしれない。自分がいかに狭い世界なのかを痛感した。私の世界は、いまはもういない元彼と、職場、学生時代の友人数人で構成されているちいさな世界だ。


 特に、元彼とは七年付き合っていて、ずっと一緒だったから、元彼の趣味嗜好が、もはや私の趣味嗜好といっても過言ではないくらいで、趣味を聞かれた時に話すことは、すべて元彼由来だった。付き合ってる時は、それすら誇らしげだった。自分が馬鹿みたい。


 彼が好きな漫画、彼が好きな音楽、彼が好きなラーメン、彼が好きな野球、の話なら、なんでも話せるよ。呪術廻戦?五条先生かっこいいよね。ブルーノマーズの新譜聞いたよ。千駄ヶ谷のホープ軒は、ネギをたっぷり入れた方が美味しいよ。甲子園は全部見てた。


 でも私、それ以外になんの話してたっけ。


 あ、コスメは好きだ。最近のお気に入りは誕生日に吉住課長からもらったシャネルのリップ。インナーケアでサプリを飲んでるけど、これも課長のおすすめ。これがすごく良かった。ファンデはインスタで有名な人がおすすめしていたやつ。当たりだった。いや、私、もともと何が好きだったんだろう。っていうか、もともとって何。

いつのまにか、私を構成するものは、私以外の誰かのものだった。


 空には雲ひとつない、完璧な快晴。


 那覇から小型の船に乗って、沖縄本島から約一時間。上下に揺れる小さな船は、酔い止めを飲んだはずの私を揺さぶる。噂に聞いた慶良間ブルーは、本当に青くて、底がないように続いていく青。空の青と溶け合う海の色。この世界は青で構成されている。その慶良間ブルーを見つめている。垂直に。


「莉奈ちゃん大丈夫?水飲みな」


 さっき自分が食べたおにぎりが、底なしの青に吸い込まれていく。すると、それを食べに魚が集まってくる。すごい。


「もう、撒き餌状態ですよ」


「小型船は酔うから、仕方ないね」


「もう、無理、早く陸に帰りたい」


「試練だねえ」


 食べたものを大海原に還元しながらも、なんとか潜ることはできた。久しぶりのダイビングへの緊張は、平衡感覚を失うことで一緒に失ったようだった。海の底は竜宮城か、アリエルの世界か。カラフルな魚が縦横無尽に飛び回る世界。ウミガメと一緒に泳ぐことになるなんて、考えたこともなかった。彼らと比べて、人間のなんて動きののろいことか。泳ぎも、動きも、その世界に順応した生物とは大違いのうすのろだ。


 このシマシマの魚は、私が都会のビルで、アスファルト40度とかになってる世界で、エアコンキンキン世界で、パソコンの前で、野菜ジュース飲みながらエクセルの関数組んでる時にもここにいて、餌を食べて、泳ぎ回っているんだ。


 このウミガメは、先週もきっと、こんなかんじでヒラヒラと泳ぎ回っていたんだろう。私が、ぎゅうぎゅうの地下鉄でハンディファンをあてて顔汗をかかないようにしながら通勤していた時も。ここにいる命たちは、私と同じ時間を生きている。まるで現実感がない。本当に同じ時間を生きているのか。私は生きていたんだろうか。


 なんとかダイビングをこなした私は、フラフラになりながら宿に帰ってきて、そのまま寝込んでいた。 


「調子はどう?」


「加奈子さん、ありがとうございます。もうだいぶ。本当にきついですね。船酔い」


「そうだよー。だからボートダイビング嫌い、やりたくないっていう人いるくらいだからね」


 加奈子さんは、ポカリを持ってきてくれた。


「船酔いにならない方法って」


「酔い止め飲むくらいしかないけど、飲んでも完璧じゃないからね。一晩寝て、明日の夜までに体調戻せば大丈夫」


「でも、こんなことも経験しないと知らなかったです。もし、今までの私だったら、ダイビングをしようなんて思わなかったし、元彼も、そもそも船なんて乗る発想なかったと思う」


