終点とは?

桃神かぐら

第1話 終点とは?

 ――終点とは?


 チョークの擦れる音がぴたりと止まった。

 黒板のいちばん上、白い文字でそう書かれている。


 「よし。今日はこれから、ここから始めようか」


 倫理の山下先生が、丸い眼鏡の奥で教室を見渡した。六月の午後、窓から入る風が、黒板の端に貼られた行事予定表をぱさりと揺らす。


 終点。


 見慣れているはずの漢字なのに、その四文字は、妙に浮いて見えた。僕――日向湊は、二列目の窓側の席から、その文字をぼんやりと見上げていた。


 「“終点”ってさ。電車の最後の駅、って思う人が多いよね」


 前の席の男子が小さく笑い、後ろのほうから「だよな」と囁き声がする。


 「それでもいい。人生の最後でもいいし、恋の終わりでもいい。あるいは、まったく別の何かでも」


 山下先生はチョークを指先で転がしながら、少しだけ口元をゆるめた。


 「答えは、自由でいい。“正解”はない。ただ、一つだけ考えてみてほしいんだ」


 先生はそこで言葉を区切り、黒板の下のほうにゆっくりと書き足す。


 ――人は、どこで立ち止まるのか。


 チョークの音が止んだ瞬間、教室の空気がぐっと静かになった。


 「じゃあ……そうだな。誰か、今の自分の言葉で答えてみたい人」


 沈黙。誰かがボールペンをカチカチ鳴らす音がやけに耳につく。


 「はい、じゃあ山田」


 「えっ、俺っすか?」


 クラスの空気を読まないことでおなじみの山田が、笑い混じりに頭をかいた。


 「終点っつったら、やっぱ電車じゃないっすか。終わったら寝るだけっす」


 教室に小さな笑いが広がる。山下先生も少し笑ってから、首を振った。


 「いいね、“電車の最後の駅”っていうイメージはみんな強いと思う。でも、“寝るだけ”で本当にいいのか、っていう話なんだよね」


 今度は、後ろのほうの女子が、おずおずと手を挙げた。


 「人生の……最後、だと思います。おばあちゃんが亡くなったとき、“やっと楽になれたね”って言ってて。だから、苦しいのが終わる場所、みたいな……」


 「ああ、なるほど。“楽になれる場所”としての終点だね」


 先生は頷き、それから黒板の端に丸を付ける。


 「誰か他に。“終点って、こうだと思う”って言える人は?」


 何人かが手を挙げて、自分のイメージを口にした。

 夢が叶ったとき。受験が終わったとき。部活を引退したとき。


 みんな、それぞれにそれらしいことを言う。教室の空気は少しずつ温度を取り戻していく。笑いも混じる。


 僕の頭の中にも、“終点”という言葉にくっつくいくつかの場面は浮かんでいた。


 中学の部活をやめたときとか。小さなころ家族で行った遊園地の、最後に乗った観覧車とか。でも、それを言葉にしようとすると、喉の奥でひっかかってしまう。


 ――そんな程度で、「終点」って言っていいのか?


