友達100人できるかな? ~吸血鬼に間違われた禁術使いの異世界スローライフ~
@kossori_013
第1話 友達100人作るために、まず羊を育てます
白い霧が、石畳に這う。
王立アルカナ魔法学校の尖塔が、曇天を突いている。この学校の歴史は三百年にわたり、王国が誇る最高峰の魔法教育機関として、数多の魔法使いを輩出してきた。尖塔の最上階には王家の紋章が刻まれ、その下には十二の学院旗が翻る。光魔法、闇魔法、召喚魔法、錬金術――あらゆる魔法体系がここで研究され、教授され、時には封印されてきたのだ。
校舎は黒い石造りで、蔦が這い、ステンドグラスが朝日に輝く。窓枠には魔除けの彫刻が施され、扉という扉には守護の魔法陣が刻まれている。敷地内には薬草園があり、魔法生物の飼育場があり、広大な訓練場がある。そして校舎を取り囲むように、学生寮が建ち並んでいた。
寮は学年と家柄によって分けられている。最も立派な建物には貴族の子女が住み、その次の棟には富裕な商人の子息が、そして最も質素な建物には奨学金を得た平民の学生たちが暮らす。それぞれの棟には食堂があり、談話室があり、勉強部屋がある。寮の周囲には小さな庭があって、学生たちは授業の合間にそこで魔法の練習をしたり、おしゃべりを楽しんだりしていた。
学校の外には、魔法学校の城下町とでも呼ぶべき街が広がっている。魔法書店、魔法具店、薬草店、珍しい魔法生物を扱う店、占い館、魔法衣装店――魔法使いに必要なものは何でも揃う。路地裏には怪しげな店もあり、禁制品を扱う闇市場の噂も絶えない。街の中心には大きな広場があって、週に一度市が立つ。そこでは遠方から運ばれてきた魔法素材や、珍しい触媒が売られていた。
その学校の、最も古い棟の、最も薄暗い教室に、一人の学生が座っていた。
クレア・オブスキュラ。
その名を耳にすれば、誰もが一歩後ずさる。オブスキュラ家――王国でも指折りの呪いの名家だ。三百年の歴史を誇るこの学校よりもさらに古い、五百年の歴史を持つ一族。その始祖は、かつて勇者を呪い殺した魔王の側近だったという。魔王が倒れた後も、一族は密かに禁術の研究を続け、代々その知識を受け継いできた。表向きは貴族の体裁を保ちながら、裏では何百体もの悪魔を使役し、闇の魔術会の中枢を担っているという噂もある。
使用人は毎年一人ずつ生贄にされるとか、オブスキュラ家の館に入った者は二度と出てこないとか、要人の呪殺を本業にしているとか――尾ひれのついた噂が、街中に流れていた。
クレアの父は、王国でも有数の禁術使いとして恐れられている。黒い外套を纏い、杖一振りで人を石に変えるという。母は、かつて千人を呪い殺した魔女の血を引いているとされ、その微笑みを見た者は三日以内に不幸に見舞われると囁かれていた。実際、両親とも極めて優秀な魔法使いではあったが、噂ほど恐ろしいわけではない。ただ、人付き合いが苦手なだけだった。そして、その血は息子にも色濃く受け継がれている。
クレア・オブスキュラは、血色の悪い色白の肌をしていた。病的なまでに白く、まるで陽の光を浴びたことがないかのような透明感がある。長いウェーブのかかった黒髪が、肩を越えて流れている。髪は絹のように滑らかで、わずかな光を受けて青みがかった光沢を放っていた。顔立ちは整っている。鼻筋が通り、唇の形も美しい。だが、問題は目だった。
切れ長で、鋭い。瞳は深い黒で、光を吸い込むような色をしている。何かを観察するような、何かを企んでいるような、そんな目つきだった。本人に悪意はないのだが、どうしてもそう見えてしまう。制服の黒いローブがそれに拍車をかけていた。襟元には銀の留め金、袖口には複雑な魔法陣の刺繍――禁術を学ぶ者の正装だ。
