異世界ドール ~死にたい私と未知の世界からやってきた寄生生物について~
夕藤さわな
第1話
二〇二五年十二月末――。
地球上の様々な場所に突如として巨大な扉が現れた。その扉は未知の世界へ――地球とは異なる世界へと繋がっていた。
ニュースは連日のように巨大な扉と未知の世界について報じた。
だけど、そんな中でも日常は続いていく。巨大な扉も未知の世界も日常に取り込まれていく。扉が現れて十年も二十年も経てばなおのこと。未知の世界からやってきた本や美術品、鉱物や植物、生物は大手を振ってではないにしても人々の生活のあらゆる場面、場所に溶けこんでいた。
そう――。
「あの、つまり……彼はずっと浮気していたと……そういうことですか?」
「浮気? いいえ、不倫よ。ちなみに不倫相手があなた。私が妻」
今の私の状況よりもよっぽど現実的で日常に溶けこんでいる。
彼の妻だと名乗った女性はにっこりと微笑んだ。
「ちなみに離婚の予定はないわ。六才と二才の子供がいてお金も手もかかるから。もちろん二人とも私とあの人の子よ」
「……二才」
女性の言葉に私はますます打ちのめされる。私と彼は付き合って三年になるから。
「本当に知らなかったのね」
私の表情を見て何か思うところがあったらしい。女性は肩をすくめてそう言った。
「慰謝料を請求するつもりだったのだけど、二度とあの人に会わないと約束してくれるならもういいわ。なんだか可哀想になってきちゃった」
なんて言葉を返したらいいのか、どんな表情をしたらいいのかわからない。
でも――。
「ああ、あと、ごめんなさいね。先に謝っておくわ。あなたが所属する劇団の……イリナ・モロゾワさん? その方宛てに不倫の証拠とあなたへの慰謝料の請求書を送ってしまったの」
「……え」
その言葉には青ざめた。
「慰謝料の支払いは結構と電話で伝えておくから安心してちょうだい。それじゃあ」
返事も出来ずに凍り付いている私を置き去りにして女性は去っていった。
イリナに――所属するバレエ団の芸術監督宛てに私の不倫の証拠を? 次のプリマの座を争っているこのタイミングで?
二十五才の私と二十三才のあの子。実力で言えば、きっと、あの子の方が上なのだろう。それでも私が候補に残れていたのは芸術監督である彼女の温情だ。
だけど、もう無理だ。彼女は不倫の末に姿を消した夫と同じくらい夫を奪った女を憎んでいるから。同じような女を嫌悪しているから。
案の定、次のプリマはあの子に決まった。そして、私はバレエ団を辞めた。
自分にこれ以上の伸びしろがあるとは思えない。二十五才という年令を考えてももうチャンスはない。針のむしろに座り続けられるほどの神経の図太さもない。
「……私」
夢も、恋人も――すべてを失ったのだ。
***
あんなにも苦労した減量が苦も無く進む。バレエを辞めた今の方がよっぽど体重が落ちるのが早い。ベッドに横になって窓越しに灰色の空を眺めているだけだというのに。
バレエを辞めて一ヶ月が経とうとしているだろうか。このままではいけないとわかっているのに体が動かない。いい加減、仕事を探さないといけない。せめて顔を洗って髪をとかさないと。せめて嫌な臭いがし始めているゴミを捨てにいかないと。
せめて――。
「せめて……何か食べなさいよ」
合鍵を使って入ってきたのだろう。姉の声にゆっくりと瞬きする。
「このままじゃ、あんた、死ぬよ」
バタンという音は冷蔵庫のドアを乱暴に閉める音。前回、姉が来た時に冷蔵庫に入れていってくれた食材がほとんど手付かずのままなのを見たのだろう。ベッドに横になっている私を睨み下ろすと姉は言った。
「あんたまで私を置いていくつもり?」
父さんは私たちがまだ小さい頃に。弟は十八才になる前に。母さんは弟の後を追うように死んだ。みんな、自ら命を絶って。
そういう家系なのかもしれない。口に出したことはないけれど姉も私も頭の片隅でいつも思っていた。いつか自ら命を絶って死ぬのかもしれない、と。
そして、私の〝いつか〟は今なのかもしれない、と。私も姉も心のどこかで思っていた。
だから――。
「……これ」
〝それ〟は私のためだけでなく姉にとってのお守りでもあったのかもしれない。