 自分で自分の答えを否定してしまって、手を挙げることはできなかった。


 山下先生は、何人かの意見を書きとめると、最後にチョークを置いた。


 「いいね。どれも悪くない。“終点”って言葉ひとつで、こんなにいろんなイメージが出てくる。面白いよね」


 先生は少しだけ真顔に戻る。


 「でもね。ひとつだけ、僕の考えも言わせてくれる?」


 教室が静まる。窓の外で鳥の鳴き声がした。


 「“最後”だと思っているうちは、まだ途中なんだと思うよ」


 「途中……?」


 誰かが小さく復唱する。先生は頷いた。


 「たとえば“ここが終点だ”と思っても、そこから先のことを、きっと人は考えてしまう。“終わったあと、どうするか”。そこでまた、何かが始まるんだ」


 山下先生は、黒板の「終点とは?」の横に、小さくもう一つ書き加えた。


 ――始まりの場所かもしれない。


 「だから、今日の課題はこれ。“自分にとっての終点”を考えること。答えはレポートに書いてもいいし、書かなくてもいい。ただ、本気で一度は考えてみてね」


 チャイムが鳴り、ざわつきが戻ってくる。


 僕はノートの端に、乱暴な字で「終点」とだけ書いた。

 その言葉の丸みを指でなぞりながら、なんとなく思う。


 ――僕は、どこで立ち止まるんだろう。


   ◇


 放課後。空は少し曇っていて、風が湿っていた。


 「なあ湊、今日ゲーセン寄らね?」


 教室の前のほうで、山田が声をかけてくる。僕は鞄の肩紐を持ちながら、曖昧に笑った。


 「ごめん、今日はやめとく。レポート、早めにやっておきたいし」


 「マジメかよ。終点にマジレスしてどうすんだよ」


 「どうもしないけど」


 山田は肩をすくめて、「じゃあまた明日な」と手を振った。僕はそれに応えて教室を出る。


 廊下には、まだ部活に向かう生徒たちの声が残っていた。誰かが「今日の練習マジきついらしい」と叫び、別の誰かが笑いながら追いかけていく。


 僕はそういう喧騒を横目に見ながら、靴箱へ向かった。


 終点。


 あの四文字が、頭のどこかでずっと反芻されている。自分にとっての終点。もし、今日いきなり「ここが終点だ」と言われたら、僕は何を思うんだろう。


 家に帰る途中の商店街も、いつもと同じだった。八百屋の店先には夕食の材料を選ぶ人たち。たこ焼き屋からはソースの匂い。道端でしゃがみ込んでスマホゲームをしている小学生。


 ――このどこかに、「終点」なんてものがあるとは到底思えない。


 そんなことを考えながら、自宅マンションの前まで来たときだった。


 ポストの前に、小さな違和感があった。


 普段は無造作に突っ込まれているチラシや封筒が、今日はきちんと整列している。その一番上に、一通の白い封筒が乗っていた。


 差出人の記載はない。ただ、宛名だけが綺麗な手書きで書かれている。


 ――日向 湊 様


 僕は思わず周りを見た。誰かが見ている気配はない。ただ、エントランスの自動ドアが、一定のリズムで開いたり閉じたりしている。


 白い封筒を取り上げる。紙の感触は、普通のダイレクトメールより少しだけ厚い。


 部屋に入る前に開けるのはなんとなく落ち着かなくて、とりあえずエレベーターに乗り込み、自分の部屋まで上がった。


 「ただいまー」


 とりあえず声だけ出すが、返事はない。今日は両親とも遅くなると言っていた。マンションの一室には、冷蔵庫のモーター音だけが響いている。


 リビングのテーブルに鞄を置き、白い封筒を真ん中に置いた。胸の鼓動が少しだけ早くなっているのを、自分でも感じる。


 ――なんだこれ。


 息を整えてから、そっと封を切った。


 中から出てきたのは、一枚の硬い紙。どこかで見たような形。


 「……切符?」


 思わず声に出してしまう。手のひらに乗る、厚紙の感触。表面には、印刷された文字と、手書きのような文字が混在していた。


 《終点行き》


 いちばん上に、行き先らしき文字が大きく書かれている。その下には、列車の種別やら発車時刻やら……ではなく、シンプルな項目だけが並んでいた。


 【乗車駅】 東ヶ丘

 【行き先】 終点

【席番】  十三番A

 【有効期限】 本日・日没まで


 「……は?」


 東ヶ丘。僕らがいつも使っている駅の名前だ。


 有効期限の文字を見た瞬間、ぞくりとした。時計を見る。まだ午後四時過ぎ。日没まで、あと二時間はあるだろう。


 冗談にしては手が込みすぎている。イタズラかもしれない。でも、誰がこんなことを?