要するに、クレア・オブスキュラは、どこからどう見ても吸血鬼にしか見えなかった。
午後の光が、窓から斜めに差し込んでいる。埃が舞い、古い羊皮紙の匂いが教室に満ちていた。クレアは机に向かい、分厚い本を広げている。『禁断の召喚術大全』という題名が、黒い革の表紙に金文字で刻まれていた。ページをめくる音が、静かな教室に響く。
「う……」
クレアの唇が、わずかに動いた。
「うふふ……」
笑い声が漏れる。小さく、だが確実に、不気味な笑い声だった。
「僕は、この禁術の力で人気者に……」
ページに指を這わせる。複雑な魔法陣の図が描かれている。三つの円が重なり、その中心に五芒星。周囲には古代語で呪文が記されていた。
「うふ……あはははあは……!!」
笑い声が大きくなる。肩が震え、目が細められ、口元が歪んだ。傍から見れば、完全に悪の魔術師そのものだった。
教室の後ろで、何人かの生徒がひそひそと囁き合っている。
「おい……!」
「誰かを呪い殺す気じゃないか!?」
「だめだ! 目を合わせるな……!」
「もしかして先週骨折したB組の先生って……」
「あのクレア・オブスキュラが近くにいたって噂だぞ」
「やっぱり……!」
生徒たちは、そそくさと教室を出て行った。足音が遠ざかり、扉が閉まる音がする。クレアは気づいていない。いや、気づいていたとしても、今は本に夢中だった。
彼の脳内では、まったく別の光景が広がっている。
明るい日差しの下、笑顔の学生たちに囲まれたクレア。
「クレアくーん! 一緒に地獄の拷問館に行く約束してぇ~」
可愛らしい女子生徒が、クレアの腕にしがみついている。ブロンドの髪、薔薇色の頬、キラキラした瞳。
「ああ、あそこはもう何百回も行ったんだけど……」
クレアは余裕の笑みを浮かべる。
「初心者向けのコースがあるんだ。案内するよ」
「きゃー! すてきーーー!!」
女子生徒たちが、キャーキャーと黄色い声を上げる。
場面が変わる。今度は男子生徒たちとの交流だ。
「よぉクレア! お前も一緒に呪いの闇鍋パーティしようぜ!」
「おい! クレアはこれから俺達と生首サッカーの約束があるんだぞ!?」
二人の男子生徒が、クレアを取り合っている。
「それじゃあ皆で(生首)サッカーしたあと、その生首で闇鍋パーティにしないかい?」
クレアの提案に、男子生徒たちが目を輝かせる。
「すっげぇ!」
「天才だ!!」
「クレアさすがだな!!」
みんなに囲まれて、笑顔で、キャッキャウフフ――それがクレアの夢だった。
現実に引き戻される。
教室には誰もいない。静寂だけがある。クレアは、ふうと息をついた。
「そうだ、これで夢が叶うんだ」
本のページをまた一枚めくる。願望成就の黒魔術――それが彼の選んだ方法だった。
この魔術は、極めて複雑で危険だ。まず、質の良い生贄が必要になる。それも、術者との間に深い絆を持つ、無垢な生き物でなければならない。そして、その生贄を苦しめ抜いて殺し、その苦痛と絶望を魔力に変換する。生首を魔法陣に並べ、生き血で魔法陣を描き、禁じられた悪魔を呼び出す――。
クレアは、そのために羊を育てていた。三頭の羊。ゴーちゃん、メー助、アニキ。
もう一年近く、毎日世話を続けている。良質な牧草、適度な運動、清潔な水。愛情を込めて、丁寧に、最高の生贄に育て上げるために。
クレアは本を閉じ、立ち上がった。ローブの裾が床を掃く。廊下に出ると、すれ違う生徒たちが道を開ける。誰も彼に話しかけない。誰も彼の目を見ない。いつものことだった。
