エンジェル・ハイ・ロゥ
@kobemi
エンジェル・ハイ・ロゥ
死んだときに、一番最後に残るのは聴覚だと何かで読んだことがある。
揺りかごみたいな緩やかな流れが耳朶を打ってはひき返して行くのを感じながら、ああこれのことを言っていたんだって、私はそう思っていた。
つまりは段々と、人は死に向かっていくうち、赤ん坊の頃に巻き戻されていくということ。退化していく。できることも、持っていたものも、それらの一切合切を諦めざるを得なくなっていく。
やがては意識までもが、その凪のうちに呑まれていくかのようだった。
それから、どれくらいの時間が経ったのか分からない。数える根気なんてなかった。早いところ、すべてを手放してしまいたかった。それだというのに、どこからか波紋が伝わってきては、あと少しで手の間からすり抜けていきそうな私の意識を目覚ましのアラームみたく、何度も何度も繰り返し、容赦なく呼び覚まそうとする。
そしてその震源は、だんだんとこちらに近づいてくるようだった。向こうからやってきた波の戻ってくるまでの間隔が、徐々に短くなっていくからそれで分かった。
ごつんと、衝撃。ここ最近で(といって体感的なものでしかないけれど)、物理的にも物語的にも、一番に動きのある展開だった。
「なに、しているの?」
まず声だけが聞こえた。少女のような、澄んだ声。木漏れ日が降り注いでいるみたいな眩さの集積のために、はっきりと顔や表情を捉えることはできない。それくらいに曖昧にしか認識できていないのに、どうしてか彼女の声やその表情には、どこか懐かしいものを感じた。
そもそも、目を開いたのはいつ振りのことだろう。
「わ……」
声を出そうと口を開くと、周りの水を思い切り飲んでしまった。そうか、声を出すのには呼吸をしなければならなくて、それをするのに今私の置かれているこの状況は、水に囲まれた環境というのは、あまりにもふさわしくないということを、今更ながら思い出した。
「おとと、大丈夫?」少女がこちらに向かって、細い手を差し伸べてくれた。彼女は私と違って、安全な場所にいるらしい。私は無我夢中で、彼女の手を掴んだ。
少女に引き揚げられた後、彼女が体を寄せて作ってくれたスペースに私は収まる。それは木材でできた小型のボートのようだった。
私から滴り落ちる雫が、ボートの床面に濃い染みを作っていく。重さを感じていた。それは、今の今まで忘れていたものだった。そうか、起きるっていうのは、これほどまでに億劫なものだったか。
「……もしかして、お邪魔だった?」少女は屈託なく笑ってみせて、私のことを覗き込むようにする。それはまるで、天使の微笑みのようだった。ああ、そうかって、私は独り納得する。
死んだとき、天使が連れて行ってくれるっていう説と、死神に首をはねられてそれで終わりっていう説とがあるけれど、私は運の良いことに前者だったということなんだろう。
こうして天使に持ち上げられて、その後は?