 切符をひっくり返してみる。裏側にも小さく文字が印刷されていた。


 【ご利用はお一人様一回限りです】

 【乗車後の払い戻しはできません】

 【行き先の変更はできません】


 ふざけているようで、妙にリアルな文言。そこにはやっぱり、差出人の名前も、会社名もどこにも書いていない。


 「……終点とは?」


 気づいたら、口の中で呟いていた。山下先生の書いた文字と、黒板のチョークの音が頭の中で蘇る。


 ほんの数時間前まで、ただの授業のテーマだった言葉が、急に目の前にぶらさがってきたみたいだった。


 ここで、この切符を破ってしまえば、きっと何も起こらない。僕はいつも通り、レポートの課題に頭を悩ませて、一日が終わる。


 でも。


 ――行かなかったら、きっと一生、気になる。


 そんな考えが胸の奥にじわじわと広がっていった。怖い。けれど、知らないままでいることのほうが、もっと怖い。


 「……ちょっと行ってくるか」


 自分に言い聞かせるように呟いて、制服のまま鞄を肩にかける。切符を財布に挟み、家の鍵をポケットに突っ込む。


 終点行き。


 まさか、本当にそんなものがあるとは思えない。それでも、足は自然と駅へ向かっていた。


   ◇


 東ヶ丘駅のホームは、夕方特有のざわつきで満ちていた。


 部活帰りらしい学生。仕事を終えたらしいサラリーマン。ベビーカーを押す若い母親。いつもの日常の風景の中で、僕は一人、改札を通り抜ける。


 自動改札にいつもの通学定期をかざしてから、ふと気づく。


 ――この切符、どうするんだ?


 財布から取り出してみる。硬い紙は、さっきと同じ文字のまま、そこにある。


 東ヶ丘 → 終点


 行き先表示が、じわりと実感を伴い始めていた。


 ホームに降りると、電光掲示板にはいつもの路線の行き先がならんでいる。「各駅停車 ××行き」「快速 △△行き」……そのどこにも、「終点」の文字はない。


 当たり前だ。そんな駅、聞いたこともない。


 僕は切符を握りしめたまま、ホームの端から端まで歩いた。夕焼けの光が線路を赤く染めている。遠くから電車の走る音が近づいてきたと思ったら、反対ホームに急行が滑り込んでくる。


 そのときだった。


 構内アナウンスの合間に、少しだけ違う響きの声が混じった気がした。


 ――まもなく、三番線に、終点行きがまいります。


 「……え?」


 思わず顔を上げる。


 三番線。普段はあまり使われない側のホームだ。視線を向けると、そこにはふだん見慣れた車両とは少し違う、細身の一両編成の電車が、静かに滑り込んできていた。


 銀色のボディなのに、どこか古びたような質感。車両の前の行き先表示には、大きくたった二文字。


 《終点》


 ……本当に、あるのかよ。


 心臓が、さっきよりも強く鳴った。


 周りの人たちは、特に気にする様子もない。誰かが怪訝そうにそちらを見るが、すぐにスマホの画面に視線を戻してしまう。まるでそこに、その電車が“見えていない”みたいに。


