季節外れ

まもる

季節外れ

 未だ日が沈むのが早い頃。梅が咲いたのを見かけるようになった3月初め。終業時間になり、急かされたように会社を出た。昼間に本降りだったらしい雪は、今はまばらに散っている。小さく弱々しい光源しかない夜道でも、辺りが一面雪でまぶされているのがよくわかる。それでも、日頃より特段寒いとは感じなかった。カーキ色のダウンジャケットのポッケに手を突っ込み、滑らない中での一番の速さで、雪を踏み込んでいく。ネックウォーマーで隠した口元から白い息が漏れ出ている。ぱらぱらとした一欠片を捉えられるような降り方に傘は必要ない。


 雪があることのみ除けば、いつも通りの駐輪場までの五分間へ。






 彼女は10月にここへ異動してきた。まだまだ蒸し暑さがまとわりついているような時期だった。

 一年の中で10月と言えばだいぶ秋に近いという印象を受ける。しかし実際は、夏の暑さが無理やり引きのばされているような感じ。頭の中で思い浮かべる10月は秋真っ盛りで、夏の余韻を一切感じない、何をするのにもちょうどいい空気があるのに、だ。秋は来ないのかと不満になる期間は、年々長くなっているような気がする。

 こんなにも気温に辟易してしまうのは異常気象のためなのか。堪え性がなくなってしまったのか。はたまた理想の秋への期待のためか。

 暑さから解放されて、なにかとやる気が起こる。社会を取り囲む色彩は、パキッとして眩しいものから、奥行きのある落ち着いたものへ。旬の果物のぶどうやりんご、野菜ではさつまいもをおいしく食べる。ふとした時にしんみりとした冷気を感じ、寒さ本番に向けて準備をする。こんな秋をいつでも求めているのだ。






 彼女は未だに慣れない、初めて異動してきた先で忙しなく日々を送っていた。前の職場の2年間が恋しくなる。自分がそこで新社会人として迎えられ、何ができて何ができないのか、皆に周知されていた状態。その過程により自分の作業範囲が独立することで、居場所があった。

 今の職場に明確な不満点があるという訳ではない。強いていうならば、彼女が新たな環境に適応できていない。ただそれだけだ。しかし起こる大抵の悩みなんてこういうものなのではなかろうか。環境に身体が追いつかず、頭がどこかぼやぼやしている。日々を噛み締める余裕がなく、ただただ疲労の中、一度しかない今日という日を消費していくことで生き長らえているようだ。




 


 上で述べられる思いや仕事の悩みから考えてみると、なんだかずっと彼女は一人の意識の中にいるように思われる。起こる事象に対して、自らの手を加えずそのまま享受する。現実という原石の対象をそのままに、自身もまた個のまま独立している。つまり事象と彼女自身に親和性がない。彼女はそういう性質を持つ人だった。そうして、出会うこととなった降雪日である。

 

 

 生まれてからずっと関東で過ごしてきた彼女にとって、昔も今も、雪とはなんとも珍しく、なんとも愉快な気分にさせてくれるものだ。

 彼女が最後に雪が積もるのを経験したのは三年程前であった。そのときには雪玉を3個積み上げ、等身大ほどの雪だるまを作った。午後七時頃、子供達のはしゃぎ声が散乱していた公園でのことだった。

 この雪が降ったという貴重な事象を、心に刻みたいという気持ちが原動力だった。雪というものがありながら、何もせずにはいられなかったのだ。






 雪との関わり方を振り返って、息を吐いた。今の自分は、どのように雪と交わるのだろうか。ポッケの中で拳を握り込んで指先を暖めようとする。

 会社の駐輪場へのちょうど中間あたりにある曲がり角に、1軒分の空き地がある。そこへふと目をやった。低い草しか生えていないその場所に、絨毯のように敷き詰められた雪を見てやろうと思ったのだ。

しかし一番に視界に飛び込んできたのは、少し奥にある一本の木だった。そして目を奪われる。伸びて広がった枝の間から、もやもやと光が漏れている。


「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり、かな」


 少し見上げるようにして立ち止まって呟いた。頭に浮かんだ、詠み人知らずの短歌の景色に重なると思ったためだ。

 この短歌は、枝間から差した月の光を見て、物思いの秋が来た、としみじみと感じることを詠んだものである。






 この空き地に木があることを知っていたのは、異動してどれくらい経ってからであっただろうか。認識したその時から、裸であった。この木がどんな形の葉を、どんな色で柔らかさで匂いで、そしてどう散らしていったのかを知らない。

 知っているのは、高さがあるというよりも横に広く枝をのばしているということ、枝の分岐が多いということ。そのためか、雪を纏ったその木はより大きく、より繊細そうに見える。




 枝に積もった雪を通して見る光は靄がかって柔らかい。誰もが惹き付けられる宝石のように、キラキラと目映いものではない。それはすっと夜の隙間から漏れ出る光。人々の心の中に存在する月の姿を忠実に表しているようだと思った。

 もっと、近くで見たい。闇夜に浮かぶ姿をこの目で見たい。四方八方に伸びる枝が、奥の方で何回も交差したその向こうを。短歌に映されたその月を……。






 彼女は急かされたように木の裏側へ回った。そこにあったのは街灯だった。細長い棒に点灯部が丸い、一般的な街灯。

 彼女は特にがっかりはしなかった。予想できたことだった。そもそも思い出された短歌は秋を詠ったものなのに、今は冬。とんだ的外れな連想だった。また、まばらでも雪が降っているというのに、月が出ていると考えることなんてなおさらだ。それに地球もなにか勘違いしてるのではなかろうか。この春一歩前に、雪を積もらせるなんて。










 残りほんの少しの徒歩の時間、触れた季節の風景について想いを馳せていた。その中でも心を大きく占めているのは秋のこと。ただでさえ短く感じる秋は、特に忙しなく過ぎてしまった。儚いが理想が詰まった季節。今年の秋が待ち遠しい。しかし、短歌のような物思いにふける秋を過ごすとなると、また一瞬で過ぎ去ることになるのだろう。様々な分野の不安事に心を揺られながら、たまに風景に目を奪われてみたりする。今も遠い昔も、四季によって起こされる感情や行動はそう変わらないのかもしれない。

 地べたをぎゅっと踏み込みながらゆったり歩く。細かい氷が潰されて、水っぽくなった足元に目をやった。そのまた後ろには、自分の足跡だけがずっと続いてきたのがある。もう少ししたら、雪に覆われるか車のタイヤで塗りつぶされるかで見えなくなるのだろう。






 駐輪場へ着き、鍵を外し、自転車に跨がる。人通りがいっそう少ない雪降る夜である。進む方向を見据えると、奥までぽつぽつと夜道が照らされている。


 今日という日に帰路に着く彼女を照らすのは、月ではなく街灯だった。

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