「夫にDVされてます」と嘘を吐き私を悪者に仕立て上げた妻と間男が、被害者面で婚約発表した瞬間に全ての証拠をバラ撒いてみた結果
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第一話 捏造された汚名
オフィスの空気が、どうしようもなく淀んでいる。そう感じ始めたのは、つい数日前からのことだった。
普段ならキーボードを叩く音と、時折交わされる業務連絡の声だけが響く静謐な空間だ。システムエンジニアとして働く俺、高村聡にとって、この場所は本来、最も落ち着く聖域のはずだった。だが今は違う。背中に突き刺さるような、粘着質な視線の数々。俺が給湯室へ向かおうと席を立つだけで、今まで談笑していた女性社員たちが一斉に口をつぐみ、俺が通り過ぎた瞬間にまたヒソヒソと囁き合う。
「……彼よね?」
「信じられない。あんなに真面目そうなのに」
「奥さん、可哀想……」
「やっぱり、人は見かけによらないっていうか……サイコパス?」
断片的に聞こえてくる単語の数々に、俺は眉をひそめた。被害妄想だろうか。いや、明らかに俺を見ている。だが、身に覚えがなさすぎる。仕事上のミスもなければ、ハラスメントに抵触するような言動をした覚えもない。むしろ、ここ数ヶ月は大規模プロジェクトの佳境で、朝から晩までモニターと睨めっこをする日々だ。他人に関心を持つ余裕すらなかった。
首を傾げながらデスクに戻ると、同期の男が気まずそうに目を逸らした。何かを聞こうと口を開きかけたが、彼は逃げるようにトイレへと立ってしまった。
一体、何が起きているというのか。
得体の知れない不安が胸の奥で黒い澱のように広がり始めていた。その不安の正体が、まさか最愛の妻である美咲に関連しているなどとは、この時の俺は微塵も想像していなかったのだ。
午後六時。定時を少し過ぎた頃、スマートフォンが震えた。画面に表示された名前は『美咲』。最近、帰宅しても先に寝ていることが多かった妻からの珍しい連絡に、俺は少しだけ表情を緩めた。忙しさにかまけて会話が減っていたことを、俺なりに反省していたからだ。
しかし、メッセージを開いた瞬間、俺の思考は凍りついた。
『大事な話があります。今すぐ私の実家に来てください』
絵文字もスタンプもない、無機質なテキスト。胸騒ぎがした。「実家に帰らせていただきます」という常套句が頭をよぎるが、俺たちは喧嘩をしたわけでもない。むしろ、先週末は久しぶりに二人で映画を観て、穏やかな時間を過ごしたはずだった。
俺は急いで荷物をまとめ、上司に早退の旨を伝えると、会社を飛び出した。タクシーに飛び乗り、美咲の実家へと向かう道中、何度も電話をかけたが、コール音が虚しく響くだけで繋がることはなかった。
美咲の実家は、都内でも閑静な住宅街にある立派な一軒家だ。インターホンを押すと、いつもなら愛想よく出迎えてくれる義母の声ではなく、重苦しい沈黙の後、カチャリと解錠される音がした。
玄関のドアを開けると、そこには異様な光景が広がっていた。
広いリビングのソファに、義父と義母が鬼のような形相で座っている。そしてその向かい側、本来なら俺が座るべき場所に、見知らぬ男が座っていた。高価そうなダークネイビーのスーツを着こなし、整髪料で髪を撫でつけた、いかにも「デキる男」風の優男だ。
そして、その男の隣に、美咲がいた。
美咲は俯き、男の背中に隠れるようにして小さく震えている。
「……こんばんは。あの、これは一体どういう」
俺が恐る恐る声をかけると、義父がテーブルを激しく叩いた。バンッ、という破裂音がリビングに響き渡る。
「よくもぬけぬけと顔を出せたものだな、聡くん! いや、高村!」
今まで一度も荒げたことのない義父の怒声に、俺は立ち尽くした。
「お義父さん? 何を……」
「とぼけるな! 美咲からすべて聞いたぞ。君が、こんなにも恐ろしい男だったとはな!」
義母もまた、ハンカチで目元を拭いながら、軽蔑のこもった眼差しを俺に向けてくる。
「娘をあんなふうに傷つけて……信じていたのに。本当に、人の皮を被った悪魔ね」
