「共同名義なら安心だと?」浪費妻が間男と作った借金を俺に被せようとしていたので、法的に完全分離して離婚を突きつけたら、借金地獄と孤独だけが残った件
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第一話 甘えの代償と裏切りの証拠
深夜二時。静寂に包まれた都内のマンションの一室で、俺、佐伯健人は青白い光を放つモニターを見つめていた。キーボードを叩く音だけが、無機質なリビングに響いている。システムエンジニアという職業柄、深夜の作業は珍しくない。納期前のデスマーチに比べれば、自宅での残業など優雅な休暇のようなものだ。
コーヒーカップに手を伸ばし、冷めきった黒い液体を喉に流し込む。苦味が脳の芯を刺激し、少しだけ意識が鮮明になった。
「……ふう。とりあえず、ここのバグは潰せたか」
大きく伸びをして、俺は椅子に深く背中を預けた。三十歳という節目を迎え、中堅としての責任も増えてきた。給料は同年代に比べれば悪くない。いや、むしろ恵まれている方だろう。このマンションも、都心へのアクセスが良い割に広さがあり、購入を決めたときは少し背伸びをしたかと思ったが、今では我が城として誇らしく思っている。
寝室の方へ視線をやる。そこには妻の玲奈が眠っているはずだ。結婚して三年。二つ年下の彼女は、専業主婦として家を守ってくれている、はずだった。
俺が仕事に没頭できるのも、玲奈が家のことをやってくれているからだ。そう自分に言い聞かせ、感謝すらしていた。彼女が以前、「主婦業も大変なの。たまには息抜きが必要」と言って、頻繁に友人とランチに行ったり、エステに通ったりしていても、俺は何も言わなかった。俺の稼ぎで彼女が笑顔でいてくれるなら、それが男の甲斐性だと思っていたからだ。
だが、そんな俺のささやかな矜持は、つい数時間前、粉々に打ち砕かれた。
視線をモニターから外し、デスクの脇に置かれた一通の封筒を見る。
それは、玲奈が隠していたであろう、消費者金融からの督促状だった。
事の発端は、単なる偶然だ。
仕事の資料を探してリビングの共有収納を漁っていた時、奥に押し込まれた分厚い料理本の間から、その封筒が滑り落ちてきたのだ。「親展」と書かれた赤い文字。宛名は佐伯玲奈。差出人は、誰もが名前を知る大手消費者金融。
嫌な予感が背筋を駆け上がった。
俺は震える手で封を開けた。中から出てきたのは、無機質なフォントで印字された「支払督促」の文字。そして、そこに記された数字に、俺は呼吸を忘れた。
『借入残高:3,250,000円』
三百万……?
桁を見間違えたのかと思った。だが、何度見直しても数字は変わらない。住宅ローンでも車のローンでもない。使途不明の、純粋な借金が三百万。しかも、督促状の日付を見る限り、支払いが数ヶ月滞っているようだ。遅延損害金も含めれば、さらに額は膨らむだろう。
「……なんだよ、これ」
乾いた声が漏れた。
俺は家計を玲奈に任せていた。毎月、決まった額の生活費に加え、彼女の小遣いとして十分な額を渡していたはずだ。ボーナス時には旅行にも連れて行っているし、記念日のプレゼントも欠かしたことはない。
何に使った? ブランド品か? ギャンブルか?
それとも、俺が知らないだけで、実家の親が病気で金を必要としていたのか?
いや、そんな美しい話ではないだろう。俺の長年の勘が、もっとドロドロとした何かを告げていた。システムにバグが見つかった時と同じ感覚だ。表面上は正常に動いているように見えても、裏側で致命的なエラーログが吐き出されている時の、あの感覚。
俺はSEだ。原因不明のトラブルに直面した時、まずやるべきことは感情的になって騒ぐことではない。ログを洗い、証拠を集め、原因を特定することだ。
俺は静かに立ち上がり、玲奈が普段使っているタブレット端末を手に取った。彼女は機械に疎い。パスワードは彼女の誕生日か、俺たちの結婚記念日か、あるいは飼っていた犬の名前か。
いくつか試すと、あっさりロックが解除された。「0525」。俺たちの結婚記念日だ。かつては愛おしいと思ったその数字が、今は皮肉めいた嘲笑のように感じられた。
タブレットは彼女のスマホと同期されている。
俺は手慣れた操作で、写真アプリとSNSのアプリを開いた。
「……やっぱりな」
予想はしていた。だが、目の前の事実は予想を遥かに超えていた。
そこにあったのは、煌びやかな「裏アカウント」の世界だった。