校舎の裏手に、小さな牧場がある。本来は魔法生物学の実習用だが、クレアが個人的に借りている区画があった。柵で囲まれた一角に、小屋と、草地と、水飲み場がある。
柵の向こうから、メェーという鳴き声が聞こえた。
「やあ、みんな」
クレアの声が、わずかに柔らかくなる。柵を開け、中に入ると、三頭の羊が駆け寄ってきた。
まず最初に来たのがゴーちゃん。足が速く、素直な性格の羊だ。白い毛並みが陽光に輝き、つぶらな瞳がクレアを見上げている。クレアの手に鼻先を擦りつけてきた。
「よしよし、ゴーちゃん」
クレアは羊の頭を撫でる。ふわふわとした感触が、手のひらに伝わってくる。羊毛の匂い――草と土と、わずかな獣の匂いが混ざった、懐かしいような匂いがした。
次に来たのがメー助。一番きれいな声で鳴く羊だ。毛並みはゴーちゃんよりさらに白く、まるで雪のようだった。耳が大きく、いつもピンと立っている。メー助はクレアの膝に頭を押し付けてきた。
「お腹空いたかい?」
最後に、ゆっくりと歩いてきたのがアニキ。目つきが鋭く、他の二頭より一回り大きい。群れのリーダー格だ。黒い斑点が額にあり、それがまるで眉間の皺のように見える。アニキはクレアの前で立ち止まり、じっと見つめてきた。
「アニキ、かっこいいね」
クレアは、アニキの背中を撫でた。筋肉の張りが、手に感じられる。健康な証だ。
クレアは、飼料袋から牧草を取り出した。新鮮な牧草の、青々とした香りが広がる。三頭の羊が、一斉に寄ってくる。
「ゴーちゃん、メー助、アニキ、しっかり食べろよ~」
牧草を地面に広げると、羊たちが夢中で食べ始めた。もぐもぐと咀嚼する音、時折聞こえるメェーという鳴き声。クレアは、満足そうに羊たちを眺めていた。
ふと、ゴーちゃんの耳の付け根に、小さな黒い点があるのに気づく。
「あれ、ノミがついてるじゃないか」
クレアは眉をひそめた。すぐに小屋に戻り、棚から小瓶を取り出す。毒毒しい紫色の液体が、瓶の中で揺れていた。呪殺薬――厳密には、寄生虫駆除用の薬だが、その製法は禁術の範疇に入る。
「じっとしててね、ゴーちゃん」
クレアは、ゴーちゃんの首筋に薬を一滴垂らした。ジュッという音がして、小さな煙が上がる。ゴーちゃんは少しだけ身じろぎしたが、すぐに落ち着いた。ノミは跡形もなく消えている。
「よし、これで大丈夫」
クレアは、他の二頭も念入りに調べた。幸い、ノミはついていない。毛並みも良好、目も澄んでいる。蹄の状態も問題ない。完璧だった。
小屋に戻り、クレアは壁に貼ってある魔法陣の図を見つめた。複雑な幾何学模様が、羊皮紙いっぱいに描かれている。その隣には、古代語で書かれた呪文の書き起こし。何度も何度も読み返し、暗記するまで繰り返した。
「しっかり魔法陣の勉強も欠かしていないし、きっとうまくいくぞ」
自分に言い聞かせるように、クレアは呟いた。
「お父様とお母様も褒めてくれるかなあ」
両親の顔が浮かぶ。厳格な父、物静かな母。二人とも感情をあまり表に出さないが、優れた魔術を成功させれば、きっと喜んでくれるはずだ。
「いや、その前に友達が……」
クレアの頬が、わずかに赤くなる。
「友達(照)が褒めてくれるかなあ……!」
まだ見ぬ友達。キラキラした笑顔で「すごいね、クレア!」と言ってくれる友達。一緒に笑い、一緒に遊び、一緒に青春を謳歌する友達――。
そのために、クレアは頑張っていた。
羊たちが立派な生贄になるまで、あと一年。