「元彼?」


「あー、私、彼と別れたばっかりで。ずーっと、依存ていうか、彼マターの生活をしていて。自分というものを見失っていたんですよね。と、今回の旅で痛感しました」


「そっか」


「溜まった有給を、どう使おうか考えていたら、職場の上司から慶良間ブルーの話を聞いたわけですけど」


「なかなかね。誰かと長く一緒にいると、そのリズムに馴染んじゃうからね」


「はい。彼とまだ一緒だったら、絶対にない選択肢で、今日経験したことを一つも知らないで死んでいったと思います私」


「それはそれでいいと思うけどね。新しいことなんて欲してない人の方が多いよ。でも、なんでも自分次第だよ」


「自分次第の、何ができるのか、選択肢がどのくらいあるのか、を、知っていきたいです」


「明日、ナイトダイビング、天気いいといいね」


「そうですね」


 今日食べたものはすべて大海原にばらまいた。溜まっていたものも、一緒にばら撒いたような気がする。鏡を見ると、あんなに厚く日焼け止めを塗ったのに、私の顔はビールでも飲んだかの様に赤くなっていて、日々美白に努めていた自分からは想像もできない顔をしていた。でもなんか、悪くない。この赤みが取れたら、黒くなるだろうか。日焼けなんて、中学生以来だ。


 満月が綺麗に見える。その周りには、無数の星。夜空ってこんなに賑やかなものだったんだろうか。私の知ってる夜空は、何もない闇で、それをビルの明かりが照らしている。東京タワーは季節によってライトを変え、怪しく東京を照らす。それが私の知っている夜空。


 沖縄の夜は、東京の熱帯夜よりずっと涼しくて過ごしやすい。このビーチには、ダイビングの装備をしたグループがちらほら見える。みんなナイトダイビングに入るのだ。今はナイトダイビングのハイシーズンで、沖縄中のダイビングショップがこぞってツアーを組んでいるらしい。


「ビーチエントリーですので、装備をつけたらこのまま海に入っていきます。ライトの取り扱い注意してください」


 佐々田さんが注意をしている。波の音が聞こえる。


「うわー、流れ星が見えた」


「満月の夜でも、星がここまで見えるってすごいよね」


「すごいです!月がこんなに明るいのに、星も見えるなんて」


「東京じゃ、月しかないもんね」


 私が見たことのある星空なんて、たかが知れてるということを思い知った。細かく細かく星があって、立体的な空がそこにはあった。その下には漆黒の海。光がないと、こんなにも闇なのか。月の光が反射しているところ以外は、ひたすら黒が世界を押し広げていた。


 装備をつけた私は、じゃばじゃばと、ビーチから入っていく。見えないところを進んでいく。背中に背負った酸素は重いし、足にはフィンをつけているので歩きにくい上に、足元が見えない。


「うわー、月の光が反射してますけど、海は黒くて、なんか怖いですね」


「うん、でも、この下は、賑やかな海の生物たちの世界だよ」


 加奈子さんは余裕だ。私は、海が黒くて怖い。その黒さには、何の表情も感じられない。その下に何があるのか想像できない様な、何もかもを隠す黒。少し遠くを見つめると、ライトの光の届かない黒が広がる。何かあるのに何もない様に見える暗闇。

海に沈んでいく瞬間が、とても不思議。酸素ボンベを持っていなかったら、呼吸のためにすぐに浮上しているところを、そのまま沈んでいく。深く深く沈んでいく。不思議な感覚。黒い海に、わたしが沈んでいく。すぐにウエットスーツに海水が入ってくる。最初のこの感覚は苦手だ。海が私に侵入してくるようだ。冷たい水が、私の体をどんどん冷やしていく。そしてそれが、海が私を包む。マスクをつけていると、視界が狭い。周りの人に置いていかれない様に、はぐれない様に気をつけなくてはならない。マスクが曇っても対応できる様に、少し水を入れておく。酸素ボンベの空気は、無味無臭。自分の吐いた空気が、上に向かっていく。下にいる人の空気が、私のそばを通過していく。


 スキューバダイビングは、人が縦に移動できる。人は横移動しかできない。自転車も、車も、横移動だ。エレベーターを使うと縦に移動できるが、それは床があることが前提で、人は地面に沿ってしか移動できないのだ。しかし、スキューバダイビングは、自力で十数メートル縦に移動することができる。私の持っているオープンウォーターというライセンスは十八メートル潜ることができる。ビルの一階から六階までを自分のみで移動できるということだ。まるで空を飛んでいるみたい。職場のある六階のフロアから、すーっと一階の受付までまで空を飛んで降りていく。そんな想像をしながら、下に下に沈んでいく。


 暗闇の中、ライトの灯りで世界を照らす。ライトで見える範囲が、私の世界、狭い狭い世界。闇の中の狭い世界に恐怖とともになぜか心地よさを感じる。非日常すぎて、現実ではない様な、曖昧な気分になる。現実ではない様な暗闇で、私は上下左右に悠々と移動できるのだ。縦も横も関係ない。重力の感じない世界。


