第2話:触れる

怜のマンションは、本で埋まっていた。


床にも、棚にも、テーブルの上にも。背表紙が見えるものもあれば、紙束のまま積まれているものもある。どこに座ればいいか分からなくて、私は入り口に立ったまま動けなかった。


「靴、そこでいい」


怜は振り返らずに言って、キッチンへ消えた。


私はなぜここにいるのか。打ち合わせの帰り、終電を逃した。それだけだ。それだけのはずだ。タクシーで帰ればよかった。怜が「うち来る?」と言った時、断ればよかった。


でも、断らなかった。


水の音がして、怜がグラスを二つ持って戻ってきた。一つを私に差し出す。受け取る時、指が触れた。


「……っ」


小さく息を飲んだのは、私だった。


怜は何も言わない。ただ、見ている。


「座れば」


本の山の間に、ソファがあった。私は端に座る。怜は反対の端に座る。距離がある。あるはずだった。


「佐伯さん」


怜が私の名前を呼んだ。苗字で。いつもそうだ。


「本当にうち来るとは思わなかった。なんで来たの?」


「……終電」


「タクシーあるだろ」


知ってる。


「んで、なんで来たの?」


同じ質問。同じ声。でも二回目は、違う意味を持っていた。


答えられなかった。私には分からなかった。あの蛍光灯のちらつくリビングを出て、三ヶ月。一人暮らしを始めて、仕事に戻って、普通に生きてる。はずだった。


でも、何も感じない。


朝起きても、夜眠っても、誰かと話しても、何も——


「分かんない」


声が出た。自分でも驚くほど、正直な声だった。


「分かんないの。私、なんで来ちゃったのか」


怜が動いた。距離が消えた。


怜の手が私の頬に触れた。冷たかった。さっき水のグラスを持っていたから。その冷たさが、肌に染みた。


「——っ」


息を吸い込んだ。体が強張った。心臓が跳ねた。


何これ。たった、触れられただけで。


「佐伯さん」


怜の声が近い。吐息が肌にかかる。


「俺が怖い?」


「……分かんない」


「それとも、自分が怖い?」


怜の親指が、私の唇に触れた。


「俺は別に何もしないよ。お前が何もしたくないなら」


したくない。帰りたい。逃げたい。


でも——


「……して」


声が出た。私の声じゃないみたいだった。喉の奥から、誰かが喋ってる。


「何を?」


怜は動かない。待ってる。


「言えよ」


「……っ」


言えない。言葉にできない。7年間、私は「良い子」だった。正しいことをして、正しいことを言って、正しい恋愛をしてきた。


こんなこと言えない。


でも、言わなきゃ、怜は——


「触って」


言った瞬間、怜が笑った。初めて見る笑い方だった。冷たいような、優しいような。


「そんな顔するなよ」


怜の手が首筋に滑る。そのまま肩に。鎖骨に。服の上から、輪郭をなぞるように。


「別に、悪いことしてるわけじゃない」


違う。悪いことだ。これは悪いことだ。まだ三ヶ月しか経ってない。彼の匂いもまだ覚えてる。なのに私は——


怜の手が服の中に入った。直接、肌に触れられた瞬間、頭が真っ白になった。


「——っ、あ」


声が出た。抑えられなかった。体が震えた。熱かった。たったそれだけのことで、体中が熱かった。


「7年、何やってたの」


怜の声が降ってくる。耳元で。


「お前、全然、」


「っ、やめ、」


「やめない。お前が来たんだろ」


そうだ。私が来た。私が言った。


怜の手が背中に回る。ブラのホックに指がかかる。


「嫌なら言え。今なら止まめてやる」


嫌じゃない。嫌じゃなかった。


怖い。怖くて、熱くて、頭がおかしくなりそうで——でも、生きてる。


今、私、生きてる。


「……やめないで」


言った瞬間、怜の目が変わった。獣みたいだった。


---


そこから先は、覚えてない。


嘘だ。覚えてる。全部覚えてる。


泣いた理由だけ、分からない。


全部覚えてる。


朝、目が覚めた時、怜は隣にいなかった。キッチンからコーヒーの匂いがした。私は裸のまま毛布に包まって、天井を見ていた。


何も考えられなかった。


罪悪感があるはずだった。後悔があるはずだった。でも、何もなかった。


ただ、体が覚えていた。


触れられた場所が、まだ熱かった。


---


怜が戻ってきた。マグカップを二つ持って。


「もう日が昇りそうだけど帰る?」


声が平坦だった。昨夜のあの目は、もうどこにもなかった。


「……うん」


私は答えた。服を探した。床に散らばっていた。


「佐伯さん」


着替えながら振り返る。怜は壁にもたれて、コーヒーを飲んでいた。


「これ、恋じゃないから」


知ってる。


「俺はお前を好きにならないし、お前も俺を好きになるな」


分かってる。


「でも——」


怜が少し黙った。


「また来たくなったら、来い」


私は何も言わずに頷いて、部屋を出た。


駅までの道、足が震えていた。歩けないほどじゃない。でも、震えていた。


私は壊れ始めている。


分かっていた。でも、もう止まれなかった。



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