ゴールドヒストリー〜黄金の軌跡を紡ぐもの〜

謎ノ転生者

第1話 生まれし黄金はまだ名を持たない

夜明け前の空気は、三月にしてはまだ冷たかった。

吐く息が白く浮かび、厩舎の屋根をかすめる風が、かすかに干し草の匂いを運んでくる。


「……そろそろ来そうだな」


分娩厩舎の前で腕を組んでいた年配の牧場スタッフ佐藤が、時計を一瞥してそう呟いた。

隣に立つ若いスタッフ宮本が、緊張を隠せない様子で頷く。


「予定日より、少し早いくらいですね」

「この牝は、昔から“間”を外さない。来る時は一気だ」


厩舎の中では、母馬が静かに息を整えている。

栗毛に近い鹿毛の馬体を持ち、年月とともに芦毛へと移ろう色の途中にあったその身体は、無駄な脂肪がなく、競走馬としても母としても完成された体つきだった。


――ポイントフラッグ。


名を呼ばずとも、関係者の間では誰もがそう理解している存在。

あの名血メジロマックイーンの娘であり、

そして――


「……相手が、あの小柄な黄金か」


別のスタッフが、半ば冗談めかして言った。


「ステイゴールド、ですね」

「ああ。サンデーの血を継いだ、あのしぶといの」


父は黄金旅程、ステイゴールド。

その名に、誰かが小さく苦笑した。


「正直、どんな仔が出るか、想像しづらい配合だよな」

「父は気性が荒いわけじゃないが、癖は強い」

「母父はメジロマックイーン。真逆のようで、芯は似てる」


沈黙が落ちる。

その沈黙の中に、かすかな期待と、言葉にできない予感が混じっていた。


「……全兄のことも、どうしても頭をよぎるな」


その一言で、空気が少し変わった。


ーーーー黄金の不沈艦 ゴールドシップーーーー


白い馬体に長い脚、そしてどこか人を食ったような振る舞い。

常識や理屈をあざ笑うかのように、走る時も、走らない時も、すべてが規格外の存在だった。


血統は名門中の名門。

父は気性難と天才を併せ持ったステイゴールド、母は名牝ポイントフラッグ。

すなわちこれから生まれる仔の全兄。

生まれながらにして才能を宿していながら、その力をいつ、どのように解き放つのかは、誰にも読めない――それがゴールドシップという馬だった。


ある時は圧倒的な強さで群れを置き去りにし、

またある時は気まぐれにすべてを裏切る。

だが一度本気になれば、その背中は時代を引きずるほどに強く、美しかった。


「制御不能の怪物」か、それとも「気高き英雄」か。

答えは常に、ターフの上にだけ刻まれる。

そんな色んな意味で有名な競走馬。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「……ああ」

「破天荒、って言葉が服着て走ってるような馬だ」

「レースだけじゃない。普段の扱いでもな……」


誰かが肩をすくめる。


「でも、あれも血統的には“正解”だった」

「サンデー×マックイーンの黄金配合。理屈は、通ってる」


厩舎の奥で、母馬が低く嘶いた。

その声に、全員の視線が一斉に向く。


「来るぞ」


経験のあるスタッフが、即座に動いた。

無駄のない動きで準備が整えられ、厩舎の空気が一気に張り詰める。


時間の感覚が曖昧になる。

ただ、母馬の呼吸と、スタッフの声だけが、世界のすべてだった。


「落ち着いて……そうだ、そのまま」

「大丈夫、いける」


そして――

濡れた身体が、ゆっくりとこの世に滑り出た。


「……出た」


最初に聞こえたのは、誰かの安堵の息だった。


仔馬はしばらく動かず、荒い呼吸を繰り返していた。

だが次の瞬間、小さく首を動かし、震える脚を必死に立てようとする。


「……早いな」

「生まれてすぐだぞ」


前脚が滑り、尻もちをつく。

それでも、もう一度。さらにもう一度。


「負けん気、あるな」

「……父親譲りか?」


誰かが、冗談とも本気とも取れない声で言った。


仔馬の毛色は、父に似た鹿毛。

光に当たると金色に近い艶をする。

だが、目つきは母に近い。落ち着いているようで、奥に強い光を秘めている。


「脚、見てみろ」

「……長いな」

「マックイーンの血が、きれいに出てる」


母馬が仔に鼻先を寄せ、静かに匂いを確かめる。

その様子を見て、スタッフたちはほっと肩の力を抜いた。


「無事だな」

「ああ、母子ともに問題なし」


厩舎の外では、空がうっすらと明るくなり始めていた。

夜と朝の境目――何かが始まる時間。


「……この仔、どうなると思います?」


宮本の問いに、佐藤はすぐには答えなかった。

仔馬をじっと見つめ、しばらくしてから口を開く。


「…さあな」

「ただ一つ言えるのは――」


少しだけ、口元が緩む。


「“普通”には、ならんだろう」


誰かが笑い、誰かが頷いた。


破天荒な兄が証明した血。

しぶとく、折れず、常識を裏切る父の血。

そして、静かに強さを内包する母の血。


まだ名もないこの仔は、何も知らずに、初めての朝を迎えていた。

だが、牧場の人間たちは知っている。


――今日生まれたのは、ただの一頭ではない。


この静かな厩舎から、また一つ、黄金の物語が始まったのだということを。

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ゴールドヒストリー〜黄金の軌跡を紡ぐもの〜 謎ノ転生者 @yuriusu777

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