 潜っていくと、ガイドの佐々田さんが生き物を教えてくれる。昼は隠れている生物たちが、いきいきと動き回っている。昼は俊敏な魚が寝ている姿を見ることもできる。目を開けたままゆらゆらと佇む魚を見ている。そして悠々と泳ぐ小型のサメ、ネムリブカが一匹。サメの独特のフォルムと身体がS字に動いて泳ぐ様が、美しい。ネムリブカは、日中じっとしているサメだが、今は夜。彼らは夜の海の支配者だ。その独特な猫目で、じっとこちらを監視している。ネムリブカから私はどう見えているのだろうか。暗闇に現れた、泡を吐く大きな光る生物だろうか。ネムリブカなら、こいつ一人だななんておもわないだろうな。ネムリブカも一匹だ。岩の下にはウミガメが一匹漂っている。寝ていたところを起こしてしまっただろうか。ウミガメから責める様な視線を感じる。ライトの光にもだんだん慣れてきた、小さく限定されたライトの中の世界。


 自分の呼吸音だけが聞こえる、小さな世界。


 佐々田さんに付いて、「根」へ泳いでいく。「根」は、生き物たちのオアシスだ。真っ黒な海の中、急に珊瑚が形作った「根」が見えてくる。佐々田さんがみんなを呼ぶ。そこには、産卵する珊瑚があった。小さな卵を吐き出す珊瑚。その小さなたまごが無数に漂う空間は、まるで、星空の中に自分がいるみたい。そうだ、さっき見た星空の中を遊泳している。海の中に星空があったんだ。まるで宇宙。宇宙の中を、自分が自在に泳いでいる。


 珊瑚の卵と、ネムリブカと、ウミガメと私だけの、小さな宇宙。


 水深十四メートル。海の中にいる限り、背中に背負った酸素ボンベの残りが私の命のリミットだ。視界も狭く、海水に体温を奪われ続けているこの状況は、命が海に押しつぶされそう。海の中では自分だけが唯一、最小単位だということがよくわかる。冷えてきた指先は、グローブの中にある。フィンがついた足は重い。吐き出す空気の泡は、あっという間に上へ登り霧散していく。このウエットスーツの中には私しかいない。私以外は私に干渉できない。私だけが私を動かし、私だけが私を守れるのだ。自分の輪郭がはっきり見える。この暗闇で、わずかなライトに照らされた世界で、冷えた体が珊瑚の卵に包まれていく。


 東京は相変わらず、毎日三十五度を超えている。外を歩くとあっというまに汗だくになる。ウエットスーツの下の冷えた体が懐かしい。


「おー、おかえり桜田。日焼けしたね」


「そうなんですよ。ちゃんと珊瑚にやさしい日焼け止めを使っていたんですけどね。でも途中から日焼け止めが面倒になって塗るのやめたら、日焼けしすぎて持ってたファンデが合わなくなりました。でもいいんです」


「へえ。美白命だったのにいいんだ。楽しかった?」


「はい。あの、次の社内昇格試験、受けてみようかなと思います。吉住課長、推薦お願いできますか?吉住課長に続きます私!」


「え?桜田、何年も断ってたじゃん。私出世に興味ないんで。とか言ってさ」


「そうなんですけど、なんか、最後は自分だよなって」


「え?何最後って。最初も最後も、自分以外のなんなんだよ」


 こういうことを、さらっと言う吉住課長のことを、前はうざく感じていた。でも今は、この人は本当にそう思っているんだということが、わかるようになった。なんでだろうか、吉住課長のことも以前の私は斜めに見ていたのだ。最後は自分か。そう思えたら、何があっても自分さえ信用できれば乗り越えられる気がする。


「いや、自分が頑張らなくても、彼と結婚すればいいとか、色々こすいことを思っていたみたいで私。私自身が両足で立って歩ければ、それが正解かなって」


 必要なのは、信用できる自分であることなんだ。


「ちょっと前の自分が、他人のことみたいじゃん」


「自分以外、自分を助けられないですよね!」


「ふーん。ま、なんでも自分が実力つけるしかないよ。これ紫芋パイ?なんか沖縄のお土産っておしゃれになってない?」


「よかったですよ慶良間ブルー。真っ青な空に深い青の慶良間ブルー!その大海原に、ゲロ吐いてきました!」


「え?なにそれ、船酔い?」


 この高層ビルの中で仕事をしている今も、あの海の底では、ネムリブカやウミガメが、一匹でゆうゆうと生活しているのだ。ビルの隙間から見える青空を見る。この空は、あの海に繋がっている。次の満月には、また海の中に宇宙が広がるだろうか。

(了)


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ナイトダイビング 二瓶佳子 @KC1129

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画