これから何が起ころうとしているのか、どこに連れて行ってもらえるのか、何一つ分からない。でも、とにかく今は、ただ寒くてそれだけが我慢ならなかった。
「それで、あなたは本当に何にも覚えていないっていうの?……例えば、どうして私のお屋敷の湖のど真ん中で、ぷかぷか浮いていたのか……とか」
ベッドの脇に腰掛けている少女―狭間(はざま)野(の)詩生(しせい)と名乗った―は、ベッドの枕に頭を預けている私の方をまじまじと観察しながら、そう切り出した。
「え、ええ。ごめんなさい……」細々とした声を絞り出しながら、私は応じる。これでもだいぶ落ち着いて、まともに会話できるようになった方だった。
ついさっきまで、といって二時間も経過していたそうだけれど、私は詩生のお屋敷に担ぎ込まれてからというもの、彼女の屋敷の一室のベッドに横たえられて、彼女に付きっきりの看病を受けていたそうだ。今もこうして、暖かな布団の上でぬくぬくとさせてもらっている。
見るからにひどく衰弱していた私に対して、詩生はすぐさま風呂に浸からせてくれたそうだ。
その時の記憶を、断片的ではあるけれど、回想することができた。どうせなら全部覚えていない方がすっきりするのにと思う半面、彼女が優しく私の手に触れて、息を吹きかけてくれたことを覚えていられたのは、まさしく不幸中の幸いと言えるだろう。
「じゃあ、名前はどうなの?」
「その、それもいまいち思い出せなくて……」俯きがちに、私はそう答える。ずきずきと頭が痛むぐらいに脳内に検索をかけてみても、何一つ引っかかるものはない。一番最後に覚えているのは、自分が水上で浮き沈みしていた時点からのことだった。あの湖の上に至るまでの道程については、何の手がかりも持ち合わせてはいないらしい。
「……あの、私たち、以前どこかでお会いしたことがありませんか?」なぜか一緒になって考え込んでくれていた詩生に対して、不意打ちのようになってしまうことを申し訳なく思いつつも、私はずっと気になっていたことを口にした。
湖上で助けてもらったときに思った漠然とした既視感は、今こうして間近で彼女のことを見ていても相も変わらず存在していて、むしろその確証性を増していくようですらあった。
「うーん、どうだったかしら?……ごめんなさいね、私も昔のことはあんまりよく覚えていないの」細い指を顎に当てて、首を傾げながら詩生はそう言った。あまりにも深刻さに欠けるその態度に、自分がどこの誰だか分からないっていうこの状況も、それほど大したことではないのではとすら思えてきてしまう。
「覚えていない?」
「ええ。でも大丈夫。あなたの記憶は、きっと元通りに戻るはずですよ」私を引き揚げてくれたあの時と同じ、屈託のない微笑みを湛えて、詩生はそう言った。それがまるで、患者を診断するお医者様のような口調だったので、私は思わず笑ってしまった。
すぐさまその笑いをもみ消そうとしたのだけれど、私と一緒に詩生も釣られたのか笑ってくれたので、その必要はないと判断した。そのままくつくつと、それでいて私とは対照的に上品な笑い方をしながら詩生は、「まぁとにかく、今はゆっくりとお休みになってください。次に起きた時には、外を散歩してみるのもいいかもしれませんね。何か思い出せるかも……。私も、あなたもね」とにこやかにそう言った。
「でも、そう長いことお世話になってしまうわけには……。すぐに出て行きますから」そう言って私が上体を起こそうとすると詩生は、「何を言っているの?出て行くと言ったって、あなた自分の帰るべきお家だって、分からないんじゃありません?」とこれまた上品に諭されてしまった。
「そ、それもそうでした」
「でしょう?今はお眠りになっていられたら、それでいいの」体を優しく押されて、私はベッドの上の元の位置に戻される。そのまま、詩生は私が眠るまで、ずっと頭を撫でていてくれた。なぜだかそんな愛おしい時間すら、初めてのことではないような気がしていた。
次に目が覚めたときには、もう詩生はいなくなっていた。
改めて部屋の内装を見回す。それは決してこの部屋のインテリアの値段はいかほどかとか、そういった卑しい考えからのことではなくて、私が眠ってしまってからどれくらいの時間が経ったのか、調べたかったからだった。