クレアは、毎日欠かさず世話を続けた。朝は日の出とともに起き、牧場に向かう。まず水を替え、新鮮な牧草を与える。午前中は羊たちを草地で運動させる。適度な運動が、肉質を良くするのだ。昼には再び牧草を与え、毛並みを整える。ブラシで丁寧に梳かし、もつれた毛をほぐし、汚れを落とす。午後は健康チェック。目、耳、蹄、すべてを確認する。夕方には再び餌を与え、小屋の掃除をする。夜は魔法陣の勉強。寝る前に、もう一度羊たちの様子を見に行く。
一年間、この生活を続けた。
その結果、三頭の羊は、どこの肉の品評会に出しても恥ずかしくない最高の羊に育った。毛並みは絹のように滑らか、肉付きは理想的、健康状態は完璧。純白の毛は、月光のように輝いている。クレアとの絆も十分に深まっていた。彼の足音を聞けば駆け寄ってくるし、彼の声を聞けば安心したように鳴く。
完璧な生贄だった。
ある日の午後、クレアが牧場で羊の毛を梳かしていると、背後から明るい声が聞こえた。
「おー!」
クレアの手が止まる。振り返ると、金髪の青年が柵の外に立っていた。
ジューン・メイデー。
騎士課程のエース、全校一の陽キャとして知られる人物だ。金髪は短く刈り込まれ、碧眼は真夏の空のように明るい。日焼けした肌は健康的で、筋肉質の体つきは鍛え抜かれた証だった。制服の上に軽鎧を着込み、腰には剣を下げている。いつも笑顔で、いつも元気で、いつも誰かに囲まれている――クレアとは正反対の存在だった。
「お前の羊たち、すっげぇいい毛並みしてるな」
ジューンは柵に手をかけ、身を乗り出すようにして羊たちを見つめている。その笑顔は、まぶしいくらいに明るかった。
クレアは、固まった。
「え……」
え、何、この人、誰、何の用、どうして、僕に話しかけてくるの――。
頭の中が真っ白になる。心臓が早鐘を打ち始めた。手のひらに汗が滲む。
「え、え……」
ブラシを持つ手が震える。
「なに、きみ……」
声が上ずる。
「ぼくに……」
視線が泳ぐ。
「何の用?」
最後はなんとか言葉にできたが、完全に挙動不審だった。傍目には、極度に警戒しているか、何か企んでいるように見えただろう。
だが、ジューンは気にした様子もなく笑っている。
「なあ、もしかしてワイバーンにも詳しかったりする?」
「ワイバーン……?」
クレアは、わずかに落ち着きを取り戻した。知識の話なら、なんとかなる。
「まあ、ちょっとは……」
実際、クレアはワイバーンについてかなり詳しかった。禁術の中でも生命創出の禁術の触媒になることがあり、そのために研究していたのだ。ワイバーンの翼には、特殊な魔力を宿す部位がある。それも、ワイバーン特有の波長をしているため、他の生物では代替できない。かつて、生命創出でお友達を作ろうかと考えたこともあったが、それはちょっと違うんじゃないかと思い直し、今の方法を選んだのだった。
「そのワイバーン……」
クレアは、ジューンの背後に視線を向けた。柵の向こう、少し離れたところに、大きな影がある。
「すごく上質な個体だね……」
ワイバーン。竜の一種だが、前足がなく、翼と後ろ足だけを持つ飛竜だ。体長は馬ほどあり、鱗は深緑色に輝いている。翼を畳んでいるが、広げれば優に十メートルを超えるだろう。鋭い爪、長い尾、そして口には牙が並んでいる。気性が荒く、扱いが難しいことで知られていた。
だが、クレアの目には、その個体が極めて優良であることが見て取れた。鱗の色艶、翼の張り、筋肉のつき方――すべてが理想的だ。魔力の流れも美しい。触媒としては最高級だろう。
「え? やっぱわかんの!?」
ジューンの目が輝いた。
「ちょうどよかった!!」
