第3話 埃一粒の死闘とはじめての撃退ですわ

 わたくしは、自分の鼻先をふよふよと浮いている、一粒の大きなゴミをじっと見つめました。


 これを、掴む。


 ただそれだけのことが、今のわたくしには、前世で満員電車をかき分けて終電に飛び込むのと同じくらい……いえ、それ以上に難しい「命がけの仕事」なのですわ。


 腕を、上げる。


(……ぐ、ぬぬぬぬ……ッ!)


 重い。あまりにも重いですわ!

 自分の体なのに、濡れた重い布団を無理やり持ち上げているような感覚。

 この「肉の塊」は、わたくしの意志なんてこれっぽっちも聞いてくれませんのね。


【見習いモンク】の力で、自分の「肉」がどこにあるかは分かります。

 でも、筋肉そのものが増えるわけではございませんの。

 むしろ、頭が「一番いい力の入れかた」を知ってしまったせいで、自分の赤ん坊としての力のなさに、ただただ、絶望するばかりです。


 ぷるぷると震える、お餅みたいな腕を、なんとか空間へと突き出します。

 不思議な感覚でゴミの動きを読み、そこに【見習いシーフ】の「器用さ」を一点に集中させて――。


 スカッ。


(…………。あらあら、まあまあ。空気が読めないゴミですわね)


 わたくしの指先は、ゴミの数センチ横を虚しく空振りました。

 あぁ、もう! イライラいたしますわ!


 はぁ、はぁ、とはげしく肩で息をします。

 たった一回、腕を伸ばしただけで、心臓が太鼓を叩き鳴らしているかのようにバクバクといっておりますわ。

 これが赤ん坊のスタミナ……。

 前世の、あの運動不足でぶよぶよだった時代の方が、まだ、億倍はマシでしたわね。


(……いえ、諦めませんわよ。サクサク進む未来のためには、ここで投げ出すわけにはいきませんもの)


 わたくしは、今度は【見習い魔導士】の力を意識しました。

 本来なら、魔法とは呪文を唱えたり、かっこいい陣を描いたりするものなのでしょうけれど。

 今のわたくしにそんな派手なことは、逆立ちしたって不可能です。


 わたくしができるのは、体の中にある魔力の溜まり場から、細い、細ーい糸のような力を一本、指先にまで手繰り寄せることだけ。


(熱い……、ですわ……っ!)


 指先が、じりじりと焼けるように熱くなります。

 通り道がまだできていないから、無理やり通すだけで摩擦で火が出るような痛みが走るのです。

 痛い、痛いですわ……でも、ここで止めちゃダメ……!


 わたくしは、その熱を「根性」だけでねじ伏せました。


(わたくしの指先よ……。ほんの少しだけでいいから、空気を、動かしなさい……!)


 ピリリ。


 静電気のような小さな火花が、脳内で弾けた気がいたしました。

 指先の先の空気が、ほんの、ほんの数ミリだけ、ぷるんと震える。


 その微かな風に押されて、ゴミがふわりと進む方向を変えました。


「今ですわっ!」


 バシッ!


「……あぶっ、ふーっ!」


 ……や、やりましたわ!

 わたくしの小さな掌の中に、確かに「獲物」を捉えました。

 握り込んだ手を開けば、そこには潰れた一塊のゴミ。


【条件達成:初めて魔力で物に触れることに成功しました】


【経験値を手に入れました】


「……ぜぇ、はぁ。……たったこれだけで、意識が遠のきそうですわ。オホホホ……」


 声はやっぱり、情けない「ふごふご」という音になって漏れましたが。

 ですが、この一歩は大きいですわ。

 何もしなければ、わたくしはただの「売られるのを待つ家畜」として、誰かの胃袋に収まる運命だったのですから。


「……さて。次は……喉をなんとかしなくては」


 先ほどから、喉の奥が乾燥してヒリヒリいたします。

 わたくしは【見習い聖職者】の力を呼び出しました。


(癒やしなさい……。冷たい水みたいに、わたくしの喉を潤して……!)


 ボォ……。


 胸のあたりが微かに温かくなります。

 ですが、それだけ。

 喉の痛みは、一向に引きません。


(……あら? まったく仕事をしてくれませんのね? 聖職者様、サボりですか?)


【解説:レベル1の治癒力は、勝手に治るのを『ほんの少し』助ける程度のものです】


(ほんの少し。……そうですわね、見習いですものね。お祈りのポーズすらまともにできない赤ん坊に、奇跡を期待したわたくしが馬鹿でしたわ。時間のムダでしたわね)


 結局、わたくしは自分の唾液を飲み込むことで、自力で喉を潤すしかありませんでした。

 情けない。実に、情けないですわ。


 そんな、地道すぎる特訓を続けていた、ある日の午後のことです。


 ギィィィ……。


 この屋敷の住人特有の、扉を大切に扱わない嫌な音が響きました。


「ねえ、エリアナ。またお母様に怒られちゃった」


「マリアベル、そんなの気にしなくていいわよ。……あ、見て。あの『予備』、また目を開けてるわよ」


 入ってきたのは、ピンク色の、ひらひらが多すぎて安っぽく見えるドレスを着た双子。

 エリアナとマリアベルですわね。

 六歳。前世ならピカピカの一年生。

 彼女たちの関心は「自分より弱いものをいじめること」にしかないようです。

 無邪気な悪意ほど、鼻につくものはないですわ。


 わたくしは、反射的に死んだふり――いえ、【見習いシーフ】の「隠れる力」を意識しました。


(スッ……ですわよ、セレス。わたくしは、ただの、古びた、ぬいぐるみの、綿……。無機物……。石っころ……)


