終幕世界で君に愛を

甘党民族

第1話 終わりの始まり(1)

 静かな場所が好きだった。

 誰も居ない早朝の教室とか、特別教室の並ぶ東棟の廊下とか。ぴんと空気が張り詰めて背筋の伸びるような、そんな場所。そういう場所は、いつだって私の心を落ち着けてくれる。

 放課後の図書室がいい例だ。人は疎で、騒ぎ立てる生徒も居ない。響くのは紙面を捲る音と秒針の調べだけ。その穏やかな世界は、私にとって楽園にも似た魅力を持っている。出来はしないと分かっていながらも、いつまでも居残っていたいと考えてしまう程には。


 しかし、私は読み進めていた本を徐に閉じ立ち上がる。遠くに聞こえる五時の鐘のせいか、図書委員の咳払いのせいか。集中の途切れた頭が私に理性を突きつけた。

 そろそろ帰らなくては。

 このまま家に帰らなければ、心配性な両親は警察に通報するだけでは足りない。心身を擦り減らし、不眠不休で私を探しに走り回る姿がありありと目に浮かぶ。そんな事態が起こらないよう、私は手早く支度を済ませる。

 とは言っても、読んでいた本を鞄に仕舞うだけだ。手に取った文庫本サイズのそれは、ハードカバーということもあって他の本よりも少し重量感がある。内容は所謂ファンタジー系の小説で、表紙には一匹のうさぎと少女のシルエットが描かれていた。図書室に入荷したばかりの新しい本で、読み進めて間もないそれに私は期待を膨らませていた。


 軽快な足取りで本の貸し出し手続きを済ませ、図書室を後にする。思ったよりも集中していたようで、帰る予定の時刻はとうに過ぎていた。窓から差し込む斜陽も思ったより傾いており、私に焦燥感を募らせる。

 早く帰らなくては。

 逸る気持ちに急かされて、廊下を小走りで抜けていく。左肩に下げた三つ編みが肩の上で跳ね、視界の端に映り込んでいた。それが少し煩わしくて退けようかと、視線を正面からずらした時だった。窓の先で揺れた影に自然と目が留まる。


 私の通う“桜杜中学校”は、校庭を囲うようコの字の造りになっている。そのため校舎端に位置する図書室から、中央へ向かう廊下にて、対となる屋上の様子が伺えるのだ。屋上は普段、生徒の立ち入りが禁止とされていて、見て分かるように転落防止の柵すらない。どちらかといえば屋上というより、平たい屋根という印象を持つ生徒の方が多いだろう。実際屋上に人が立つのは年に数回で、大抵貯水槽の点検が目的だと聞く。そのせいか、この学校で屋上に夢を持つ生徒は極めて少ない。自分も含め、生徒が目線を上げるのは屋上への羨望ではなく、その奥に見える桜並木の美しさ故だろう。


 しかし今、私の目に留まっているのは屋上でも花弁の散った木々でも無い。

 上層風に乗せられて、若草色の布が中空にはためいていた。予期しないシルエットに一瞬理解が遅れる。そこから 伸びるスラリとした脚と、校庭側を覗き込む頭に、それが自分と同じセーラー服であると気付いた。彼女はまるで、そこに立っている事が当然かの様に堂々と、屋上の縁へ足裏を付けている。



 その事実を飲み下した瞬間、私はサァっと血の気が引いていくのを感じた。飛び降り、その四文字が反射的に脳内へ浮かぶ。私は生徒の機微に疎いが、虐めやそれに関した事件などは聞いた事もない。つまり“そういうこと”をする人物に、心当たりなんてまるきりなかったのだ。


 慌てて周囲を見渡すも、授業時間もとうに過ぎた校舎端の廊下では、人の気配すらない。しかし動揺したのはコンマ数秒のこと。風を受けぐらりと揺れる人影に、私は転がるよう走り出した。廊下の先、埃の積もった西階段を駆け上がって屋上を目指す。これまでの人生、こんな必死に足を動かしたことなんてないってほど。限界を知らせる脈動も無視して、私は荒い呼吸を飲み込む。