柵を乗り越え、ジューンがクレアに近づいてくる。その距離感の近さに、クレアは思わず後ずさった。
「実はさあ、グレンが最近餌食わなくてさあ」
「グレン?」
「俺の相棒! あのワイバーン!」
ジューンは、親指でワイバーンを指す。
「なんか機嫌悪くてさ、餌も食わないし、飛ぶのも嫌がるし、困ってたんだよ」
「それは……」
クレアは、ワイバーンをもう一度観察した。確かに、わずかに元気がないように見える。翼の畳み方が少し不自然だ。
「もしかして、翼の付け根が痛いんじゃないかな」
「え?」
「ワイバーンは、翼の付け根の筋肉が凝りやすいんだ。特に、激しい飛行の後は……」
「あー! そういえば昨日、訓練で結構飛ばしたわ!」
ジューンは、ポンと手を打った。
「どうすればいい?」
「えっと……」
クレアは、また視線を泳がせた。だが、知識の話になると、言葉が出てくる。
「専用のオイルで、マッサージをするといい。それと、温かい湿布を当てて、筋肉をほぐす。あと、餌に鉄分の多いものを混ぜると、疲労回復が早まる」
「すげぇ! 詳しいな!」
ジューンは、クレアの肩を叩いた。その勢いに、クレアはよろめく。
「なあ、悪いんだけど、グレンの世話、手伝ってくれないか?」
「え……」
「お前、得意だろ? な、頼むよ!」
満面の笑みで、ジューンは言った。その笑顔は、断ることを許さない明るさだった。陽キャの、圧倒的なエネルギー。コミュ障のクレアには、対抗する術がない。
「え、え、でも、僕、その……」
「いいだろ? な? な?」
「あ、あの……」
「サンクス! 助かるわ!」
ジューンは、クレアの返事を待たずに決定した。
「じ、明日から頼むな! グレン、お前もよろしくな!」
ワイバーンに向かって手を振り、ジューンは去って行った。その背中は、まぶしいくらいに晴れやかだった。
クレアは、呆然とその場に立ち尽くしていた。
「え……」
何が起きたのか、理解するのに時間がかかった。
「ワイバーンの、世話……?」
羊たちが、メェーと鳴いている。クレアは、ゆっくりと現実に引き戻された。
「僕、断ったっけ……?」
記憶を辿る。いや、断っていない。というか、断る隙もなかった。
「あ、あれは……」
クレアは、頭を抱えた。
「なんなんだ、あの人……」
陽キャの、圧倒的なコミュニケーション能力。それは、クレアにとっては理解の範疇を超えていた。
「でも……」
クレアは、ワイバーンの方を見た。グレンは、じっとこちらを見ている。深緑色の瞳が、クレアを観察していた。
「まあ、ワイバーンの世話も、悪くはないか……」
知識はある。興味もある。それに、上質な個体だ。触媒として研究する価値もあるだろう。
「うん、そうだ。これは、研究のためだ」
自分に言い聞かせるように、クレアは呟いた。
「決して、押し切られたわけじゃない。僕の意志で、引き受けたんだ」
羊たちが、また鳴いた。まるで、クレアを慰めるように。
翌日から、クレアの日課にワイバーンの世話が加わった。
朝、まず羊の世話をする。それから、ワイバーンの飼育場に向かう。グレンは、最初はクレアを警戒していた。唸り声を上げ、尾を叩きつけ、近づくことを拒んだ。だが、クレアは慌てなかった。ゆっくりと、距離を詰める。話しかけ、餌を与え、様子を観察する。
三日目、グレンはクレアが近づくことを許した。
五日目、クレアはグレンの翼に触れることができた。
一週間後、クレアはグレンの翼の付け根をマッサージしていた。専用のオイルを手に取り、筋肉に沿って揉みほぐす。最初は固かった筋肉が、徐々にほぐれていく。グレンは、気持ちよさそうに目を細めていた。
