「君のその美貌は、俺の管理があってこそだったのに」モデルの妻に『貧乏くさい料理』と罵られ浮気された俺は、何も言わずに姿を消した。半年後、ボロボロになった元妻が縋ってきたが、もう手遅れだ。

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第一話 硝子の美貌と、捨てられたスープ

キッチンに、コトコトと鍋が煮立つ穏やかな音が響いている。

俺、高村健太(たかむら けんた)は、沸き立つ白い湯気越しに、真剣な眼差しで計量スプーンを握っていた。


「塩分濃度は0.8パーセント。これ以上はむくみの原因になる」


独り言のように呟き、ほんのわずかな塩をスープに溶かす。味見をすると、昆布と鰹から丁寧に引いた出汁の旨味が、口いっぱいに優しく広がった。薄味だが、素材本来の力が凝縮されている。これなら、疲労した胃腸にも負担をかけず、かつ必要なミネラルを効率よく吸収できるはずだ。


まな板の上には、低温調理でしっとりと仕上げた鶏の胸肉。それに合わせるのは、抗酸化作用の強いブロッコリーとパプリカ、そして腸内環境を整えるためのキノコのマリネだ。

色味は地味かもしれない。けれど、ここにあるのは単なる食事ではない。計算し尽くされた「美の処方箋」だ。


俺の本業は食品メーカーの管理栄養士だ。だが、今の俺にとっての最重要クライアントは、家に帰ってくる妻、恵玲奈(えれな)だった。


「よし、完成だ」


時計を見ると、針は十九時を回っている。そろそろ彼女が帰ってくる時間だ。

テーブルに料理を並べ、冷たいルイボスティーを用意する。完璧なタイミングだった。玄関のドアロックが解除される電子音が響き、ヒールの音が廊下を近づいてくる。


「ただいまー……あー、疲れた」


リビングのドアが開き、華やかな香水の匂いと共に妻が入ってきた。

高村恵玲奈。二十六歳。

透き通るような白磁の肌、すらりと伸びた手足、そして誰もが振り返る整った顔立ち。美容系インフルエンサーとして五十万人のフォロワーを抱え、最近ではモデルとしても雑誌やWeb広告に引っ張りだこの、俺の自慢の妻だ。


「お帰り、恵玲奈。撮影、長引いたみたいだね」


俺が笑顔で迎えると、恵玲奈は不機嫌そうにバッグをソファに放り投げた。


「もう最悪だったの。クライアントの要望が細かすぎてさ。……あー、お腹空いた」


彼女は俺を見ることなく、そのままダイニングテーブルへと近づく。そして、俺が丹精込めて作った料理を見下ろし、大きなため息をついた。


「またこれ? 健太、私さっき『疲れた』って言ったよね?」


刺々しい声が、静かな部屋に響く。


「だからこそだよ。今日のメニューは、疲労回復に必要なビタミンB群を強化してある。それに明日は朝から撮影だろう? 塩分を控えておかないと、顔がむくんでメイクさんが困るはずだ」


俺は努めて穏やかに諭した。

恵玲奈がモデルとして活動を始めてから三年。彼女の体調管理は全て俺が担ってきた。

付き合い始めた頃の彼女は、不規則な生活と偏食で肌荒れに悩み、モデルのオーディションに落ち続けていた。そんな彼女を見かねて、俺が食事と生活リズムを徹底的に管理し始めたのだ。

結果、彼女の肌は劇的に改善し、スタイルも洗練され、今の地位を築き上げた。「恵玲奈の美しさは、俺たちの二人三脚で作った作品だ」と、かつての彼女は笑って言ってくれたものだ。


しかし、今の恵玲奈の瞳に、感謝の色は微塵もなかった。


「理屈っぽいなあ。そういうのが聞きたいんじゃないの」


彼女は椅子に座ることなく、鶏胸肉の皿を指先で弾いた。


「茶色いし、地味だし、全然映えない。見てるだけでテンション下がるのよ。フォロワーのみんなが求めてるのはね、もっとキラキラした、人生を楽しんでる私の姿なの。こんな病院食みたいなの食べてたら、私が私じゃなくなっちゃう」