部屋のカーテンから差す外からの光は微弱で、おそらくはついさっきと同じく、曇り空のままのようだった。また、ベッドの上から確認した限りでは、周囲の壁や小物の置けるカウンターに、時計らしきものを見つけることは叶わなかった。
「あら、お目覚めになりました?」そうしてきょろきょろとしていたところに、ノックの音がして、返事をすると詩生が部屋に入ってきてそう言った。
「体調はどうです?」
「ええ。ひと眠りしたら、ずいぶんとよくなりました。……ただ、私は一体どれくらい眠っていたんでしょうか?」
「ああ、それだったら、あなたが身に着けていた腕時計があるんですよ。ついさっきも、それで私、あなたがここへやって来てからの時間を確認したんです」言いながら、詩生はぱたぱたと私の横たわっているベッドの方に近づいて来て、すぐそばの引き出しの中から、鈍色に光るそれを取り出した。
「あら、おかしいわね。これ止まってしまっているわ。ついさっきまでは、確かに動いていたはずなのに」手にしたそれを、振ったり揺すったりしながら、詩生は怪訝そうにして、私の方にそれを差し出す。
文字盤のあるタイプの見るからに高そうなもので、時刻は午後二時の辺りを指したまま、微動だにしていなかった。
「こうなると、あなたを助けてからの経過時間だって、いよいよ怪しくなってくるわね。私、読み違えていたのかもしれない」
「それは……どうなんでしょう?えと、これ以外にこのお屋敷に時計の類はないのですか?」
「ええ。残念ながらね」詩生はなんでもないことのように、にこりとして言う。全貌を見たわけではないにしてもこれだけ広そうなお屋敷の中で、時計が一つも存在していないなんてことが、果たしてあり得るのだろうか。少なくとも私には、時計のない生活というものが想像できなかった。
「ねぇ、そんなことよりも、体調がよろしいのであれば、少し外を歩いてみません?」ほんの少しの価値観と生活のずれを感じつつも、詩生のお誘いに対して、私は快くそれを受けることにした。
外は肌寒いだろうからと言って、詩生はストールだのセーターだの、色々なものを貸してくれた。おかげで汗ばむくらいの完全防寒の重装備でもこもこになった私とは真逆で、他人にはあれだけ口うるさく言っておきながら、かわいい雪の結晶の刺繍がデザインされたセーターだけのずいぶんと薄着な格好のままの詩生と私は、問題の湖に面したお屋敷の裏手側から外に出た。
湖はそのぐるりを沿うようにして木々が青々と立ち並んでいる。唯一の例外が、このお屋敷だった。そしてこの屋敷の方もまた、尖がった特徴的な屋根が緑色をしていたので、湖面は透明というよりはどことなく緑の混じったような色合いをしていた。
「それにしても、一体どうやって湖の真ん中まで行ったのでしょうね。……泳いだのかしら?それとも、誰かに連れていってもらったのかしら?」
「ああ、私、金槌なんですよ。ぷかぷか浮いていられたのだって、意識がなかったから逆にできたことで、水中にいるんだって気づいてしまってからはもう、とてもじゃないけれど、気が気じゃありませんでした」
「ふーん」湖面の方を見つめながら、詩生は静かにほくそ笑んだ。彼女の笑顔には見る人の気持ちを和ませる不思議な力があるように思う。あるいは、私と彼女の表情筋とが、そっくりそのまま連動するような機構が、目に見えないだけで実現しているのかもしれない。
「じゃあ、後者ってことになるわね」
「ええ。でも、自分でボートに乗って真ん中まで行って降りれば……。ああでもそれだと、ボートが私の隣に失くっちゃおかしいのか」
「そう。そうなのよ。そこがネックになっている」細長い指を虚空に突き立てて、詩生はまた自分の顎にそれを押し当てた。どうやらそれが彼女の考えるときのポーズらしい。なかなか様になっている。そのままこの瞬間を額縁に入れて、保管したいくらいだった。お金持ちそうだし、自画像とか描かせていたりするんだろうか。
「……そうだ」予兆もなしに、詩生がパンと両手を打った。
「え?何か思いついたんですか?」期待の眼差しを込めて、私は彼女の方を向く。
「ええ。たった今、思いつきました。セイっていうのはどうかしら?」
「せい?」私は唖然として首を傾げる。ついさっきまで問題に挙がっていたのは私が湖の真ん中で浮かんでいたその理由についてのはずだったのに。いまいち話の転換速度についていけなかった。