「タマゴ……?」
「そ、〝異世界ドール〟の」
手のひらに乗せられたほんのわずか灰色掛かったタマゴをじっと見つめ、姉の言葉を呑み込み――。
「買っちゃった」
ニヒッと笑う姉を見て目を見開いた。
ここ十数年、世界中で飛び抜けた人気を誇る未知の世界からやってきた生物。それが〝異世界ドール〟。
ペットショップに並べられた色とりどりのタマゴを三日ほど温めると二頭身の、目がくりくりと大きくてほっぺたがぷにぷにと柔らかな人形のように可愛らしい生き物が生まれてくる。
髪の色も目の色も多種多様。獣の耳やしっぽが生えていたり、鳥や天使、悪魔のような羽根が生えていることもある。
鳥の刷り込みに似た習性があってタマゴから
二、三才程度の知能を持っているとされるドールたちは〝親〟の真似をしていくらかの言葉を話すようになり、笑ったり泣いたり、歌ったり踊ったり個性豊かに育っていく。
私と姉が子供の頃には犬や猫を抜いて飼育数トップになっていた。クラスのほとんどの子がドールを飼っている中、我が家は貧乏で買ってもらうことはができなかった。
うらやましくて、だからこそ、興味ない、あんなの別に欲しくないと強がっていた子供の頃の苦い思い出がよみがえる。
その人気ゆえに異世界ドールのタマゴはとんでもなく高い。今だって給料一、二ヶ月分と言われている。パートで働く姉と無職の私の給料だと一体、何ヶ月分になるのか。
「お金……どうしたの?」
「
親が残した借金を返した、そのほんのわずかな残りだ。足しにはなってもそれだけでドールのタマゴを買うことはできなかったはずだ。
「……自分のために使えば、いいのに」
「自分のために使ったのよ。ほら、両手で包んで温める。……ほら」
そう言って姉は私の手ごと、薄灰色のタマゴを両手で包み込んだ。
瞬間――。
「……あったかい」
ほっと息が漏れた。
料理するときに使うニワトリのタマゴの冷たさを想像していたから驚いた。生きているのだと実感して急に怖くなる。
うっかり割ってしまわないように、だけど、寒さで死んでしまわないように。そっと、恐る恐る胸に抱きしめた。
「三日くらいしたら孵るらしいから。それまで大事に大事に抱きしめてるのよ。なけなしの貯金で買ったタマゴなんだからね」
そう言いながら姉は私の口に何かを押し込んだ。反射的に飲み込んで姉を見上げる。わずかに残った後味はチョコレート。相談もせずに勝手に買ってきたくせにとも思ったけど口にはできなかった。
「だから、三日。まずは三日でいいから……死なないで」
***
目を覚ますと真っ白な、天使か白鳥のような羽根が生えたドールが目の前にいた。割れたタマゴのカラの中にちょこんと座り込んだその子は黒い瞳を不安げに揺らし、怯えたようすで体を小さく縮こまらせていた。
――ドールが孵ったら触れて〝親〟だって刷り込みをするんだよ。
姉にそう言い聞かせられていたことなんてすっかり頭から抜けてしまっていたけれど、なんの問題もなかった。
「初めまして。私が……あなたのママよ」
反射的に引き寄せて猫のように小さくてせまい額にキスをしていた。目を丸くしたドールは、しかし、すぐさま安心したように顔をくしゃりとさせて笑った。
小さな小さな両手を一生懸命に伸ばして抱っこをせがむ私の――私だけのドール。その愛らしさに私は一瞬にして心奪われたのだった。
***
「ねえ、この子……! この子は何を食べるの? 何を食べさせたらいいの!?」
タマゴを買ったときにいっしょに付いていたというワンピース。羽根を出すための切り込みを背中に入れただけの真っ白でシンプルなワンピースを着てドールは――私の〝オデット〟はくるくると楽し気に踊り続けている。
『そのようすだと気に入ったみたいだね』
電話越しに聞こえる姉の声は嬉しそうだ。
『ドールはね、ごはんも水もあげる必要ないんだって。必要なのは〝親〟の愛情だけ。〝親〟といっしょにいる時間だけ、なんだって。どんな子なのか見てみたいし、仕事帰りに寄るから。その時に育て方の本を持って行くよ』
食べ物も水も必要ない? 本当にそんな生き物が存在するのだろうか?
