寝られないなら

まもる

一、寝られない

 喋らない、動かない、目を開けない。

 寝られないならそうしなければならない。お母さんから何回も言われたことだった。わかっていても、今日も眠ることができなかった。



 窓側に頭を向けて、横向きで目を瞑っていた。薄い毛布を体にかけている。なんだか足の位置がおかしい気がする。ねじれ方が正しくない気がする。足の指が毛布に接しているのがむずむずする。足の爪に敷布団が食い込んでいるのがよくない気がする。足首を組み換えてみた。そしてからやっぱりまっすぐに伸ばすことにした。

 今度は自重に潰される左肩に違和感を覚えてきた。そうなると、左腕の方も落ち着かない。体の左側を浮かして、肩を動かして腕を前から後ろに流した。こんなとき、手の形はどんなのがいいのだろうか。グーやパー、表向き裏向きにしていて考えていた。どれもしっくりこなかった。体に沿うように置いていた左腕を、毛布の中から出してみた。冷たいような空気に触れて気持ちよかった。

 頭の位置を変えたい。肩まで延びた髪が首にまとわりついるのをどうにかしたい。体の下敷きになる髪の毛を少しでも減らしたい。仰向けになって首を浮かして、手でなでるようにして動かせる髪全部を頭上に広げた。

 一段落して、目を開けてみると、真っ暗だった。何も物がない。誰もいない。奥行きのない黒があるだけだった。そして仰向けであることが不安定さを増大させた。体がすがるものがなかった。目を離したら襲われそうな闇の中、さらに怖くなって、反らせなくなって、目を閉じることができなかった。そしてまた不安は増殖して身体に溜まっていき、逃げたいのに逃げられない。怖さで爆発しそうになって、ふと助けを求めようとした。


「お母さん」

 返事はなかった。

「お母さん、起きてる?」

 不安を声に出して吐き出している。

「お母さん!」 

「うるさい!」


 今度は間髪いれずに、右隣で寝ていたお母さんが大声で言った。起き上がって長いぐしゃぐしゃの髪が顔にかかっているのが横目に見えた。気づいたら暗闇に目が慣れていた。いつもある天井の丸い光源の輪郭が見えてきた。

「さっきからもそもそもそもそ、もそもそ動いて!、こっちが寝られないんだよ!」

 大声がうるさかった。先程までは静かな部屋が続いていたから、余計にそう感じる。お母さんの言葉が発せられる度に起こる息の流れが顔にかかってくる。

「弟はこんなにぐっすり寝てるのに、なんでお前はできないわけ。」

 疑問形のようであるが、答えを求められていないことはわかった。先程より声は落ち着いていて、感情の爆発は抑えられている。しかし、密度の高いこちらを責める言葉で喉が締め付けられたようだった。

 わからない、自分が寝られないことが。そういうことを伝えたいが、口からは何も出てこない。


「お前が寝ないことで一番困るのは私なの。

今だけじゃなくてずっとお前に困らせられている。夜は寝ないし、好き嫌いはするし、片付けをしないし、人に挨拶もできない。弟の方がずっといい子だよ。外では騒ぐし、わがまま言って、泣いたらどうにかなると思ってる。今日だってご飯の時間なのにずっとテレビを見てた。後少し後少しって、言われてこっちが待ってるのにその約束を守らない。

お母さん、ずっと待ってたのに。やらないといけないことが全然できない。言われてもできない。お前は一体何ならできるんだよ!」 


 始め淡々とした話し方だったが、次第に声が大きく荒ぶってきた。最後には叫ぶようだった。こんなであるから、お母さんに対して反対側で寝ている3つ下の弟のコウスケを見てみたが、穏やかな寝顔があるばかりだった。こんな状況でも寝ていられるのが羨ましい。

 

 少し声をかけただけなのに、面倒くさいことになってきた。もう暗がりのことなんか忘れて、ただひたすらに母親に威圧されていた。声を出さなければよかったのに。ただ眠れなかっただけの時間に戻りたい。

「ごめんなさい」

「もうお母さんこんなことしたくない、やめたいんだよ!、お前なんかいなければよかった」

「ごめんなさい」

「お前なんか産まなきゃよかった。いや、お前は私の子じゃない。だからこれからご飯も作ってあげないし、服も靴もあげないし、ここに住んではいけない。家族じゃないから、自分で全部やるの。私の子じゃないからもう育てない。外に出ていけ。」