「あなたの名前よ。いつまでも名無しさんというわけにもいかないでしょう?私の詩生から取ったのよ。私よく、しーちゃんなんて呼ばれていたから」
「えと、じゃあ、漢字は?」
「晴れるでセイでも、生きるでセイでも、なんでもいいわ。正解が分からないのだから、とりあえずは漢字はなくてもいいんじゃない?」
詩生はそう言って、白い歯を覗かせてみせた。正解が分からないからなくてもいいというのなら、応急処置的なこのセイという名前だっていらないのでは?という疑問は、彼女の笑顔でものの見事に霧散してしまった。
湖ばかり見ていてもつまらないわねという詩生の一言で、私たちは屋敷の建つ山を降りて、街に繰り出すことにした。街まで降りれば、私の記憶も段々に蘇ってきて、帰るべき家も思い出せるかもしれないというのも、理由の一つではあった。
道なき道が続いた山道も、登山口のところまで来れば舗装された歩道へと姿を変えていた。森の始まりの辺りで、草木ががさがさと揺れる音がしたかと思うと、砂糖をまぶしたような白とグレーの色合いをした猫が、ひょいと飛び出してきて、二人して驚かされたりもした。
「私、この猫のこと知っているかもしれない」
「え?ほんとうに?」
「ええ。もしかしたら、この猫だけじゃないかも。この赤い屋根の家も、なんとなく見覚えのある気がする。確か……この隣に小児科か何かのクリニックがあったんじゃなかったかな」登山口からすぐの、ひしめき合うようにして軒を連ねている家々を眺めていて、なんとはなしに得たインスピレーションだった。
「街まで降りてきたのは正解だったみたいね。この分だとすぐにも、あなたの帰るべきお家だってきっと思い出せるわ」詩生がそう元気づけてくれる。
私の記憶通りに、赤い屋根の家の隣には、前面の一部がガラス張りのクリニックがあった。ガラスの奥は薄暗くて、今日は営業していないらしい。鼠色に近い水色をしたタイルの外壁は、どことなく寂れた印象を与えるものだった。
二人してその前を横切る。何か、引っかかるものがあった。ただそれは、記憶の断片に関するものではないようだった。あるべきはずのものがないといった類の、不自然さ。
「さ、行きましょ」詩生が手を伸ばしてきたので、それをなんの違和感も抱かずに、私はそれに手を伸ばした。
詩生は、ガラスに映っていなかった。
もちろん、私の見間違いという可能性だってある。だって今こうして、手の感触を確かめることができているのだから。
そう思うことにして、その時は特に言及せずで終えてしまった。
街並みにはやはりと言うべきか、見覚えのある建築物や風景がよく観察された。二車線道路沿いに続く、本屋、リサイクルショップ、バッティングセンター。それらは確かに見慣れたものであるはずなのに、ついさっきからの引っ掛かりは、以前として私の中にあって、むしろその困惑の度合いを、増していくようですらあった。
何より一番に気にかかってならなかったのは、普段ならひっきりなしに車や人々の往来が見られてしかるべきはずの大きなモールへと続く大通りに、人っ子一人見られなくて、異常なまでに静まりかえっていたことだった。
分厚い巨大な綿あめみたいな曇り空の下ということも手伝って、陰気で不気味な雰囲気が街全体を包み込むように漂っている。
「ねぇ、どうしてこんなに人がいないの?」私は思わずそれを訊ねていた。
「さあね。私がここに来てからずっとそうだから。もう慣れちゃったかな」詩生の返答は相変わらず容量を得ない。彼女の言葉をそのままに受け取るならば、私より以前からここにいるはずの彼女には、この異常事態がいつもの日常ということなのだろう。
「せっかくここまで来たのよ。ショッピングでもしてから帰りましょうよ」詩生はこのひっそりとして人の気配の感じられない街の中で、彼女一人であるべきはずの賑やかさを補おうとしているかのように元気に振る舞ってみせていた。それは痛々しく思えたけれど、どうにか彼女なりに守ろうとしているこの世界の均衡を、私も守ってあげたいとも思えた。
「いいよ、行こう」手を繋いだ私たち二人は、てくてくと緩い歩調のまま、このあると言えるのだか言えないのだか曖昧な時間を踏みしめるようにして、モールへと足を向けた。