「でも、恵玲奈。先週、外食続きで肌の調子が落ちてただろ? 今ここでリセットしないと、取り返しがつかなくなるよ」

「うるさいっ!」


恵玲奈が声を荒らげた。

その拍子に、彼女の手がルイボスティーのグラスに当たり、琥珀色の液体がテーブルクロスに広がる。


「……あ」


恵玲奈は一瞬気まずそうな顔をしたが、すぐにふてぶてしい表情に戻った。


「あんたはいいよね、家で数字と睨めっこして料理作ってるだけで。私は外で戦ってるの。ストレス溜まってるのよ。たまにはガツンとした肉とか、濃厚なソースのかかったパスタとか、そういうのが食べたいわけ」

「それは……君の身体のためを思って」

「その『ためを思って』が重いのよ! 束縛しないで!」


彼女は吐き捨てるように言うと、スマートフォンを取り出した。画面をタップする指先には、派手なネイルアートが施されている。


「もういい。西園寺さんと打ち合わせ入れてくる。その後、なんか美味しいものでも食べて帰るから」

「西園寺さん……って、あの広告代理店の?」

「そうよ。私の担当。あんたと違って業界のことよく分かってるし、私の才能を伸ばそうとしてくれてる人」


西園寺翔。噂には聞いている。担当したモデルやタレントに次々と手を出し、派手な遊びを教え込むことで有名な男だ。

俺は胸の奥に黒い澱(おり)が溜まるのを感じながら、それでも食い下がった。


「恵玲奈、こんな時間から打ち合わせなんて、常識的じゃない。それに、外食は……」

「また管理? いい加減にしてよ。私はあんたの操り人形じゃないの。……あんたの料理なんて、ただの餌よ。家畜の餌」


餌。

その言葉が、俺の思考を停止させた。

早朝から市場へ行き、鮮度を見極め、栄養価を計算し、一グラム単位で調整し続けてきたこの数年間の献身が、「家畜の餌」という一言で切り捨てられた。


恵玲奈は凍りついた俺を無視して、クローゼットへ向かう。

数分後、彼女は背中の大きく開いた際どいドレスに着替えて戻ってきた。香水の香りが一層強くなっている。これから仕事に行く格好ではないことくらい、誰の目にも明らかだった。


「今日は遅くなるから。鍵、開けといて」


それだけ言い残し、彼女は風のように玄関を出て行った。

バタン、という乾いた音が閉まる。

残されたのは、冷め始めた「完璧な栄養食」と、こぼれたルイボスティーの染み、そして呆然と立ち尽くす俺だけだった。


俺は無言で布巾を取り、テーブルを拭いた。

怒りよりも先に、深い徒労感が押し寄せてくる。

彼女が売れっ子になってから、この生活が続いていた。俺は彼女のために、自身のキャリアアップの機会を断り、残業も減らし、全てをサポートに捧げてきた。それが愛だと思っていたからだ。


「……餌、か」


自嘲気味に呟き、冷めたスープを一口すする。

優しい味だ。身体に染み渡るような、滋味深い味わい。

けれど、彼女の舌はもう、この繊細な味を感じ取れなくなってしまったのだろうか。


ふと、ソファの上に何かが光っているのに気づいた。

恵玲奈が置き忘れていったタブレット端末だ。彼女はスマホと同期させて使っていたはずだ。

画面が明るくなり、通知が表示されている。

俺は普段、彼女のプライバシーを覗くような真似はしない。だが、この時は虫の知らせというか、何かに導かれるように画面を見てしまった。


LINEのポップアップ通知。

差出人は『西園寺 翔』。


『恵玲奈ちゃん、まだ? お店着いたよ。今日は特別にヴィンテージのワイン開けといたから』


それに続く、恵玲奈からの返信履歴も表示されている。おそらく、家を出る直前にスマホから送ったものだろう。


『ごめんなさい翔さん! 今出ました♡ 家の旦那がまた貧乏くさい草料理並べてて、説教してくるからウザくて。ほんと萎える。早く翔さんの美味しいご飯で口直ししたいな』


さらに、一枚の写真が添付されていた。

それは、俺がさっき並べた料理を盗み撮りした写真だ。

その上には、手書き風のスタンプで『#旦那飯 #家畜のエサ #映えない』と加工が施されている。


指先が震えた。

怒りではない。身体中の血液がスッと冷えていくような感覚だった。

俺が彼女の健康を願い、美しさを守るために注いできた愛情は、彼女と、その浮気相手にとっては、笑いのネタでしかなかったのだ。


『ははっ、マジで鳥の餌じゃんw あんなの食べてるから恵玲奈ちゃんの肌が綺麗だなんて、旦那も勘違い甚だしいね。恵玲奈ちゃんの美しさは、俺が与える極上の快楽で作られてるのにさ』