 階段を登り切った先では、廊下よりも色濃い陽光が壁を、天井を染めていた。屋上の少女が開けたのか、用務員の先生が閉め忘れたのか。普段施錠されているはずの扉は開け放たれており、冷たい風がぶわりと吹き込む。押し戻されるような感覚に焦りが増していく。


 見晴らしの良い屋上では少女のシルエットがはっきり見えた。元々フェンスが設置されていたであろう、コンクリートの基礎に登る彼女。逆光に写る体躯が校庭の方を覗き込んで、まるでベットにでも飛び込むかのようふらりと傾くものだから。


「……っおねがい、待って!」


 喉奥を無理矢理に開いて叫ぶ。それと同時に片足を思い切り踏み込んだ。コマ送りのようにゆっくりと流れる視界で、私はなりふり構わず彼女へ手を伸ばす。兎に角必死だったことを覚えている。自分を忘れ、見知らぬ生徒が落ちてしまわないようにと。それだけを考えていた。

 しかし、彼女へ伸ばした右手は思ったよりも簡単に布地の感触を伝える。必死さが空回りした私の腕は、自分が思うよりもずっと強い力で生徒の腕を引く。彼女も私の介入は予想外だったのだろう。小さく聞こえた驚嘆の声と共に、私たちの背中は屋上の床面へと吸い込まれていく。


 倒れ込む直前に見えたのは、振り向きざまに覗く彼女の横顔だ。背を付くまでの時間なんてきっと一秒にも満たなかっただろうに。その瞬間の記憶は、妙に鮮明な一場面として私の脳へこびりついていた。

 丸みを帯びた鼻筋へ続く、薄く控えめな唇。しっかりとした二重幅を持つ大きな瞳は、一瞬の最中でもこちらを真っ直ぐに捉えていた。自分よりもずっと年下に見える幼げな顔立ちであるが、夕陽に滲むそのラインは空間を切り出したような美しさを持つ。


 ゴツン、と。頭蓋に響く鈍い打撃音。一呼吸おいて、熱に似た痛みが頭からつま先まで抜けていく。伝う痺れに、芯から震える。反射的に丸まっていく体はさながら海老の様だ。目元にはじわりと生理的な涙が滲み、少しでも痛みを逃がそうと深い吐息が溢れた。

 数秒して痛みに理性が勝る頃、私はキツく閉じていた瞼を緩める。光が差したり、陰ったり。コントラストの揺れる景色が涙で滲んでいた。手の甲で軽く目元を拭うと、視界は眼前の情景を細やかに描写し始める。

 彼女は無事だろうか、そもそもどうしてあんな事を。聞きたい事は色々あった筈だが、目の前へ突き付けられた光景___いや、突き合わされたものに全て掻き消されてしまう。


「あなた、だあれ?」


 目と鼻の先で紡がれる言葉に、私の頭は勝手に情報を咀嚼する。薄い唇から覗く小さな八重歯と赤い舌先。茜の差すふくよかな頬。長いまつ毛に負けじと、大きく見開かれたツツジ色の瞳。にこりと口角を持ち上げて問う彼女は、腕を支えに私へ覆い被さっている状況で。視界の周囲に垂れ下がる胡桃色の長髪が、木漏れ日の様に夕陽を透かしていた。


 真っ直ぐな瞳に問いかけられる中、私は心臓が締め付けられるような息苦しさに喘ぐ。全身が強ばっていくのは痛みのせいじゃない。人肌特有の少し酸味のある匂いも、自分の頬に触れる呼気も、どちらのものかも分からない鼓動も、全部。


「きもちわるい……」


 それは最早反射だった。口を次いで出た言葉は、やけにハッキリとした輪郭を持って辺りに響く。ハッとして口元を抑えるも、発した言葉は取り消せない。酷い事を口にしてしまった動揺と、それでも治まらない不快感が確かに私の頬を撫でる。