 ですが、力はまだレベル一。

 しかも、わたくしの脳内が「このプランクトン共をどうしてくれようかしら!」という怒りで燃え盛っているせいで、嫌な気配が隠しきれません。


「……なによ、このガキ。なんだか、こっちを睨んでるみたいで気持ち悪いわね」


 エリアナが、わたくしの寝床を覗き込んできました。

 その顔には、性格の悪さが透けて見えるような、嫌な笑みが浮かんでいます。


「ねえ、エリアナ。この子のほっぺ、つねってみない? 赤ん坊って、泣き声がうるさいから嫌いだけど、痛がってる顔は面白いわよ」


「いいわね、それ。どうせ誰も見てないし。お母様には『勝手に転んで泣いた』って言えばいいもの」


 マリアベルが、わたくしの頬に向かって、汚い爪の生えた指を伸ばしてきました。


(させませんわよ。この、プランクトンの末裔がっ!)


 わたくしは、全身の力をかき集めました。

 一人でゴミを相手にしていた時とは比べ物にならない、生存本能に突き動かされた集中力です。


【見習いモンク】で心臓を無理やり動かして、エネルギーを絞り出す。

【見習い魔導士】でそれを「衝撃」へと変える。

【見習いシーフ】で、指先が触れる瞬間を、じっと、見極める。


(……今ですわっ!)


 バチィッ!


「……あいたっ!? な、なによ!?」


 マリアベルが、驚いたように手を引っ込めました。


 わたくしが放ったのは、魔法と呼ぶにはおこがましい、魔力による「静電気」程度のビリビリ。

 ですが、油断していた指先には、それなりの痛みが走ったはずですわ。

 ざまぁ……いえ、当然の報いですわね!


「今、なんかパチってしたわよ! 痛いっ!」


「なによそれ。……あ、わかったわ! このガキ、服の中に針でも隠してるんじゃないの?」


「まさか。……きゃっ! なにこれ、この部屋、寒っ!」


 わたくしは、今度は【見習い聖職者】の力を逆流させました。

 本来は人を安らげるための「聖なる気配」を、わたくしの怨念――いえ、気高い怒りで歪ませ、「気味の悪い寒気」としてぶつけたのです。


(お……お帰り……あそばせ……ですわ……っ!)


 ふー、ふー、と意識が遠のきそうになります。

 力を使い果たし、赤ん坊の脳が「もう限界ですわ!」と悲鳴を上げています。


「な、なんなのよ! この部屋、やっぱりお母様の言う通り呪われてるわ!」


「もういいわよ、マリアベル! 早く行きましょ!」


 二人は、わたくしに触れることもできず、バタバタと騒がしく部屋を逃げ出していきました。


 静寂が戻った屋根裏部屋。


(…………。……勝った、ですわ……)


 わたくしは、ぐったりと汚れたシーツに身を沈めました。

 指先は痺れ、頭は大きなハンマーで殴られたようにガンガンと痛みます。


【条件達成:実戦でいくつもの力を同時に使いました】


【レベルが上がりました】

【スロット1:見習いモンク(Common)Lv.1→Lv.2】(↑UP)

【スロット2:見習い魔導士(Common)Lv.1→Lv.2】(↑UP)

【スロット3:見習いシーフ(Common)Lv.1→Lv.2】(↑UP)


【警告:限界です。強制的に眠りにつきます】


(あらあら……。一回で……電池切れ、ですのね……。……オ、ホホ……)


 高笑いをする気力もなく、わたくしの意識はぷつりと途切れました。


 深い、深い、眠り。


 ***


 次に目を覚ました時。

 窓の外は、月明かりが差し込む夜になっていました。


(……あら?)


 不思議な感覚でした。

 あれほど激しく痛んでいた頭が、今は驚くほどスッキリしています。

 それどころか、指先の一つ一つまで、自分の意志が「昨日よりも、ほんの少しだけ早く」伝わっているような。


(……ふふ。なるほど。限界まで使い果たして、眠る。それが一番、手っ取り早い成長……というわけですわね)


 わたくしは、暗闇の中で、自分の小さな手をグーパーと動かしました。

 まだ、ゴミ一粒を掴むのにも苦労する、頼りない手。

 けれど、この手は確かに、自分を守るための力を使い始めました。


(ゴミを片付ける日は、まだ遠いですわ。けれど、一歩ずつ。ゴミが山になる前に、わたくし自身が最高に強い力を持って、全部ひっくり返して差し上げますわよ)


 わたくしは、空腹で鳴り響くお腹を【聖職者】の力でなんとなくなだめながら、次なる修行を考えました。


(一歳まであと少し。目標は……そう、ですわね。まずは『寝返り』。この、わたくしを閉じ込める箱を、わたくしの意志で揺らして差し上げますわ!)


 夜の屋根裏部屋に、微かな、本当に微かな光が灯りました。

 それは、いつか世界を照らす光。

 けれど今はまだ、マッチの火よりも小さな、けれど決して消えない執念の灯火です。

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没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活 TAC @tac_tac

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