玉響屋、月と灯

@nsx9_3n

第1話

江戸時代中期から後期。

遊郭に存在した高級遊女――花魁が、最も栄華を極めた時代である。


吉原が最盛期を迎えていた頃、胡蝶蘭はその中心にいた。

数ある遊郭の中でも、最高級にして伝説と謳われた大見世「玉響屋(たまゆらや)」。

着物も帯も一流、花魁たちは詩、茶、舞を極め、もはや女芸人と呼ぶにふさわしい存在であった。


町の者たちは囁いた。

「一度通えば三年は忘れられぬ。十年貯めても座敷には上がれぬ」

「恋より高く、夢より儚い」


他の見世の遊女たちでさえ、

「あそこは夢の見世、こっちは現の牢(うつつのろう)」

と語るほど、玉響屋は異質だった。


吉原大門を越え、通りの奥へ進む。

灯りに導かれるように辿り着くその建物は、

三階建ての木造屋敷。黒漆の瓦屋根。

正面の暖簾には、深紫に銀糸で織られた蝶の紋。


まるで――異界への入口であった。


三階の特別座敷「月映(つくはえ)の間」。

その奥にある二つの部屋のうち、今使われているのは一つだけ。

「夢椿(ゆめつばき)の間」。


そこに座すのが、胡蝶蘭太夫である。


肌は透き通るほど白く、ほんのりと紅を差した頬。

黒く絹のような髪。

灰青色の瞳は、春の夜明け前の空のように、淡く柔らかい。


太夫とは本来、

和歌、舞、三味線、礼儀作法、接客のすべてを

年月をかけて極めた者だけに許される位だ。


それを十八で成した胡蝶蘭は、異例中の異例だった。


「異端」

「神童」


業界ではそう囁かれ、

町では「玉響屋、百年にただ一人の若太夫」とまで謳われた。


先輩遊女たちは口にした。

「まだ子供だ」

「香一つ満足に選べぬくせに」


だが胡蝶蘭は争わなかった。

ただ静かに舞い、香を焚き、句を読む。


玉響屋の女将は言った。

「あの子は、芸の高さではない。存在で人を動かす」

「それは、教えて身につくものじゃない」


そうして十八の少女は、

胡蝶蘭太夫の名を与えられた。


初見の日、座敷に上がった男たちは皆、言葉を失った。

幼さと神秘、静けさと色香が、奇妙な均衡で共存していたからだ。


「天から遣わされた太夫じゃ」


そう呟いた老公家もいた。


胡蝶蘭は頂点に立った。

客も、他の花魁も、

一線を引いて見上げる存在となった。


彼女は決して自ら誘わない。

客が手を伸ばせば、静かに問い返す。


「お前の手は、わらわに届くのかの」


酔わせるのではない。

自ら溺れさせる。


胡蝶蘭太夫の部屋には、

いつしか語らぬ客ばかりが集まるようになった。


宵の夏。

夢椿の間に、一人の男が訪れた。


桐生屋宗一郎。

大店の若旦那で、金も人脈もあり、

女遊びも一通り経験してきた男である。


廓では「粋で軽い客」として知られていた。

惚れさせることはあっても、

本気になったことはない。


「噂ほど冷たくはないな。

それとも、俺にだけそうしているのかい?」


軽い言葉だった。

確かめに来ただけだった。


胡蝶蘭は、ただ微笑んだ。

肯定も否定もしない。


——それが、宗一郎を狂わせた。


金を積んでも、

甘い言葉を重ねても、

彼女は変わらない。


冗談は減り、

視線だけが真っ直ぐになる。


「俺は、あんたの一日を

金で買っているつもりだった」


「だがいつの間にか、

自分の心を預けていた」


胡蝶蘭は気づいてしまう。

この男が、溺れていることに。


これ以上、溺れさせてはならぬ。

そう思うほど、胸が苦しくなった。


帰り際、

宗一郎は必ず一度、振り返った。


その背中が壊れてゆくのを、

胡蝶蘭は見ていられなかった。


真夜中。

誰もいない夢椿の間で、

胡蝶蘭は涙を流した。


「今日は、帰りが遅いな」


低く、優しい声。


惣十であった。

玉響屋の見番付き帳場役。

遊女や太夫の出入り、金銭、客を管理する男。


胡蝶蘭は、言葉を溢れさせた。


「……あの方が、

わらわを見ておる目が、変わってしもうた」


惣十は静かに答える。


「それは、お前の罪ではない」

「溺れるかどうかは、あの男が選んだことだ」


肩に積もっていた重みが、払われた気がした。


「……それでも苦しいなら」

「ここに来い」


それ以上は言わない。


胡蝶蘭は悟る。

この男だけが、自分を

太夫でも、花でもなく、

ただの人として見ているのだと。


宗一郎は最後に訪れた。

胡蝶蘭は、その瞬間に悟った。


「俺は、あんたに触れたいわけじゃない」

「ただ……忘れられなくなった」


胡蝶蘭は目を伏せる。


「それは、幸せとは限りませぬ」


宗一郎は微笑んだ。


「それでも、かまわない」


その覚悟が、胡蝶蘭の胸を深く刺した。


夜が明ける。

夢椿の間で、胡蝶蘭は一人、惣十の背中を見つめていた。


一人で背負っていたものが、

いつの間にか、二人のものになっていた。


胡蝶蘭は気づいていたこの気持ちが恋であると言うことをだが、誰にも知られてはいけない。


伝えないこれが太夫である私の覚悟であったから、


そこから秋がすぎ、冬になり雪が降り始めた頃、ずっと灯りのついていなかった月映(つくはえ)の間に灯りがついている。


胡蝶蘭は気になり月映の間をの襖を開ける、そこには、陽に映える蜜色の肌に赤みを含んだ濃い茶色の髪、瞳は大きくぱっちりとしていて視線が逃げない強さを感じた、