訳がわからない。俺が何をした? 美咲を傷つけた? 暴力など、一度たりとも振るったことはない。言葉の暴力だってそうだ。俺はいつだって美咲を尊重し、彼女の希望を優先してきたつもりだ。
混乱する俺の前に、スーツの男がゆっくりと立ち上がった。男は怜悧な眼差しで俺を見下ろし、芝居がかった仕草で眼鏡の位置を直した。
「初めまして、高村聡さん。私は新堂裕也と申します。美咲さんの高校時代の同級生であり、現在は彼女の精神的な支えとして、また法的代理人の窓口として、ここに同席させていただいております」
新堂、と名乗った男の声は、どこか粘着質で、生理的な嫌悪感を催させる響きを含んでいた。
「同級生? 法的代理人? どういうことだ美咲。説明してくれ」
俺が美咲に歩み寄ろうとすると、新堂が素早く俺たちの間に割って入った。まるで、凶暴な野獣から姫を守る騎士のように。
「近寄らないでいただきたい。彼女は今、あなたの顔を見るだけで過呼吸を起こしかねないほど、精神的に追い詰められているんです」
「はあ? 何を言って……」
「単刀直入に申し上げましょう。美咲さんは、あなたからの長年にわたるDV、および経済的虐待により、心身ともに限界を迎えています。我々は離婚、および慰謝料の請求、そして刑事告訴も視野に入れて動いています」
DV。経済的虐待。
あまりにも現実離れした単語の羅列に、俺の脳は処理落ちを起こしたかのように真っ白になった。
「……なんだって? 冗談はやめてくれ。俺がいつ、美咲に暴力を振るったと言うんだ。経済的虐待? 家計は全て美咲に任せているし、俺は小遣い制だぞ。通帳だって美咲が管理しているじゃないか」
必死に反論する俺を、新堂は鼻で笑った。
「典型的なモラハラ加害者の言い分ですね。『自分はやっていない』『相手が管理している』。そうやって自分を正当化し、記憶を改竄する。美咲さんから聞いていた通りだ」
新堂はテーブルの上に置かれた分厚い封筒を手に取り、中から数枚の写真と、一冊のノートを取り出した。そして、それらを義両親と俺に見えるように広げた。
「ご覧ください。これが証拠です」
写真に写っていたのは、美咲の腕や肩にある赤黒いアザだった。痛々しいその傷跡に、義母が「ひどい……」と声を漏らす。
だが、俺には覚えがない。絶対にない。
「これは……いつの写真だ? 俺はこんなことしていない!」
「しらばっくれるのもいい加減にしろ!」
義父が怒鳴る。
「美咲はな、お前が酒に酔って暴れるたびに、こうして証拠を残していたんだよ! この日記を見ろ!」
突きつけられたノートには、美咲の丸い筆跡で、悲痛な叫びが綴られていた。
『X月X日。聡くんがまた仕事のストレスでイライラしている。夕飯の味付けが気に入らないと言って、皿をひっくり返された。怖い。昔の優しい聡くんはどこにいってしまったの?』
『X月Y日。生活費が足りないと言ったら、お前が無駄遣いしているからだと怒鳴られた。私の化粧品なんて一つも買っていないのに。今日は髪を引っ張られて、壁に押し付けられた。痛い。誰か助けて』
震える文字で書かれたそれらの内容は、あまりにも具体的で、そしてあまりにも事実無根だった。
皿をひっくり返した? 俺は出された食事に文句を言ったことなどない。生活費? 毎月十分な額を入れているし、ボーナスも全額渡している。むしろ美咲が「今月は美容院に行きたいから」と言えば、俺のなけなしの小遣いから補填してやっていたほどだ。
「嘘だ……全部嘘だ! 美咲、何か言ってくれ! なんでこんな嘘をつくんだ!」
俺の悲痛な叫びに、美咲はようやく顔を上げた。その瞳は涙で潤んでいるが、俺と目が合った瞬間、彼女は新堂の腕にしがみついた。
「……怖い。やめて、聡くん。もう怒鳴らないで……」
か細い声。震える肩。完璧な「被害者」の演技だった。
新堂が美咲の肩を抱き寄せ、優しく背中をさする。
「大丈夫だよ、美咲。僕がいる。もうこの男には指一本触れさせない」
その光景を見て、俺の中で何かが「プツン」と切れる音がした。
恐怖ではない。絶望でもない。
新堂の腕の中で、美咲が俺に向けた一瞬の視線。涙に濡れたその瞳の奥に、微かな、本当に微かな「嘲笑」が浮かんでいたのを、俺は見逃さなかったからだ。