モールの中も、やはり自分たち以外の人影というものを見かけることはなかった。それだというのに、私たちが近づくと、従順に自動ドアは開かれて、室内の暖気が私たちを出迎えてくれた。
電気は生きている。モール内の照明も、スーパーの営業しているコーナーから流れる陽気なBGMも、それを楽しむ人々がいなくなったことに気づいていないみたいに普段通りにしていた。
詩生に連れられるがまま、私たちは洋服店へと足を運んだ。
「これなんてどうかしら?」フリルのこれでもかとふんだんについたスカートを翻して、詩生はくるくると試着室の中で回ってみせる。とてもかわいい。お人形にして、持って帰りたいと思った。どこに?という話だけれど。
煌びやかに浮かび上がる洋服たちを前にして、私は頭を悩ますばかりだった。こんなことをしている場合なのかなと焦る私と、どれを着ようかしらと呑気に考え込んでいる私とが半分ずつ混在していた。
「次、セイの番だからね」詩生はずっと陽気な調子を保ったままで、私のことを試着室に押し込むようにする。
適当に掴んだセーターとコートを携えたまま、私は個室の中へと踏み入った。
「楽しみにしてる」にこりとして詩生は、試着室のカーテンを閉め切ってしまう。
着替えてみせる他ないのだなと諦めて、私はいそいそと着替えを始めようとした。
そこで、はたと気づいた。鏡に映る自分の顔に見覚えがあったからだ。
これは、詩生?でも、どうしてこんなところに詩生がいるのだろう。ついさっき、詩生がカーテンを閉めるのを見たばかりのはずなのに。
「詩生?」カーテンの隙間から顔を出して、私は彼女の名を呼んだ。
「どうしたの?何か問題?」とことこと詩生が駆け寄ってくる。やはり、詩生は今、私の目の前に存在しているのだ。じゃあ、この鏡の中にいる詩生は一体誰なのか?
「え」試着室に入ってきた詩生は、大きな目を殊更に見開いていた。鏡の前には私と詩生の二人がいるはずなのに、鏡の中にいる詩生は一人だけ。その詩生もまた、憮然とした表情でいる。その腕には、私が選び取ったセーターとコートが携えられている。
やはり、鏡の中の詩生は私で間違いないのだ。
どうして詩生が二人いるんだろう……。私は思考のドツボにはまっていく自分を自覚していた。周囲のもののすべてが、ぐるぐると渦を巻いて、何もかもが巻き込まれていく。
急速に立ち上がり始める頭を意識した。あるいはそれは、記憶の再生。
詩生が二人いるのではない。詩(うた)と生(せい)とがいたのだ。
そんな大事なことを、私は今更のことで思い出した。
私たちは、森の中を歩いていた。
「大丈夫?ペースが速くはない?」詩生が優しく尋ねてくれる。正直言って、少し休憩をしたかった。でも、真相を確かめることの方が、今の私には最重要事項だった。そのためには、自分の体になんて構ってはいられない。
「いいよ。とにかく速く帰ろう」額に浮き出す汗を拭いながら、私はそう返す。対して詩生は、涼しい顔を保ったままだった。息だって上がっていない。やはりもう手遅れなのだろうか。そんな不吉な予感が頭をよぎって、私は否定したいその一心で、ぶるぶると首を振った。
やがて、湖が見え始めた。濃い色をした木材でできた短い桟橋には、縄でボートが括り付けられている。
「ねえ、何をそんなに急いでいるの?ずっとここにいたっていいじゃない」詩生は言う。
初めて見せる、必死で、真剣そのものの表情と声音だった。
「そんな訳にはいかないよ。もう帰らなくちゃ」
「帰るって言ったって、どこに?」詩生の問いかけに、私は湖の真ん中を指差してみせた。
「えぇ?」詩生は釈然としない様子で、眉をひそめてみせる。そんな彼女にはお構いなしに、私はいそいそとボートの縄を解く作業に取り掛かった。
「さあ、乗って」
「いや。いやだよ。わかんないよ、私、セイの言っていること、全然分かんない!」詩生が必死の抗議をするのにも構わず、私は彼女のことを抱き寄せるようにして、半ば強引にボートの上に乗せた。
オールを漕いで、湖の中心部へと向かって行く。一漕ぎするだけでも、かなりの労力を強いられた。この調子なら、中心部に辿り着くまでに、私の辿り着いた結論について話す時間も、十分にあるだろう。
「……私、思い出したよ。自分のこと、そして、狭間(はざま)野(の)詩(うた)のことも」