胡蝶蘭とは対照的で「近づかせ、燃やす美」

歩けば裾がなり、座れば空気が動く所作はまだまだであるだが一つ一つに意志を持っている。


胡蝶蘭はとても彼女の事が脅威に感じられた


焔太夫と胡蝶蘭太夫は月と灯、静と動である。


胡蝶蘭が沈黙で客を縛るなら、焔は感情で客を捕らえる。


焔は自分が火である事を知っている女だった。


燃えれば、いつか尽きる。それでも燃えねば存在できぬことを。


胡蝶蘭が25の春、胡蝶蘭はこの美貌は終わる、美しく去ろうと決めていた。


玉響屋の家老に伝え去ろうとした時「去る前に焔と舞わないか」


胡蝶蘭は少し考え渋々了承した。


――火は、夜を恐れていた


焔太夫は、胡蝶蘭太夫の初見せを覚えている。


まだ自分が名もなく、

客の座敷に上がることも許されない頃だった。


三階の月映の間から漏れた沈黙。

それが、すべてだった。


——音が、消えた。

誰も咳払いすらしなかった。

呼吸の気配さえ、引き取られたようだった。


焔はそのとき知った。

この人は、奪わない。

奪わないからこそ、

すべてを連れていくのだと。


自分は火だ。

燃えなければ、見てもらえない。


声を上げ、舞い、

笑い、泣き、

感情を叩きつけて、ようやく届く。


だが胡蝶蘭は違った。

——立っているだけで、夜を変える。

焔は、追いつこうとした。

越えようとは、思わなかった。


あまりにも遠く、

あまりにも静かで、

越えるという言葉すら、失礼に思えたからだ。


引退前夜。

二人で芸をすると聞いたとき、

焔の胸は、恐怖でいっぱいだった。


並べば、すべてが分かってしまう。

自分が、何者で、

あの人が、どこにいるのか。

それでも舞った。


火は、燃えるしかない。

芸が終わり、

客のざわめきが遠のいたあと、

焔は言った。

「わたしは、

あなたを越えたいと思ったことはありません


胡蝶蘭は、焔を見た。


それは初めて、

“後進”でも、“影”でもなく、

同じ太夫として向けられた目だった。


「よう、燃えたな」


その一言で、

焔は生涯分、救われた。


——この夜を、

玉響屋は、忘れない。


そう確信した。


――言わなかった恋が、最後に残る


廓を出る朝は、

思ったよりも静かだった。


胡蝶蘭は、最後の化粧をしなかった。

白粉も、紅も、

すべて、夢椿の間に置いてきた。


帳場に灯りが残っている。


惣十は、いつもと同じように帳面を閉じた。

その仕草に、

何一つ、変わりはない。


「……終わったか」


それだけ。


胡蝶蘭は、頷く。


長い沈黙が落ちた。

この沈黙だけは、

何年経っても慣れなかった。


惣十は、彼女を見ない。

見る必要がないからだ。


——見なくても、分かる。


胡蝶蘭は、そこで初めて口を開いた


「長い間、待たせてしもうたの」


惣十の指が、わずかに止まる。


「……仕事だ」


それは、逃げでも、否定でもなかった。

二人が守ってきた距離だった。


胡蝶蘭は、微笑んだ。


「それでも」


惣十は、ようやく彼女を見る。


花魁でも、太夫でもない。


ただ、長い夜を終えた一人の女を。


「……行くか」


それだけだった。


胡蝶蘭は、その一言で分かった。


恋は、

伝えられなかった。


だが——

選ばれなかったことは、なかった。


二人は並んで歩く。

誰にも見送られず、

誰にも知られず。


けれど確かに、

玉響屋で最も長い夜を、

共に越えた者同士だった。



継がれる灯


胡蝶蘭太夫の引退が近いという噂は、

玉響屋の奥座敷から町へ、静かに滲んでいった。


惜しむ声は多かった。

だが誰もが、どこかで悟っていた。

あの人は、永遠に座敷に在る存在ではない、と。


その夜、三階「月映の間」は久しく使われていなかった

二つの座敷が、初めて同時に開かれた。


胡蝶蘭太夫と——焔太夫。


一人は月。

一人は灯。


胡蝶蘭は、いつもより言葉少なだった。

焔太夫は、客の気配を一身に受け止めるように座した。


舞が始まる。


胡蝶蘭の舞は、音の“間”を支配した。

焔太夫の舞は、音そのものを掴みにいった。


静と動。

冷と熱。


本来、並び立つことなどありえぬ二人が、

その夜だけは、一つの芸となった。


客は声を失った。


「……こんな夜は、もう二度と来ぬ」

「玉響屋は、今日で生まれ変わった」


誰かが、そう呟いた。


胡蝶蘭は、焔太夫の舞う背を見ていた。

追い抜かれる恐れはなかった。

ただ——

この火なら、託せる

そう、思えただけだった。


夜が明ける前、

胡蝶蘭は夢椿の間を出た。


誰にも見送られず、

ただ一人、帳場に立つ惣十だけが頭を下げた。


「……長う、待たせてしもうたな」


胡蝶蘭は、初めて笑った。

太夫の笑みではなく、

一人の女として。


玉響屋の暖簾が揺れる。


その奥で、焔太夫は一人、座していた。


もう“憧れる背中”はない。

だが、消えぬ灯は、確かに胸にある。


「胡蝶蘭太夫は、月であった」

「焔太夫は、そのあとを照らす灯である」


そう語られるようになるのは、

もう少し先の話。


玉響屋は、今日も灯る。


月が去っても、

夜は、終わらない。

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