 ゆっくりとドアが開く。中から、ひんやりとした空気が流れ出てきた。僕は足がすくみそうになるのを、なんとか踏みとどまって、一歩踏み出す。


 ――ここで引き返したら、きっと一生後悔する。


 さっきと同じ言葉が頭の中を回る。切符を握りしめた右手に、力がこもった。


 車内は、思っていたよりも明るかった。古い蛍光灯のような白い明かりが、等間隔に天井に灯っている。座席は昔の車両特有の、柔らかそうな深緑色の長椅子。人影はまばらだ。


 スーツ姿の男の人。制服の違う高校生。買い物帰りらしい女性。みんな、手元の切符をじっと見つめたり、窓の外をぼんやり眺めたりしている。


 十三番A。僕は座席上の小さな数字を探して、中央付近の窓側のあたりでそれを見つけた。腰を下ろそうとして――そこで、初めて気づく。


 僕の指定席の隣。十三番Bには、すでに誰かが座っていた。


 白に近い、淡いクリーム色のワンピース。うつむき気味の横顔。肩までの黒髪が、蛍光灯の光を受けてやわらかく光っている。


 年は、僕と同じくらいか、少し下か。制服ではない。どこの学校の生徒なのかはわからない。


 僕が立ちすくんでいると、その子がふと顔を上げた。


 大きすぎない、落ち着いた瞳。目が合った瞬間、胸の奥できゅっと何かが縮むような感覚がした。


 「こんばんは、湊くん」


 「……え?」


 初対面のはずなのに、彼女は当たり前のように僕の名前を呼んだ。


 「えっと、あの……」


 驚いている僕を見て、彼女は小さく首をかしげる。


 「切符、名前入りでしょう?」


 「あ、そ、そうか」


 思わず財布から切符を取り出す。たしかにそこには、〈日向 湊 様〉と印刷されている。知られて当然だ、と言われてしまえばそれまでだ。


 それでも、最初に名前を呼ばれた瞬間の、あの妙な懐かしさは消えなかった。


 「そこ、十三番Aだよね。座らないの?」


 「……あ、うん」


 促されるようにして、彼女の隣に座る。座席のクッションが、普通の電車よりも少しだけ柔らかく感じられた。


 間近で見ると、彼女の肌は透けるように白い。病的ではなく、光をよく通す、紙のような白さだ。


 「えっと……」


 何から話せばいいのかわからず、視線がさまよう。代わりに、彼女が先に口を開いた。


 「今日は、“澪”でいいかな」


 「澪……?」


 「うん。水たまりの“みお”って字。気に入ってるんだ」


 彼女は窓の外を見ながら、ぽつりとそう言った。


 「今日は、って……他の日は違う名前なの?」


 問い返すと、彼女は少しだけ笑った。


「日によって、名前は変わるの。風の向きみたいに。

 そのほうが、わたしらしいから」


 よくわからない。けれど、「そういうもの」としてすんなり受け入れてしまいそうになる不思議な響きがあった。


 「湊くんは、今日がはじめて?」


 「え?」


 「終点行き」


 そう言って、澪と名乗った少女は、窓の外のホームを顎で指し示す。さっきまでいた東ヶ丘駅のホームが、少しずつ遠ざかっていくところだった。


 いつの間にかドアは閉まり、電車は静かに走り出していたらしい。揺れは驚くほど少なく、モーターの音もほとんど聞こえない。


 「うん……たぶん、はじめてだと思う」


 「“たぶん”って面白いね」


 澪はくすりと笑い、それから少しだけ真面目な表情になった。


 「終点って、何だと思う?」


 また、その問いだ。黒板に書かれていた文字が、頭の中でフラッシュバックする。


 「えっと……電車の、一番最後の駅?」


 当たり障りのない答えしか出てこない。彼女は首を横に振るでもなく、ただ「ふうん」と相槌を打った。


 「人生の終わり、みたいな?」


 「それも、間違いじゃないかもしれないね」


 窓の外の景色が、少しずつ変わっていく。さっきまで見慣れた住宅街だったはずの風景が、知らない路地や、見覚えのない川に変わっていく。空の色も、どこかくすんだような、不思議な青に変わっていた。


 「じゃあ……ここにいる人たちは、みんな“終わり”に向かってるの?」


 思わず出た言葉に、澪は小さく首を振った。


 「終わるために来る人もいるし、続けるために来る人もいるよ」


 「続ける?」


 「うん」


 彼女は自分の膝の上で指を組み直し、少しだけ視線を落とした。


 「終点ってね、“まだ続けたいもの”を選ぶ駅なんだよ。ひとつだけ」


 「ひとつだけ……?」


 「そう。それ以外は、静かに手放す」


 彼女の声は驚くほど静かだった。冗談を言っている風でも、怖がらせようとしている風でもない。ただ、当たり前のことを言っているみたいに。


 「手放されたものは、どこへ行くんだろうね」


 自分に問いかけるように呟いてから、澪は小さく微笑んだ。


 「でも、安心して。今日は湊くんの番じゃないから」


 「……番?」


 「うん。わたし、だいたいわかるんだ」


 意味深な言葉を残して、彼女は席から立ち上がらないまま、前方のほうに視線を向けた。つられてそちらを見ると、車両のいちばん前の席で、一人の男性が俯いて座っているのが見えた。