『Re_Na_Secret』というアカウント名。プロフィールには「既婚者 / 旦那はATM / 秘密の恋 / 毎日がスペシャル」という、吐き気を催すような文言が並んでいる。
投稿をスクロールする指が震えた。
最新の投稿は三日前。
『翔くんと箱根旅行♡ 露天風呂付きのお部屋、最高だった〜! 旦那には実家に帰るって嘘ついちゃった(笑)』
添付された写真には、高級旅館の豪華な食事と、浴衣を着た玲奈が写っている。そしてその隣には、茶髪でピアスの似合う、二十代前半とおぼしき若い男。玲奈の肩を抱き、チャラついた笑顔を向けている。
さらに過去の投稿を遡る。
『翔くんの誕生日! 奮発してロレックス買っちゃった! 喜んでくれてよかった〜♡ 愛してる!』
写真には、俺が欲しくても我慢していた高級時計の箱と、それにキスをする玲奈の姿。
『今月もピンチ(汗) でも翔くんに会うためなら仕方ないよね。消費者金融さん、いつもありがとう(笑) 旦那のボーナス入ったら一括で返すから許して!』
『旦那、マジでウザい。仕事ばっかで相手してくれないし、稼ぎが良いことくらいしか取り柄ないじゃん。翔くんみたいにもっと甘えさせてくれればいいのに』
画面をスクロールするたびに、俺の中の何かが音を立てて崩れ落ちていくのを感じた。
怒り、悲しみ、虚無感。それらがごちゃ混ぜになり、胃の奥から酸っぱいものがこみ上げてくる。
俺が深夜まで残業して、休日返上で働いて稼いだ金は、家のローンのためでも、二人の将来のためでもなく、この「翔」という男との遊び金に消えていたのだ。
しかも、俺の金を使い果たすだけでは飽き足らず、自分の名義で借金までして。
「ATM……か」
画面の中の玲奈は、俺の前では見せたことのないような、とろけるような笑顔を浮かべている。
俺が知っている「家庭的で少し抜けている可愛い妻」は、虚構だったのか。それとも、この裏アカウントの姿こそが彼女の本性で、俺はずっとピエロのように踊らされていただけなのか。
三百万の借金。そのすべてが、この男との情事のために使われたものだということは、投稿の日付と金額を照らし合わせれば明白だった。
高級ホテルのスイート、ブランドのバッグ、男の車の改造費、連日の高級焼肉。
俺がコンビニのおにぎりで昼食を済ませている間に、彼女は間男と数万円のランチを楽しんでいたわけだ。
ふざけるな。
ふざけるな、ふざけるな、ふざけるな。
モニターを叩き割りたい衝動を、必死で抑え込む。ここで暴れても何の意味もない。むしろ、感情的になって玲奈を問い詰めれば、彼女は泣き落としにかかるか、証拠を隠滅しようとするだろう。あるいは、「寂しかったから」などという陳腐な言い訳を並べて、俺の罪悪感を刺激してくるかもしれない。
今の俺に必要なのは、感情の爆発ではない。
冷徹なまでの「処理」だ。
俺は深呼吸を繰り返し、沸騰しそうな脳を冷却した。
そして、自分のPCに向かい直し、手早く作業を開始した。
タブレットの画面をスクリーンショットで保存し、クラウド上のデータを全て自分のローカル環境にバックアップする。写真、動画、DMのやり取り、位置情報の履歴。それら全てを、日付ごとにフォルダ分けし、体系的に整理していく。
この作業は、バグのログ解析と何ら変わりない。対象がプログラムコードから、妻の不貞行為に変わっただけだ。
DMのやり取りを開く。そこには、さらに生々しい会話が残されていた。
『玲奈さん、マジ愛してる。でもさー、今月ちょっと車のローンがキツくて。五万くらいなんとかならない?』
『もー、翔くんたら。仕方ないなぁ。愛してる人のためだもん、なんとかする! 明日また無人契約機行ってくるね』
『さすが玲奈さん! 神! 愛してるよ、チュッ』
『私も愛してる! ねぇ、旦那が寝たらビデオ通話していい? 声聞きたい』
『ごめん、今日は疲れてるからもう寝るわ。金振り込んだら連絡して』
『わかった……おやすみ、翔くん』
読んでいて頭痛がしてくる。
どう見ても、男の方は金目当てだ。玲奈は「愛されている」と信じ込んでいるようだが、男のメッセージからは微塵も愛情を感じない。金の切れ目が縁の切れ目、典型的なヒモと、それに貢ぐ痛い女の構図だ。
だが、玲奈はその事実に気づいていない。それどころか、借金を重ねてまで男を繋ぎ止めようとしている。
「馬鹿か、こいつは……」
哀れみすら覚える。
だが、その哀れみも一瞬で消え失せた。彼女の愚かさの代償を、なぜ俺が払わされなければならない?