西園寺からの追撃メッセージが表示される。

そして、それに即座に既読がつき(スマホ側で見ているのだろう)、恵玲奈からの返信が来る。


『ほんとそれ! 旦那とかもうただの家政婦だし。早く翔さんに会いたい。今日は朝まで帰さないでね♡』


画面が暗転し、黒い鏡のようなディスプレイに、俺の顔が映り込んだ。

疲れ切った、情けない男の顔だ。


俺の中で、何かがプツリと切れる音がした。


これまで、どんなに理不尽なことを言われても、彼女が仕事でプレッシャーを感じているからだと自分に言い聞かせてきた。

彼女が輝いているのは、俺のサポートがあるからだという自負があった。いつか感謝してくれる日が来ると信じていた。

だが、それは傲慢な勘違いだったのかもしれない。

彼女にとって俺は、便利な栄養管理マシーンであり、都合の良いサンドバッグでしかなかったのだ。


「……そうか」


俺はぽつりと呟いた。

声は不思議なほど落ち着いていた。


「俺は、家政婦だったのか」


なら、契約終了だ。

家政婦は、雇い主からクビを宣告されたら出て行くしかない。いや、こんな扱いを受ける職場なら、こちらから願い下げだ。


俺はキッチンに戻り、手付かずの料理を全てゴミ箱に捨てた。

鶏肉も、彩り豊かな野菜も、時間をかけて取った出汁も。

全てが汚物のように重なり合う。それは、俺たちの結婚生活そのものに見えた。


寝室へ行き、クローゼットから旅行用のボストンバッグを取り出す。

必要なものは多くない。通帳、印鑑、数日分の着替え、そして栄養士の資格証明書。

恵玲奈との思い出の品――初めてのデートで撮った写真や、結婚記念日に買ったペアの時計――が目に入ったが、何も感じなかった。それらはすべて、ここに置いていく。


リビングに戻ると、書き置きを残すためにメモ帳を広げた。

書きたいことは山ほどある。罵倒の言葉も、失望の言葉も、これまでの感謝を求める言葉も。

けれど、ペンを走らせたのは、たった一行だけだった。


『君の望み通り、家政婦は解雇を受け入れます。これからは好きなものを食べて、自由に生きてください』


離婚届は、棚の引き出しに入っている。以前、彼女が喧嘩の勢いで「いつでも別れてやる」と言って買ってきたものだ。俺はそれに署名と捺印を済ませ、メモと一緒にテーブルの中央に置いた。

あの、こぼれたルイボスティーの染みの横に。


時計を見る。二十一時。

今頃、彼女は西園寺と高級レストランで、バターと油たっぷりのフレンチを食べ、高いワインを浴びるように飲んでいることだろう。

そしてその後は、ホテルで「朝まで」過ごすのだ。


「さようなら、恵玲奈」


俺は結婚指輪を外し、離婚届の上にカラリと落とした。

金属音が虚しく響く。

もう二度と、彼女のために包丁を握ることはない。

彼女の肌が荒れようが、体型が崩れようが、内臓が悲鳴を上げようが、俺には関係のないことだ。


俺はボストンバッグを肩に担ぎ、一度も振り返ることなく玄関を出た。

夜の空気は冷たかったが、不思議と呼吸がしやすかった。

重たい鎖が解けたような解放感が、静かに胸を満たしていった。


こうして、俺の「完璧な管理」の日々は終わりを告げた。

そしてそれは同時に、高村恵玲奈というモデルの、「終わりの始まり」でもあった。

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2026年1月2日 19:00
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