第2話:『鏡像の迷宮 ~自己批判なき戦い、あるいは終わらない審議~』

そのダンジョンは、冒険者の「精神(メンタル)」を折ることで有名だった。  『真実の鏡宮(ミラー・ラビリンス)』。  水晶でできた壁面が延々と続くその迷宮では、ある地点に到達すると、必ず「自分自身の写し身(ドッペルゲンガー)」が現れるという。  写し身は、本人の心の闇、あるいは能力の欠点を残酷なまでに模倣し、襲いかかってくる。  己自身を乗り越えぬ限り、出口は開かない。


 これまで数多の英雄が、己の影に敗れ、心を病んで帰還した。  だが、今回挑むのは「彼ら」である。


「シゲル。鏡がいっぱいだね」 「……見ればわかります。しかし、この鏡の製造コストは誰が負担したのか。私はね、ダンジョン運営の不透明な資金の流れに、強い懸念を抱いている」


 勇者シンと、賢者シゲル。  この世界で最も会話が成立しない二人組である。


 彼らが迷宮の深層、「試練の間」に足を踏み入れた瞬間、空間が歪んだ。  魔法の光が収束し、二人の前にはっきりと「敵」が実体化する。


 シゲルの前には、眉間に深い皺を刻み、ねちっこい視線を送る「影シゲル」が。  シンの前には、一点の曇りもない笑顔で白い歯を見せる「影シン」が。


『ようこそ、愚かな挑戦者よ……』  迷宮の管理システムの声が、どこからともなく響いた。 『ここは己との対話の場。目の前の自分を倒さねば、先へは進めぬ。さあ、殺し合え……己が罪と向き合い、絶望するがいい!』


 ゴゴゴゴ……と壁が迫り上がり、シンとシゲルは分断された。  それぞれの「個室」で、自分自身との決闘が始まる。


 ***


【SIDE:賢者シゲル vs 影シゲル】


 部屋に閉じ込められたシゲルは、目の前の影を見て、不快そうに鼻を鳴らした。  実に理屈っぽく、陰気な男だ。自分だから当然だが。  シゲルが杖を構えようとした、その時だった。


「待ちなさい」  影シゲルが、重厚なバリトンボイスで制止した。  その手は「待った」の形をしている。


「……一理ある。暴力による解決は、あくまで最終手段であるべきだ。ならば問おう。君は私と戦う意思があるのか?」


「戦う意思があるか、と問われれば、それは『戦う定義』による、と答えざるを得ない」


 影シゲルは腕を組み、天井を見上げて長考に入った。


「物理的な打撃をもって相手を排除することを『戦い』と呼ぶのか、あるいは言論によるヘゲモニー争いも含むのか。この定義を曖昧にしたまま戦闘行為に突入することは、現場の混乱を招くだけだ。そうでしょう?」


「……まさしく。君の言う通りだ。定義なき戦いに、大義はない」


 本物シゲルも腕を組み、深く頷いた。  敵ながら、話がわかる。いや、自分だからこそ、この「懸念」が共有できる。


「では、まず『勝利条件』の策定から入るべきではないか?」


「その通りだ。しかし、その条件を決める議長はどちらが務める? 私が議長になり、君が提案者になる。このパワーバランスが固定化されることに、公平性の観点から疑義がある」


「ならば第三者委員会を設置すべきだが、この部屋には我々しかいない。これは由々しき事態だ……」


「鋭い。実に鋭い懸念だ。では、外部有識者を招聘(しょうへい)すべきだが、この階層には誰もいない。……果たして、通りすがりのスライムに、その有識者としての資質があるのか」


「スライムの知能指数についてのデータがない。データなき判断は無謀だ。まずはスライムの知能テストを行うための予算計上から始めるべきではないか?」


「予算か……。財源はどうする? 赤字国債……いや、パーティ共有財産を取り崩すのか? それは将来世代へのツケを回すことにならないか?」


「財政規律の問題に発展しましたね。これは長期戦になる。一度、持ち帰って再考するべきでは?」


「……賛成だ。継続審議としよう」


「待ちなさい。『継続審議』とするためには、まずこの場における議事進行の停止動議を提出し、過半数の賛成を得る必要がある。君と私、二名しかいない状況で、果たして採決が成立するのか」


「定足数の問題か。ならば、議長決裁に委ねるべきだが、先ほど申し上げた通り、議長職の選定が終わっていない。これでは動議が出せない」


「動議が出せないということは、審議を止めることもできない。つまり、このまま議論を続けるしかないということになるが……」


「やむを得ない。では、議題を『議長選出のための選挙管理委員会の設置』に移そう。委員の選定には公正な相互監視が必要だが、その監視コストを誰が負担するか……労働基準法上の時間外労働(残業)扱いになるのか?」


「36協定(サブロクきょうてい)の締結が必要になるな。しかし、労使の代表者がここにはいない。組合を作るところから始めねば……」


 終わらない。  終わる気配がない。  「戦わないための議論」をしていたはずが、いつの間にか「議論をするための議論」になり、さらに「議論の準備をするための手続き」へと後退している。  まさに牛歩。一歩進んで三歩下がる。  迷宮の管理システムは、この不毛なループ処理にCPU使用率を100%持っていかれ、発熱し始めていた。