 飛び降りたくなるほど追い詰められていた少女へ、私は"気持ち悪い"なんて零してしまったのだ。例えこれが本意で無いとしても、傷付けてしまったことに変わりはない。どう弁解すべきか考えても、混乱した頭に浮かぶのはどれもチープな慰めばかり。

 傷付いたであろう彼女の顔を見たくなくて、私は目を逸らしたまま口を動かす


「……っごめん、なさい。……お願いだから、はなれて……」


 返答は無い。けれど素早く退いてくれた辺り、多少なりとも私の動揺が伝わっているのだろう。内心に感謝を描きながら、体を持ち上げ呼吸を整える。未だドクドクと脈打つ心臓が煩くて、今にも破裂してしまいそうだった。

 しかし、次第に湧き上がる罪悪感は私の全身へまとわりついていく。それは誰かに抱きつかれる感覚と似ていた。そのせいで余計加速していく不快感に、私はごくりと生唾を飲み込んだ。


「ねぇ、だれなのぉ?」


 産毛の逆立つ肌に、どろりと甘い声が囁く。蜂蜜と呼ぶにはどこか軽くて、しかしガラスほど透き通ってはいない。均一に染まった"幼さ"が、俯く私を容赦なく覗き込んでいた。

 そんな無垢の瞳から少しでも逃れたくて、私は腕を支えに座り込んだまま軽く仰け反る。


「つ、椿本愛菜です。……あの、酷いこと言ってしまった手前申し訳ないんですが……あまり近づかないで貰えると、助かります……」


「ふぅん、あい……あいなちゃん!すっごく可愛いお名前だねぇ!」


 正面に座る彼女は頬に両手を添えて、甘美な笑みを浮かべる。鳴き声のように何度も私の名前を口にしては、可愛い、可愛いと目を細めて。十分な距離は取れたというのに、先と同じような不快感が胸に巣食う。


「あの、あなたは……」


 甘味の猛攻から逃れたくて、私は質問を返す。

 屋上から身を乗り出す精神状態。そんなもの欠片も見えないような彼女を不思議に思う気持ちも、また事実だった。

 一挙手一投足が作り物に見えてしまう、そんな彼女の心は一体どんな"かたち"をしているのだろう。


「私はねぇ、くるみ。青沼くるみだよぉ!よろしくねぇ、愛菜ちゃん!」


 底の見えない瞳で微笑む。彼女と私の間を風が抜けて、草木と何処か饐えたような匂いがツンと鼻を刺した。


 刹那、夕陽に照らされる彼女の輪郭がぼやけて、滲む。水彩画に水を零したかの様に彼女と、鮮やかな背景は混ざり合っていく。

 それに違和感は感じなかった。視界が崩れていくと共に、自分の意思すらも溶け消えて行く様な感覚で。曖昧な自意識越しに覗いた彼女は、夏の日のアイスに似ていた。

 溶ける、溶ける。毛髪が流れて、沸騰した様に目玉はごぽりと不快な音を立てる。目に見えて体は損傷しているのに、流血している様は見えない。人の形もままならなくなった彼女は、人間と形容することすら憚られる。脚に這う生暖かい感覚に全身が粟立つ。伸ばされた右手は私の頬に触れ、なぞる様に口内へ沈んでいく。痺れるような苦味と、冷えた食感を覚えている。

 眼前にて繰り広げられる異様な惨状。私は逃げられない、目を背けることができない。永劫続くような地獄を“正常”として受け入れる他ないのだろうと、どうしてか違和感なく飲み込んでいた。


 声が、聞こえるまでは。



「愛菜……?ねぇ愛菜、どうしたの?」


 頬を包む掌が首筋を伝って、鎖骨の凹凸を確かめる様に撫でていた。薄暗い室内でぼんやりと光を放つ常夜灯に、ロングヘアの見慣れたシルエットが影を成す。

 怖い夢でも見たの、と首を傾げ眉を下げる女性は、夢の中のくるみがしたように私へ覆い被さっていた。最も、私に引っ張られて転んだわけではない。ある意味では正しいのかもしれないが。


