トゥルース・コード Season2

kirigasa

【残響のアリバイ】 第一章「音のない刃」

 接見室の扉は、閉まるたびに短い金属音を残した。乾いた音だった。古い蝶番が、最後に空気を擦るような、ほんのわずかな余韻を引きずる。高城陽菜はその音を背中で聞き、椅子に腰を下ろした。


 向かいに座る男は、肩をすぼめるようにして俯いていた。両手は膝の上に置かれ、指先がわずかに震えている。宅配ドライバー――佐伯恒一。三十代半ば。前科が一つ。資料の写真で見た顔より、実物は疲れて見えた。目の下に溜まった影が、寝不足なのか、それとも諦めの色なのか、判別がつかない。


「佐伯さん。今日は体調、いかがですか」


 陽菜は、いつもと同じ調子で切り出した。声を低く、柔らかく。相手の緊張を刺激しない高さで。


「……まあ。ここじゃ、良いも悪いもないですけど」


 自嘲気味な笑みが一瞬、口元に浮かんだ。すぐに消える。


 陽菜はメモを開かなかった。最初の数分は、紙に視線を落とさない。目の前の人間を、ただ見る。それが、御堂慎一から教わったやり方だった。


「事件の話に入る前に、一つだけ確認します。無理に話さなくていいことは、話さなくて大丈夫です。分からないことは、分からないと答えてください」


「……はい」


「“疑われている”ことと、“やった”ことは、違います」


 佐伯の視線が、ゆっくりと上がった。驚きというより、拍子抜けに近い表情だった。


「でも……もう、決まってるんでしょう」


「何が、ですか」


「俺がやったって。声が残ってるって」


 “声”。その言葉を口にした瞬間、佐伯の肩がわずかに落ちた。まるで、そこが最後の支えだったかのように。


「声で、分かるんです。店員さんが……この声だって」


 陽菜は頷いた。否定もしない。肯定もしない。ただ、事実として受け止める。


「それを、どう聞きましたか」


「刑事さんから。録音があるって。通報の……」


「通報音声ですね」


「はい。俺、前にも問題起こしてるし。どうせ……」


 言葉が途切れた。佐伯は視線を落とし、床を見つめた。床材の継ぎ目に沿って、細かな傷が走っている。何度も磨かれ、何度も踏まれてきた跡だ。


 陽菜は、そこで初めてメモを取った。短く、要点だけを。ペン先が紙を擦る音が、接見室に小さく響く。


「佐伯さん。声で“特定された”と聞いたとき、何を感じましたか」


 少し考える間があった。天井の換気が、一定の間隔で唸った。止まらない音ほど、人を追い詰める。


「……もう、終わりだなって」


「怖さ、ですか」


「それもあります。でも……納得、しちゃったんです。ああ、そうかって」


 陽菜はペンを止めた。


「納得?」


「声って……隠せないじゃないですか。顔はマスクでどうにでもなる。でも声は……」


 佐伯は、そこで言葉を切った。自分でも言い過ぎたと思ったのか、口を結んだ。


「分かりました」


 陽菜は、それ以上踏み込まなかった。ここで押せば、佐伯は殻に戻る。


 廊下に出ると、空気が変わった。接見室特有の、閉じた匂いが薄れ、消毒液の残り香が鼻をかすめる。靴音が、規則正しく響いた。


 数歩先で、里見悠斗が立っていた。壁に背を預け、手元のタブレットを見ている。年の割に落ち着いた雰囲気だが、今日は様子が違った。画面に落ちる影が、わずかに揺れている。


「どうだった」


 陽菜が声をかけると、里見は顔を上げた。口を開きかけ、閉じる。その間が、不自然に長い。


「……通報の録音、閲覧室で、指定された箇所を“要旨だけ”聞きました」


「要旨だけ?」


「はい。問題のところだけ。全部は、まだ」


 里見は、タブレットを抱え直した。指が縁を強く押している。


「顔色、悪いわよ」


「……音が」


「音?」


「……いや。まだ、何でもないです」


 里見は首を振った。自分に言い聞かせるように。


 陽菜は、それ以上聞かなかった。廊下の向こうで、別の扉が閉まる音がした。反響が一瞬、跳ね返って消える。


「御堂先生がいない」


 陽菜は、ぽつりと言った。


 里見が視線を向ける。


「今回、先生は……」


「分かってる」


 陽菜は歩き出した。足取りは迷っていない。


「だから、私がやる」


 その言葉に、決意めいた響きが混じっていることを、本人だけが自覚していなかった。


 事務所に戻ると、夜野凜が既に座っていた。モニターには、音声ファイルのプロパティ画面が表示されている。無機質な数字の列が、整然と並んでいた。


「入手経路、確認できました」


 夜野は淡々と言った。


「捜査書類の定型句はいつも同じ——“原記録の写し(提出用コピー)”。でも説明の場面になると、それがいつの間にか“原本みたいな扱い”に滑っていく。――言葉が滑ると、証拠も滑ります」


「原本相当、ね」


 陽菜は椅子に腰を下ろした。


「メタデータは?」


「最低限。録音日時、形式。編集履歴は見えません。少なくとも、表面上は」


 夜野の言い方は、断定を避けていた。いつも通りだ。


 槇村聡はまだ来ていない。秋津修平、香坂怜もだ。集まるのは明日以降になるだろう。そう思った矢先、里見が小さく息を吸った。


「……すみません」


 全員の視線が、里見に集まる。


「さっきの音声……」


 里見は言葉を探しているようだった。指先が、無意識に机を叩く。乾いた、短い音。


「何か、引っかかる?」


 陽菜が促す。


「……嘘をついてる感じがします」


 誰も言葉を継がなかった。モニターの冷却ファンだけが、勝手に仕事を続けている。


「音が、です。どこが、とは言えません」


 里見は一度、言葉を切った。


「でも……同じ空気で、鳴ってない」


 顔を上げる。


「さっきの人の声は、ここにありました。

通報の声は……少し、遠い」


 夜野は眉をわずかに動かしただけだった。否定もしない。


 陽菜は、すぐに問い詰めなかった。代わりに、静かに言った。


「分からないなら、それでいい。教えて。気持ち悪い場所」


 里見は、小さく頷いた。


 陽菜は立ち上がり、窓の外を見た。夕方の光が、ビルの隙間から差し込んでいる。遠くで、車のクラクションが鳴った。反響が重なり、聞き取りにくい。


「音が嘘をついてるなら」


 陽菜は、ゆっくりと言った。


「私たちが、正直にさせればいい」


 誰も答えなかった。だが、その場の空気が、確かに変わった。


 里見は、もう一度だけ、タブレットの画面を見た。波形は、静かに横たわっている。整いすぎた静けさ。その奥に、まだ名前のつかない違和感が潜んでいた。


 第一歩は、確かに踏み出された。

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