『嘘で書かれたのは、君の死体について』

諏訪彼方

プロローグ

 文章を書くと、体のどこかが削れる気がした。

 爪でも、皮膚でもなく、もっと内側。きっと名前のつかない部分。


 最初は楽しかった。

 頭の中にあるものを文字として並べるだけで、誰かが喜んでくれたから。


「救われました」

「生きててよかった」

「あなたの文章が、私の全部です」


 そういう言葉を読むたび、私は少しずつ死んでいった。


 ——救われたのは、私じゃない。


 誰かの人生の代わりに、私の中身が削られていく。それも含めて才能と呼ぶなら、才能は臓器みたいなものだと思う。


 切り取っても、しばらくは生きていられる。


 名前を与えられた。

 Luna。

 夜に光る、手の届かないもの。


 担当編集者は言った。

「君は特別だ」

「この文章は売れる」

「本名は出さなくていい」


 本名は、邪魔だった。

 私という人間は、売り物に向いていなかった。


 原稿は直された。

 感情は薄められ、痛みは整えられた。

 とにかく読みやすく、消費しやすく。


 それでも、みんな泣いてくれた。


 泣いているのは、私じゃないのに。


 更新をやめた夜、誰にも連絡はしなかった。

 言葉を残すと、また誰かがそれを使うから。


 アカウントを消す前、最後に数字を見た。

 フォロワー数、評価、ランキング。


 私の人生が、きれいに並んでいた。


 ——ああ、綺麗に◯◯されたんだ。


 数年後、彼に会った。

 新人賞の控室。

 私の文章を「救い」だと言った人。


 目が、あまりにも綺麗だった。

 何もかもを信じている目。

 何も疑わない目。


 あの目が、一番怖い。


「あなたの作品に、救われました」


 その言葉を聞いた瞬間、

 胸の奥で、何かが完全に壊れた。


 救われた人は、

 救われなかった人のことを、もう見ない。


 彼は言った。

「物語を書きたい」

「あなたのために」


 やめて、と言った。

 声は、震えていなかったと思う。


 書かれることは、生き返ることじゃない。

 もう一度、使われるだけだ。


 でも彼は書いた。

 名前を変えて、設定を変えて、

 私の人生を“物語”にした。


 世界は拍手した。

 勇気ある告発。

 才能を奪われた悲劇の作家。


 私はまた、Lunaになった。


 街で、自分のことを語る他人を見た。

 正しい言葉で、正しい怒りを向けていた。


 誰も、私を見ていなかった。


 ——物語は、私より長生きする。


 それだけが、事実だった。


 文章は、今も書ける。

 頭の中には、いくらでもある。


 でも書かない。

 書けば、誰かがそれを拾って、

 正義の顔をして踏みつけるから。


 私は今日も、何も書かない原稿を閉じる。


 そして思う。


 才能がなければ、

 私はただの人間でいられたのに。

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『嘘で書かれたのは、君の死体について』 諏訪彼方 @suwakanata

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