「そうだ、気持ちいいだろう」
クレアは、優しく語りかける。ワイバーンの鱗は、思ったより滑らかだった。温かく、わずかに脈打っている。生命の温もりが、手のひらに伝わってくる。
「これで、また飛べるようになるよ」
グレンは、低く鳴いた。満足の声だ。
「よし、餌もしっかり食べようね」
クレアは、鉄分の多い肉を用意した。グレンは、勢いよく食べ始めた。その様子を見て、クレアは安堵のため息をついた。
ジューンは、毎日様子を見に来た。
「おー! グレン、元気になったじゃん!」
「うん、筋肉の凝りがほぐれたみたいだね」
「すげぇな、お前!」
ジューンは、またクレアの肩を叩いた。その度に、クレアは少しだけ緊張がほぐれていく。
「なあ、お前って結構すごいんだな」
「そ、そんなことは……」
「いやいや、マジで! 俺、お前のこと誤解してたわ」
「誤解……?」
「なんかさ、近寄りがたいっていうか、怖いっていうか」
クレアの心臓が、ズキンと痛んだ。やはり、そう思われているのか。
「でもさ、こうやって話してみると、普通にいいやつじゃん」
「え……」
「これからも、よろしくな!」
ジューンは、満面の笑みで言った。
「俺ら、親友だな!」
「え、え……?」
親友――その言葉に、クレアの頭は混乱した。親友? 僕とこの人が? いつ? どうして?
だが、ジューンはもう次の話題に移っていた。訓練の話、授業の話、仲間たちの話――。クレアは、ただ頷くことしかできなかった。
それから数週間が経った。
クレアの生活は、劇的に変わっていた。朝は羊の世話、午前はワイバーンの世話、午後は授業、夕方は再び羊とワイバーンの世話、夜は魔法陣の勉強――休む暇もない。だが、不思議と充実していた。
グレンは、すっかりクレアに懐いた。彼の姿を見ると嬉しそうに鳴き、彼の手から餌を食べ、彼の指示に従う。翼の状態も良好で、飛行訓練も順調だ。ジューンは大喜びで、「お前のおかげだよ!」と何度も言った。
羊たちも、相変わらず元気だった。ゴーちゃん、メー助、アニキ――三頭とも、理想的な成長を続けている。あと数ヶ月で、儀式に使える。そうすれば、願いが叶う。人気者になれる。友達ができる。
クレアは、そう信じていた。
ある日の夕暮れ、クレアは牧場で羊たちに餌を与えていた。オレンジ色の光が、草地を染めている。羊たちの白い毛が、夕日に輝いていた。
「もうすぐだね」
クレアは、呟いた。
「もうすぐ、僕の夢が叶う」
ゴーちゃんが、クレアの手に鼻先を擦りつけてくる。メー助が、膝に頭を乗せてくる。アニキが、じっとクレアを見つめている。
「君たちのおかげだよ」
クレアは、三頭を撫でた。ふわふわとした感触、温かい体温、穏やかな呼吸――。
「ありがとう」
心からの言葉だった。
遠くから、グレンの鳴き声が聞こえる。ジューンの笑い声も聞こえる。誰かが呼んでいる声、誰かが走る足音、誰かが歌う歌――学校の、日常の音だった。
クレアは、空を見上げた。雲が流れ、鳥が飛び、風が吹いている。
「もうすぐ……」
もうすぐ、僕も、あの輪の中に入れる。
そう信じて、クレアは微笑んだ。
だが、彼はまだ知らない。
これは、始まりに過ぎないことを。
彼の生活が、これからさらに動物で埋め尽くされていくことを。
そして、当初の目的が、少しずつ遠ざかっていくことを――。
夕日が沈み、星が瞬き始める。
牧場には、羊たちの穏やかな息遣いだけが響いていた。
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