「旦那のボーナス入ったら一括で返す」。
その投稿が、俺の心に深く突き刺さっていた。
彼女は、自分が作った借金を、最終的には俺が尻拭いしてくれると信じて疑っていないのだ。
「夫婦なんだから」「いざとなれば健人がなんとかしてくれる」。
そんな甘えが、画面の向こうから腐臭のように漂ってくる。
ガチャリ。
寝室のドアが開く音がした。
俺は反射的にタブレットの画面を消し、手元の資料の下に隠した。PCの画面も、仕事用のコードが表示されたウィンドウに切り替える。
「……んぅ、健人? まだ起きてるの?」
目を擦りながらリビングに入ってきたのは、玲奈だった。
ジェラートピケのモコモコとしたパジャマに身を包み、眠そうな声で俺を呼ぶ。その姿は、昨日までと変わらない、守るべき可愛い妻の姿だ。
だが、今の俺には、その姿がグロテスクな化け物に見える。
この女は、俺の隣で眠りながら、夢の中で別の男の名前を呼んでいたのかもしれない。
「ああ、ちょっとトラブル対応でね。もう少しで終わるよ」
俺は努めて平坦な声を出した。鏡を見なくてもわかる。今の俺は、能面のように無表情だろう。
玲奈は「そっか、大変だね」と言いながら、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、一口飲んだ。そして、俺の背後から肩に手を回し、甘えるように頬を寄せてきた。
「ねぇ、健人。無理しないでね? 健人が倒れたら、私、生きていけないよ」
その言葉に、背筋が凍りつくような嫌悪感が走った。
「生きていけない」。それは精神的な意味ではなく、経済的な意味だろう。俺というATMが壊れたら、金を引き出せなくなるから困る、という意味だ。
「……ありがとう。大丈夫だよ」
彼女の腕を振り解きたい衝動をこらえ、俺はキーボードを叩くふりを続けた。
すると、玲奈は少し言い淀むような気配を見せた後、猫なで声で切り出した。
「あ、あのさ、健人。相談があるんだけど……」
「なんだ?」
「来月なんだけどね、大学時代の友達が結婚することになって、ハワイで挙式するんだって。私も招待されたんだけど……」
嘘だ。
俺は先ほど、彼女の裏アカウントで「来月は翔くんと沖縄旅行! 予約完了!」という投稿を見ていた。ハワイでの挙式など存在しない。
「そうか。でお金が必要ってことか?」
「うん……。渡航費とかご祝儀とかドレス代とかで、どうしても三十万くらい必要で……。今月の生活費だとちょっと厳しくて。ボーナスも近いし、前借りってことでお願いできないかな?」
三十万。
おそらく、消費者金融への利息の支払いと、間男との旅行費用の合算だろう。
彼女は俺の顔色を窺っている。上目遣いで、少し困ったような表情を作る。これが彼女の常套手段だ。今まで俺は、この顔に弱かった。
「仕方ないな、楽しんできなよ」と言って、言われるがままに金を出していた。
だが、今は違う。
俺の中で、何かが完全に冷え切って固まっていく音がした。
愛だの情だのといった不確定な要素は、バグの原因にしかならない。今の俺に必要なのは、システムを正常に戻すためのロジックだけだ。
「……わかった。少し考えさせてくれ。今すぐには用意できないから」
俺は肯定も否定もせず、曖昧に答えた。
ここで騒ぎ立てては計画が狂う。まずは泳がせる。油断させ、彼女が「やはり夫はチョロい」と思い込んだところで、逃げ場のない檻に追い込む必要がある。
「えー、考えてくれるの? ありがとう! 健人大好き!」
玲奈は俺の頬にキスをして、上機嫌で寝室へと戻っていった。
「大好き」という言葉が、これほど空虚で汚らわしい響きを持つことを、俺は初めて知った。
パタン、と寝室のドアが閉まる。
再び訪れた静寂の中で、俺はスマホを取り出し、一件の連絡先を表示させた。
大学時代の同期で、今は都内の法律事務所で働いている友人、高村だ。彼なら、この手の事案に詳しいはずだ。
メッセージアプリを開き、短く打ち込む。
『夜分に悪い。至急、相談したいことがある。妻の不貞と、多額の借金についてだ。法的に徹底的にやりたい』
送信ボタンを押すと同時に、俺の中で「夫」としての佐伯健人は死んだ。
これからは、敵対的買収を仕掛けてくる相手に対し、資産と尊厳を守るために戦う「債権者」としての佐伯健人が動き出す。
俺は再びPCに向き合い、先ほど保存した証拠データの整理を再開した。
フォルダの名前を『離婚訴訟用資料』とリネームする。
画面の中では、まだ玲奈と間男が間抜けな笑顔を浮かべている。
笑っていられるのも今のうちだ。
お前たちが遊びで作ったその借金、一円たりとも俺が払うと思うなよ。
共同名義という曖昧な殻に守られていると思っているなら、大間違いだ。その殻を一枚ずつ剥がし、寒空の下に放り出してやる。
俺の指先が、怒りと決意を込めてエンターキーを叩いた。
カターン、という乾いた音が、宣戦布告の号砲のように部屋に響いた。
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