「いやだ」

「出ていけ!」

「いやだ」


 とにかく外には出たくない。どうせ裸足だし、地べたには横になることもできない。夏の終わり頃と言っても夜はずっと冷えるし、温度のない、ゴツゴツしたコンクリートのことを知っていた。それに一回出されたら2時間は戻れない。だから必死に言い返した。そんなやり取りを数回繰り返して痺れを切らしたのだろう、手首を強く握られ引っ張られた。


「痛い!、やめて」


 大の大人の力に5歳児が敵うわけない。どんどんベランダへ引き摺られていく。それでも自分が出せる精一杯の力で踏み留まろうと必死になった。

 お母さんは窓を開け、ベランダへ追い出そうとしてくる。そこで窓の枠の、薄い金属の板が出っ張りとなっていることがいい仕事をする。最後の一踏ん張りとでも言うようにそこにしがみつく。手のひらに金属が食い込んで痛いが、ここを耐えて外に出されるのを阻止しなければならない。窓枠を掴んで部屋側に体を倒す。そうしながらもお母さんの手を引き剥がそうと爪を立てたりした。お母さんは手首をがっしりと掴んだま外へと引っ張る。この状態がしばらく続いた。いつまで続けるのかわからないまま、外に出されないならこのままでいいと思っていた。



 するといきなり上に持ち上げられ体は宙に浮かんだ。そうなると全く抵抗できなかった。そしてベランダの手すりの上に足裏を乗せられた。


「自分で家から出ていくか、ここから落ちるか、選べ」  

 両手を一つの手で掴み、それを揺らしながら言われた。

「部屋に戻りたい」

「選べないなら、ここから落ちろ」

「いやだ、いやだ」


 押しやられて、体が手すりより外側に倒れる。足の指に力を入れて手すりから離れないようにする。

一刻も早くこの状況から逃げ出して、寝られない暗がりの中に戻りたい。ずっとお母さんは大声だし、暴力的だし、怒られていて、涙も鼻水もボロボロになっていた。いやだいやだと、逃げるために声を張り上げる。



 お母さんに手を掴まれていることからのがれたい。お母さんの手を離して、今度はずっと捕まってはいけない。だから今、離してもらう必要がある。まとめられた両手の内一本を引っ張り出して、もう一方もそうするために動いていた。すると掴まれた片手は更に揺さぶられ、今度は手すりに膝の関節がかかった。



 下を見た。落ちそう。四階から、落ちそう。

「お母さん、落ちちゃうよ」

「落ちればいい」


 お母さんの表情を見ると口角が上がって、笑っているように見えた。落ちそうなのがおもしろいのか。

 とにかく体をベランダの内側に入れようともがいた。声も涙もいっぱいいっぱいになっていた。




「おい、なにしてるんだ」

 聞こえてきた低い声の方に目をやると、お父さんがいた。いつから起きて、気づいていたのだろう。ここまでにおいて部外者かのようなお父さんに対して、泣き叫んでいたことが気まずくなって静かになった。

「離せよ、離せ」

 どうやらお母さんに話しかけていたらしい。別の部屋で寝ているところを起こされたからか、怖い顔をしていた。騒ぎはずっと続いていたのだから、助けに来るならもっと早くすればいいのに。

 そしてお母さんごとベランダから剥がして、三人で部屋の中に戻ってきた。お父さんはお母さんと何か話していたが、もそもそ言っていたので内容はよくわからなかった。お母さんが泣き始めた。高い声で、可哀想に、助けを求めるように、苦しそうに。

 こちらはもう涙も鼻水もでなかった。放置されていて、どうすればいいのか。何事もなかったかのように戻っていいのか、しばらく考えていた。


 お母さんはお父さんに抱きしめられていた。お母さんは相変わらず高い声で可哀想に泣いていた。お父さんの表情を見ると、無表情だった。

 なんだか疲れてしまった。今なら寝れそうだ、と思うままに部屋に向かう。弟は何事もないかのように目を瞑ったままだった。元の位置でうつ伏せになって目を閉じた。触れた全面から、布団に疲れが吸収されていくのを感じた。








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