 ***


【SIDE:勇者シン vs 影シン】


 一方、隣の部屋では、眩しいほどの光が満ちていた。


「やあ。君は僕だね」 「やあ。僕は君だ」


「君は僕だ。それはつまり、僕たちは同じ存在だということだね」 「すごい! その通りだ! 僕たちは同じだ!」


「同じであるということは、違うところがないということだ」 「なんて的確な表現なんだ! 完全に同意するよ!」


 ガシィッ!!  二人のシンは手を取り合い、ポジティブな光を撒き散らしていた。  敵対心ゼロ。自己否定ゼロ。あるのは「全肯定」のみ。


「でもシン。ここを出るためには、どちらかが消えなきゃいけないらしい」 「消える。それはつまり、いなくなるということだね」 「少し寂しいね。寂しいということは、悲しいということだ」


「でも大丈夫。僕が君で、君が僕なら、僕が勝てば君も勝ったことになる!」 「天才か!? その発想はなかった! つまり、僕が負けても、それは僕の勝ちということだね!」 「そうだよ! Win-Winだ! Win-Winということは、両方勝つということだ!」


 もはや論理が崩壊しているが、二人の間では完璧な世界平和が成立していた。  だが、ふと影シンが、意地悪な質問を思いついたように首を傾げた。  それは、このダンジョンが仕掛けた最後の「論理の罠」。


「でもシン。もし仮に……『お互いが負けた場合』はどうなるんだい? If we both lose, what happens to the world?(もし我々が両方負けたら、世界はどうなる?)」


 影シンが、突然流暢な異国語(英語)を交えて、核心を突く質問を投げかけた。  両方勝つならいい。だが、両方負ける可能性もあるはずだ。その時、責任はどう取る?  論理的に答えなければ詰む局面。


 しかし、本物シンは、あの爽やかな笑顔を崩さなかった。  彼はゆっくりと頷き、全く関係ないことを言い出した。


「……うん。その質問についてはね、今ここで答えるよりも、僕はこう思うんだ」


「?」


「僕はね、日本の……いや、この世界の読者に向けて、この世界の言葉(日本語)で説明することこそが、理解を得るために一番大切なことだと思っているんです」


「……は? No, I'm asking about the losing scenario...(いや、負けた場合の話を……)」


「だからこそ! 僕はここで、あえて異国の言葉には乗らない。皆さんに正確にお伝えしたいからこそ、日本語で通す。それが、誠意ということなんだ」


「Wait……(待って……)」


「誠意を見せる。それはつまり、嘘をつかないということだ!」


「No logic!(論理がない!)」


「そして僕は今、日本語を喋っている! これはつまり、君の質問には答えないということなんだよ!」


「Oh my god……(なんてこった……)」


 影シンが頭を抱えた。  会話のドッジボールですらない。ボールを投げられたのに、突然「僕はボールじゃなくて国民を見ています」と言って、ボールを地面に埋めたようなものだ。  論理的追及を、「想い」と「言語の壁(自作)」で無効化する。  これぞ、無敵の空虚(ポエム)シールド。


 ***


 迷宮の中枢にある「魔導コア」は、限界を超えていた。


 右の部屋では、「36協定の締結」について激論が交わされ、一向にファイルが開かれない。  左の部屋では、クリティカルな質問に対し「日本語で喋りたいから答えない」という、対話拒否スキルが発動している。


『け、警告……警告……』 『論理遅延(タイムアウト)および、回答拒否(スルー)による対話不全を確認……』


 システム側がキレた。  こんな連中の相手をしていては、ダンジョンの品位に関わる。


『ええい、もういい! お前らなど知らん! 出て行けぇぇぇぇっ!!』


 ドガァァァァァァン!!


 迷宮の壁が爆ぜた。  物理的な破壊ではない。世界からの「強制退場(BAN)」である。  粉塵が舞う中、二人の男が平然と立っていた。


「……ふん。労使協定の合意まであと少しだったものを。議論の腰を折るとは、ダンジョン側の強引な手法に抗議する」


 シゲルは埃を払いながら、心底不満そうに眼鏡の位置を直した。  MPは満タンのままだが、理屈をこねすぎて肩が凝っている。


「やったねシゲル! 出られたよ!」


 シンは満面の笑みで、崩れ落ちた迷宮を指差した。


「出られた。それはつまり、脱出したということだ!」 「結果論だ。プロセスに重大な疑義が残る。君、中で何をしていたんです? 何か揉めていたようだが」 「ん? 何も揉めてないよ。ただ、僕は日本語で話したかっただけさ」 「……? まあいい。君のその、都合の悪いことを笑顔で流す能力だけは、ある意味で最強の盾だよ」


 シゲルは深いため息をついた。  背後では、伝説の『真実の鏡宮』が、ガラガラと音を立てて崩壊していく。  歴史あるダンジョンが一つ、物理攻撃を一切受けることなく廃墟と化した。


「さあ、行こうシゲル。次はいよいよ魔王城だ」 「……やれやれ。魔王との対話路線は模索できないのか? 私はまだ、武力行使への最終合意を……」 「行くぞ! 行くということは、Goということだ!」


 シンはシゲルの抗議を聞かず、爽やかに歩き出した。  その背中は、何も背負っていないがゆえに、誰よりも軽やかだった。

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