 スーツ姿。ネクタイは少し緩んでいる。年齢は三十代くらいだろうか。手元には、くしゃくしゃになった紙切れと、何度も折り直されたらしい写真。


 電車のスピードが落ちていく感覚があった。車内アナウンスは鳴らない。ただ、ふいに照明が一瞬だけふっと暗くなり、次の瞬間には、外の景色がすっかり変わっていた。


 そこは、どこの駅とも似ていなくて、どこの駅とも少しだけ似ていた。


 ホームには駅名の看板がひとつだけ。白地に黒い文字で、たった二文字。


 《終点》


 ドアが開く音がした。誰も立ち上がらない。立ち上がることができるのは、たぶん――


 「今日の人、降りるかな」


 澪が小さく呟く。前のほうのスーツの男性が、ぎこちない動きで立ち上がった。彼の手の中の写真が、ふとこちらからも見える。


 若い女性と、小さな子ども。三人で笑っている写真。ピースサイン。少し傾いた構図。


 ホームには、一人の駅員が立っていた。年齢不詳の男。紺の制服に制帽。表情は読めない。


 男性がホームに一歩踏み出すと、その駅員がごく自然な仕草で口を開いた。


 「あなたは、何を続けますか」


 ――何を、続けるか。


 それは、さっき澪が言っていた言葉と同じ響きだった。


 男性はしばらく答えられないでいた。手の中の写真を、固く握りしめる。その指が震えているのが、ここからでもわかる。


 「……仕事、は」


 かすれた声が、ようやく紡ぎ出される。


 「仕事は、続けられる自信が……もう、ないです」


 駅員は何も言わない。ただ、じっと相手を見つめている。


 「でも……妻と、子どもと一緒にいる時間だけは……どうしても、捨てたくない」


 その言葉が、ホームの空気に染み込んでいく。


 駅員は、ゆっくりと頷いた。


 「承りました」


 その瞬間、何かが、すっと剥がれ落ちるような感覚があった。


 窓のこちら側から見ているだけなのに、胸の奥がひんやりと冷たくなる。彼の肩から、見えない何かが一枚一枚、落ちていくような。


 写真の女性の顔が、ほんの少しだけぼやけた気がした。男性のスーツのシワがひとつ減ったような。彼の背中が、ほんのわずかに軽くなったような。


 「今の、何が……」


 思わず呟くと、隣で澪が静かに答えた。


 「手放したんだよ。きっと、“それ以外の全部”を」


 「全部……?」


 「仕事とか、プライドとか、過去の自分とか。わたしたちには見えないもの」


 澪の横顔は、どこか寂しそうだった。


 「終点はね、やさしいよ。選んだものだけは、ちゃんと残してくれるから」


 「でも……」


 言葉が喉の奥で途切れる。


 ――それ、本当にやさしいのか?


 選ばなかったものは、どこへ行ってしまうんだろう。跡形もなく消えてしまうのか。それとも、どこかで形を変えて残るのか。


 「怖い、って顔してるね」


 澪が小さく笑う。その笑い方が、少しだけ無理をしているように見えた。


 「やさしいけど、怖い場所だよ。終点は」


 ホームの男性が、駅員に軽く頭を下げてから、こちらを振り返ることなく歩き出した。どこへ向かっているのかはわからない。ただ、その背中はさっきよりも少しだけまっすぐに見えた。