 夢、そう私は夢を見ていたのだ。ここは学校の屋上でも、ましてや夢に見た異世界でもない。いつも通りの寝室に父親、私、母親の順で川の字になって寝ているだけ。カーテンの隙間から覗く暗がりに、少し気怠い体。

 何も変わらない、いつもの景色。その事にようやく安堵を覚え、私は小さく息を吐き出した。


「大丈夫だよ、少し……嫌な夢を見てただけ」


 お母さんの掌に額を寄せる。こうするとお母さんは決まって頭を撫でてくれるので、そうしている。頭を撫でられるのは嫌いじゃなかった。

 私へ抱きつくよう隣へ寝転んだお母さんは、人形みたいに滑らかな脚を私に絡めて纏わり付いた。身じろぎの合間に吹き込む空気は冷たい。お母さんも寒かったのか、私の背に腕を回してその柔らかな胸を押し付ける。


「愛菜は甘えん坊さんね。ほら、ママがちゅーしてあげる」


 軽い力で顎を引き上げられる。自分と同じ青い瞳と目が合って、吸い込まれる。それが少し怖くて目を閉じた。


「……ん、ふふ!愛菜ってばいつまで経っても慣れないわね。顔真っ赤にしてるの、かわいい」


 熱い吐息の中で銀色の糸が伸びて、ぷつりと途切れた。

 心臓が苦しいほど脈打っている。足も、今すぐ逃げ出さんとばかりに震えている。しかし胸に触れても鼓動は落ち着いているし、足だって本当はピクリとも動いていないのだろう。安堵と拒絶と、それを見つめる離人感。両親と愛し合う時間は私にとって、小説を読んでいる感覚に近かった。

 頬を染めて舌なめずりをするその姿は、私を食べる蛇だ。感情の煮凝りに飲み込まれた私は、食い尽くされるまでこの体を動かすことが出来ない。

 お母さんはもう一度体を起こして私を跨いだ先、お父さんの背に手を伸ばす。ねぇねぇ、と。甘いお酒みたいな声がお父さんの名前を呼ぶ。私たちに背を向ける、その大きな体躯を数度揺らせば、くぐもった声と共にその体が起き上がる。少し眠たげでトロンとした目付きが、私とお母さんを交互に見つめた。


「……どうしたの、まだ……夜だろう?」


「愛菜が怖い夢見て眠れないんですって。だから一緒に、愛菜を愛してほしいの……!」


 眠れないとは言っていないが、しかし訂正する気も起きない。私は口内へ染みつく不快感を黙って飲み込み、胸元を隠すよう布団を引き上げた。

 終始楽しげなお母さんに反して、お父さんは寝起きだからかいつもより大人しい。反動をつけて起き上がるその体には、自分の身体では成し得ない陰影がくっきりと刻まれていた。自分では辿り着くことのない強さの象徴。なりたいとは思わないが、自分の無力さを噛み締めるのには十分すぎた。

 起き上がったお父さんは一つ伸びをしてから、私の頭を優しく撫でる。そのまま流れるよう耳に触れ、額にキスを落として。そうして愛おしそうに息を吐く。


「仕方ないな、明日もあるから少しだけだぞ……」


 眉を顰めて笑うお父さんの肩に、お母さんの長い髪が凭れる。艶やかに流れる黒髪が自分とよく似ていた。親子だから当たり前、と言ってしまえばそうなのだが。私にはそれが、自分の鏡や生き写しの様に見えてしまい悍ましかった。

 私の上で肩を寄せ合う両親がふと見つめ合う。それは自然なことで、私の中では最早日常に近い行為だった。両親は互いに愛し合っている、私はそこに混ざるだけ。


 両親はこの行為を“愛”と呼んでいた。想いを深め合う、何にも変え難いことなのだと。私は幼い頃からこれを受け入れ過ごしてきた。いけない事だとは分かっていても、振り払うには“両親からの愛”というラベルが重すぎたのだ。


 薄暗い部屋で愛を歌う。誰のものかも分からない粘着質な水音を背景に、私はこの時間が少しでも早く過ぎるようにと目を閉じる。

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