姉の言葉を半信半疑で聞いていた私だったけれど――。
「……!」
抱っこをせがむように小さく短い両腕を伸ばすオデットに頬が緩んだ。オデットを見ているとなんだか納得してしまう。
未知の世界からやってきたこの世のものとは思えないほど愛らしい生き物だ。地球の常識なんて通じないのも当たり前。〝親〟の愛情がドールの
そんな常識もあるのだろう。そんな非常識の中で生きている生き物もいるのだろう。
『〝親〟であるあんたが死んだらその子も死んじゃうんだからね。だから……!』
「うん、わかってる」
ただの人間で、地球の常識に縛られた生き物である私は食事や水分を摂らなければ死んでしまう。働いてお金を得て、食べ物や飲み物を買って、摂取しなければ死んでしまう。
それに――。
「こんなダサいワンピースじゃなくてこの子にぴったりの可愛い洋服を買ってあげたいから」
服だけじゃない。オデットに買ってあげたい物、してあげたいことがたくさんある。次から次に思い浮かぶ。
夢も恋人も、すべて失ったと思っていた。このまま死んで構わない、消えてしまいたいと思っていた。
だけど、姉が私に生きる目的をくれた。オデットが私に生きる意味をくれた。
それからの私はがむしゃらに働いて、がむしゃらに生きた。スーパーのレジ打ちに清掃員、工事現場で働くこともあった。
大変だったけど誰かのために――オデットのために頑張って日々、働き、過ごし、生きることはとても幸せだった。
だから――。
「そんな風にあやまらないで、お姉ちゃん。……むしろ、お礼を言いたいくらいなんだから」
点滴や酸素の
「マ、マ……?」
病院のベッドといういつもとは違う環境に私の胸の上にちょこんと座るオデットは不安げな表情をしている。オデットの不安を表わすように背中の白い羽根が時折、ふるふると震えた。
点けっぱなしのテレビからアナウンサーの声が聞こえてきていた。ここ最近、流れるのは同じニュースばかり。
――世界の人口は危機的な状況にあります。
――今、人間は絶滅の危機に瀕しているのです。
――原因は未知の世界からやってきて私たちの生活に入り込んでいた危険な外来種。
――〝異世界ドール〟は〝親〟の精気を吸って生きる寄生生物なのです。
――十五年ほどで〝親〟となった飼い主は精気を吸われ尽くして衰弱死してしまうのです。
――〝異世界ドール〟はとても危険な、飼い主の命を奪う寄生生物なのです。
――もしも、〝異世界ドール〟のタマゴをお持ちの場合は今すぐ、すべて、廃棄してください。
――〝異世界ドール〟を飼育しているご家族、ご友人がいる場合は以下の電話番号までご連絡を――……。
アナウンサーが繰り返す言葉に姉はますます泣きじゃくる。私があんなものを買ってきたから。あんたにこんなものを渡したから。
「……だけど、ね」
呟いて私は姉の手を握り返し、もう一方の手でオデットのふわふわの羽根を撫でた。天使か、白鳥を思わせる真っ白な羽根を。
十五年前のあの日、夢も恋人も、すべて失ったと思っていた。このまま死んで構わない、消えてしまいたいと思っていた。
だけど、姉が私に生きる目的をくれた。オデットが私に生きる意味をくれた。
「あの時、お姉ちゃんがドールのタマゴをプレゼントしてくれなかったら、きっと、この十五年はなかったと思うから」
そう、未知の世界からやってきた寄生生物に精気を吸い尽くされて衰弱死するんじゃない。
姉からの贈り物に十五年、生かされたのだ。
「だから……あやまらないで。後悔なんて、しないで。……お姉ちゃん」
ドールの寿命は〝親〟が死ぬとき。〝親〟が死ぬのを見届けたドールはその数時間後に死ぬ。タマゴをいくつか産んだ後、〝親〟の後を追いかけるように息を引き取るのだ。
だから、私は知らない。
私が死んだあと、オデットの体がさらさらと砂のように崩れ落ちたことも。砂の中に薄灰色のタマゴが一つ残されていたことも。
そのタマゴを姉が三日のあいだ、大事に、大事に抱きしめていたことも。
オディールと名付けられた真っ黒な羽根のドールを胸に抱きしめて姉が死ぬのは――十五年後のこと。
異世界ドール ~死にたい私と未知の世界からやってきた寄生生物について~ 夕藤さわな @sawana
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