『これで私はあんたから解放される』
『可哀想な私、みんなに同情される私』
そんな歪んだ優越感と、俺を陥れることへの背徳的な悦びが、彼女の表情の端々から滲み出ていた。
ああ、そうか。
これは、計画的な罠だ。
俺の脳内で、急速に冷却システムが作動し始めた。沸騰しかけていた怒りの感情が、急速に冷徹な論理思考へと置き換わっていく。
会社でのあの視線も、美咲が裏で根回しをしていた結果なのだろう。彼女は時間をかけて、俺を「DV夫」というモンスターに仕立て上げ、自分は「耐え忍ぶ悲劇のヒロイン」という役を作り上げてきたのだ。
そして、この新堂という男。同級生と言ったが、あの距離感、あの慣れた手つき。ただの相談相手であるはずがない。二人は間違いなくデキている。不倫関係にある二人が、一緒になるための障害である俺を排除し、かつ慰謝料までむしり取ろうという魂胆か。
「……なるほど」
俺の口から漏れた言葉は、自分でも驚くほど低く、冷たかった。
今ここで感情的に「やってない」と叫んだところで、状況は悪化するだけだ。義両親は完全に洗脳されている。証拠として出されたアザの写真も、日記も、捏造だろうが「ある」という事実は強い。これを覆すには、感情論ではなく、客観的な「真実」が必要だ。
俺は深呼吸を一つし、握りしめていた拳をゆっくりと開いた。
今の俺に必要なのは、時間と情報だ。ここで暴れれば、それこそ彼らの思う壺。「逆上した夫が妻とその友人に襲いかかった」という既成事実を作らせるわけにはいかない。
「……わかりました」
「何がわかったと言うんだ」
義父が訝しげに俺を睨む。俺は努めて力のない、憔悴しきった声を装った。
「皆さんがそこまでおっしゃるなら……僕の記憶がないところで、美咲に辛い思いをさせていたのかもしれません。仕事のストレスで、自分が自分でなくなっていたのかも……」
俺の言葉に、美咲が目を見開いた。新堂の口元がニヤリと歪むのが見えた。勝った、と思ったのだろう。
「認めるんですね、高村さん」
「……正直、信じられませんが、美咲がそこまで怖がっているのが全てです。少し、頭を冷やしたい。このままここにいても、美咲を怖がらせるだけですから」
「当然だ! お前など二度とこの家の敷居を跨ぐな! 離婚届は郵送する。慰謝料の額も覚悟しておけ!」
義父の罵声を背に受けながら、俺は踵を返した。
去り際、チラリと振り返ると、新堂が美咲の耳元で何かを囁き、美咲がうっとりとした表情で彼を見上げているのが見えた。その光景は、吐き気を催すほどに醜悪で、同時にこれ以上ないほどの明確な「敵」の姿として俺の網膜に焼き付いた。
玄関を出て、重い鉄の扉を閉める。
夜風が火照った頬に冷たい。
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、ボイスレコーダーのアプリを停止させた。玄関に入る直前、何気なく起動しておいたものだ。ここには、彼らの発言のすべて――特に、新堂が「高校時代の同級生」として介入してきた事実や、具体的な暴行の捏造内容――が記録されている。
「……さて」
俺は夜空を見上げた。星も見えない曇天だ。
ウィークリーマンションを探さなければならない。そして、明日からは探偵事務所だ。
家を追い出されたことは、逆に好都合かもしれない。奴らは俺がいなくなった自宅で、勝利の美酒に酔いしれるだろう。警戒心が薄れたその時こそ、尻尾を掴む最大のチャンスだ。
『DV夫』
『モラハラ男』
彼らが俺に貼り付けたレッテル。それを剥がすだけでは足りない。
俺を社会的に殺そうとしたその報いを、骨の髄まで味わわせてやる。
俺の中に渦巻く感情は、もはや愛情の残滓など欠片もなかった。あるのはただ、氷のように冷たく、鋭利な刃物のような殺意だけ。
「楽しんでおけよ、今のうちは」
誰もいない夜の住宅街で、俺は独りごちた。
それは、俺の人生をかけた復讐劇の、静かなる宣戦布告だった。
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