「うた?詩って一体誰のこと?」詩生は首を傾げている。きっとそれは、嘘ではないだろう。
「あなたのことだよ。お姉ちゃん」
詩生はまた、容量を得ないという顔をした。
当然のことと思う。でも、それが少なくとも私の記憶している事実だった。
「お姉ちゃんは、いや詩は、ずっとこのお屋敷での生活に窮屈してた。毎日のようにさ、早いところこんなところ出て行ってやるんだって言っていたよね。お父様たちに内緒でお屋敷を抜け出したりしたのも、一度や二度のことじゃない。もちろん私もそれについて行きたかったけど、私はいつも外の世界に行くのが怖くて、最後の最後で尻込みしてばっかりだった」
湖の中央が近づいてくる。核心の部分に触れないわけにもいかない時期が、近づいていた。
「お姉ちゃんが色々に準備をして、明日出て行ったら最後、もう二度と帰ってはこないって言ったあの日。あの日だったよね、お父様がお姉ちゃんの婚約を決めたのは。あまりにも突然で、何を言ってもお父様は一度決めたことを曲げることはないって分かっていたから、二人でずっと泣いていた」
「……びっくりだよね。タイミング悪すぎって感じ」苦笑いして詩生は、詩は、そう言った。
「でも一番びっくりさせられたのは、その後だよ。次の日の朝になって、一緒に泣き疲れて眠ったはずのお姉ちゃんがいなくなっていて、私たちは家族と使用人総出でお姉ちゃんのことを探し回ったんたんだ。そうして、見つけてしまったんだ、これを……」
ボートが中心に差し掛かろうという時、ごつんとオールに何かに当たった感触があった。
両手を水中に差し入れて、手探りにそれを掴む。薄いワンピ―スのようなものが、水に浸かって、半透明に浮き出た鎖骨の部分を露わにしていた。
それは、狭間野詩だったもの。透き通るように綺麗な顔をしている、お姉ちゃんその人だった。
「つらい?自分の死体を見るのは。でもね、私たちはもっと辛かったよ。お姉ちゃんが冷たくなっているのをみんなで必死に抱き上げて……。でもお医者様にはもうダメだって言われた。もって数日だって。私、もうどうしたらいいか分からなくなって。あの時、何か私に、できることはあったんじゃないかってずっと、ずっずっと苦しくって……」
「ごめんね……ごめんね、生。私が馬鹿だった。……でもね、これだけは分かってほしい。私は生きたくってここで死んだけれど、あなたは違うでしょう?あなたはただ私に会いたいばっかりに、こんな馬鹿なことをしでかした。早く帰りなさい。みんな待っているわ」
詩は泣きじゃくる私のことを、生きていた頃みたいに優しく抱きしめてくれた。双子っていうのは魂を共有していて、それを半分こに分け合って生まれてくるんだって、お母様はよくそう言っていた。
真偽のほどは分からないけれど、それがもし本当なら、私と詩とがこうしてもう一度会えたのは、きっと、分裂した魂同士が一つに戻りたがったからじゃないだろうか。そう思った。
「ねえ、お姉ちゃん。お姉ちゃんも一緒に戻ろう!きっとまだやり直せるから!きっと……」
「いいの……。私はもう疲れたから。ここでの生活も、もうじき終わりってことも、今あなたに教えてもらえたしね。悪くなかったよ。ここ数日、こうして自由気ままに過ごせていたのは、神様のくれたかけがえのない奇跡の時間だったんだって、そう思うから」詩は泣きそうな、それでいて慈悲の詰まったひどく満足そうな笑みを湛えて、そう言った。
そして、私のことを湖の方へと追いやろうとする。私はお姉ちゃんのこともどうしても連れて行きたくて、必死に彼女に縋りつく。
バランスを崩したボートは、そのままひっくり返った。二人は水中に沈んで、段々に意識も魂までもが、水底へと帰っていく。
元居た場所へと、あるべきところへと、還っていく。
十二月某日。
令嬢・狭間野詩さんが、狭間野鄭のほとりの湖にて、事故死する事件が発生した。
それに続いて、わずか二日後にも、詩さんの双子の妹である狭間野生さんが、同じく湖で事故死未遂を起こしてしまう事件が発生した。
狭間野生さんは幸い一命を取り留めたものの、遺された家族の悲痛の度合いは、図り制れないものであった。
エンジェル・ハイ・ロゥ @kobemi
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