 もう一度ドアが閉まり、電車は静かに動き出す。終点のホームが、少しずつ遠ざかっていく。


 「ねえ、湊くん」


 澪が、窓の外から視線を戻して、僕を見た。


 「いつか、湊くんの番も来るよ」


 「……そうなの?」


 「うん。みんな一度は来るんだって。わたしは、何度も見てきた」


 「何度も……?」


 「うん」


 彼女はそれ以上、何も言わなかった。代わりに、ほんの少しだけさびしそうな笑みを浮かべた。


   ◇


 気づいたときには、電車はもう、東ヶ丘駅のホームに戻ってきていた。


 行き先表示は、いつもの路線名に変わっている。蛍光灯の光も、さっきより少しだけ現実寄りの白さになっていた。


 「ここで降りるんでしょ?」


 澪が言う。僕は頷いた。


 「うん。えっと、その……ありがとう」


 何に対するありがとうなのか、自分でもよくわからない。


 彼女は「ううん」と首を振り、少しだけ身を乗り出して窓の外を見た。


 「またね、湊くん」


 「……また、会えるの?」


 口に出してしまってから、自分でも驚く。澪は、くるりと視線を僕に戻した。


 「終点はね、何度でも来るよ。覚えておいて」


 それだけ言って、彼女はふっと微笑んだ。


 降車のチャイムが鳴る。僕は慌てて立ち上がり、ドアへ向かった。振り返ったときには、澪はもう窓の外を見ていて、その横顔しか見えなかった。


 ホームに降り立つと、いつもの駅の喧騒が耳に飛び込んでくる。会社帰りの人の足音。電車の発車ベル。アナウンス。


 さっきまで乗っていた車両を振り返る。そこには、見慣れた普通の通勤電車が止まっているだけだった。


 ――本当に、あれは……


 現実感がふわふわと揺れる。足元のタイルだけがやけに冷たく、はっきりとした感触を持っていた。


   ◇


 翌朝、目を覚ましたとき、僕は妙な違和感と一緒に布団の中にいた。


 昨日、何をしていたんだっけ。


 学校に行って、倫理の授業で「終点とは?」というテーマを出されて。先生の言葉。みんなの意見。そこまでは、すぐに思い出せた。


 そのあと、家に帰って――。


 ポスト。白い封筒。切符。電車。終点。静かなホーム。誰かが何かを選んだ場面。


 ……ぼんやりとした映像だけが頭の中を流れていく。まるで、夢で見た映画の記憶みたいに、ところどころが抜け落ちている。


 でも、その中でひとつだけ、やけに鮮明なものがあった。


 ――横顔。


 蛍光灯の光を受けて、わずかにきらめく黒髪。窓の外を見ながら、静かに笑う口元。僕の名前を呼ぶ、落ち着いた声。


 「……誰、だ?」


 呟いてみる。彼女の顔は鮮明なのに、名前が思い出せない。何度呼ばれたはずなのに、その響きだけが、するりと指の間から抜け落ちていく。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。


 ――どうして、こんなに気になるんだろう。


 その日は一日中、授業を受けていても、どこか頭の片隅でその横顔のことばかりを考えていた。黒板の文字が、ふと、あのときの車両の蛍光灯の光と重なって見える瞬間もあった。


 放課後。倫理の教室に入ると、黒板には、前日と同じ言葉が残っていた。


 ――終点とは?


 誰かが消し忘れたのか。山下先生が残しておいたのか。理由はわからない。


 僕はその文字を見つめながら、心の中でゆっくりと言葉を探した。


 もし、今、誰かに問われたら。


 「終点とは?」


 昨日よりは、少しだけ答えに近づいている気がした。それでも、口に出せるほどは、まだ整理できていない。


 ――終点とは。


 まだ続けたいものを、そっと抱き直す駅。


 そんな言葉が、頭の中に浮かぶ。


 それを黒板に書いてしまおうかとも思った。でも、チョークを取る自分の姿を想像してみて、やっぱりやめた。僕はそういうところで、一歩踏み出せない。


 窓の外を見る。校門の向こうの通りを、一人の人影が通り過ぎていくのが見えた。


 白に近いワンピース。肩までの黒髪。どこか、見覚えのある横顔。


 心臓が、どくん、と跳ねた。


 立ち上がりかけた膝が、机の裏に軽くぶつかる。隣の席のやつが不思議そうにこちらを見た。


 僕はとっさに、「なんでもない」と笑ってごまかす。


 窓の外の彼女――たぶん彼女――の姿は、もう見えなかった。


 黒板の「終点とは?」の文字だけが、いつもより少しだけ鮮やかに見えた。


 名前は思い出せないのに、あの笑顔だけが、胸の奥でしつこく光り続けていた。

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