没落令嬢セレスティーナ様の冒険者生活

TAC

第1話 泥船に生まれたダイヤモンドですわ

「……ギィ、……ギィ……」


 暗闇の中で、耳障りな音が反復している。


 わたくしの意識を覚醒させたのは、安物の木材が悲鳴を上げるような、湿った軋み音でした。


(あらあら、まあまあ……。わたくしの安眠を妨げるのはどこのどなたかしら? 叩き潰して差し上げたいのだけれど……)


 身体を動かそうとして、わたくしは自分の異変に気付く。

 自由が利かない。

 重い。

 とにかく、この身に纏っている肉の塊が、言うことを聞いてくれないのですわ。


 まるで、出来損なしのぶよぶよとしたお餅に閉じ込められたような、言いようのない不快感。

 視点を下に向ければ、そこには自分のものとは思えない、短くて丸っこい「おてて」がありました。


(……そうでしたわ。わたくし、生まれ変わったのでしたわね。この、不便極まりない生き物に)


 そうですの。わたくし、セレスティーナ・フォン・ヴァレンティーヌ。

 現在、推定生後数ヶ月。

 たった今、前世の記憶というやつが、老朽化したダムが決壊したみたいに頭の中にドバドバ流れ込んできましたの。


 前世のわたくしは、日本という国で、それはもう、ひたすら「真面目」だけを武器に生きてきた会社員でした。

 無駄な会議、顔色を窺う根回し、終わりの見えないサービス残業。

 平穏な暮らしを守るために、心を無にして数字と戦っていた、どこにでもいる現代日本人。

 それがどうして、こんな湿っぽくて、鼻の奥がツンとするカビの匂いが充満した木箱――いえ、ゆりかごの中で芋虫みたいに転がっているのかしら。


(……ここ、どこかしら。なんでこんなに寒いの? 暖房は? 窓、閉まってないんじゃないかしら)


 重い目蓋を無理やり押し上げる。

 視界に飛び込んできたのは、埃が雪のように積まった天蓋と、巨大な蜘蛛の巣がゆらゆらと揺れる、絶望的に高い天井でした。


 まず、視界に飛び込んできたのは、煤けた天井ですわ。


 雨漏りのシミが醜く広がり、蜘蛛の巣が揺れている。

 次に、全身を包む感触。これが最悪でしたわ。

 ゴワゴワとしていて、通気性も劣悪。

 わたくしのデリケートな肌……。わたくしの柔肌を、この粗悪な布地は物理的に攻撃してくる。

 ……これは、明確な「敵」ですわ。


 剥げ散らかして無残に垂れ下がった壁紙。

 天井の角で、大家さん気取りでどっしり構えている大蜘蛛。

 窓から差し込む斜めの光には、これでもかってくらい大量の埃が、キラキラと……いえ、どんよりと舞っています。


 この部屋、控えめに言って「ゴミ溜め」ですわ。


 これが貴族の屋敷?

 冗談は顔だけにしてほしいものですわ。

 前世の、あの狭くて壁の薄い、隣のくしゃみが丸聞こえなワンルームマンションの方が、百倍はマシでしたわよ。

 少なくとも、あそこには毛羽立ちのない清潔なシーツと、レンジで温めるだけの、添加物まみれだけど温かいお弁当がありましたもの。


 わたくしは、自分の手を視界に入れてみました。

 真っ白で、むちむちしていて、まるで茹で上がる前のお餅みたいな塊。


「むに……ぎゅ、い……」


 動かない。

 指一本、第一関節を曲げるだけで、ジムで百キロのバーベルを上げているような労力が要るんですの。

 自分の体なのに、他人の脱ぎ捨てた、汗臭い着ぐるみを無理やり着せられているみたい。

 何なんですの、赤ん坊って。

 初期の性能が低すぎて、イライラを通り越して脳細胞が沸騰しそうですわ。


「オギャァ……」


 試しに声を出してみれば、出たのは知性のかけらもない産声でした。


 情けない。実に嘆かわしい。

 淑女たるもの、叫ぶ時は高笑いと決まっておりますのに。

「オーッホッホ!」と高らかに宣言したいのに、喉の奥からせり上がってくるのは、ただの無機質な泣き声だけ。


 わたくしは深く、深ーく溜息をついた。

 ……つもりだったけれど、実際には「ぷしゅー」という間の抜けた鼻息が漏れただけでした。


 ここは……どこかしら。

 少なくとも、衛生管理の行き届いた近代的な病院ではないようですわね。

 隙間風の吹く、埃っぽい部屋。

 あぁ、前世で住んでいた家賃三万円の、あのボロアパートの方が、まだ住居としての格がありましたわよ。


 その時でした。

 ギシギシと悲鳴を上げる床板を通り越し、階下の方から耳を汚すような男女の声が響いてきたのです。


「……っだから! あの宝石を売ればいいと言っているだろうが! 男爵家の借金の利息だけで、この『ラスティ・ローズ』の税収が消えるんだぞ!」


 それは、男の声。

 酒に焼けてガラガラになった、無能の響きを湛えた声。


 男爵家。借金。……ラスティ・ローズ?

 断片的な情報が、わたくしの脳内で音を立てて結びついていきますわ。

 どうやらわたくしは、この「男爵家」という名の、底に穴が開いた泥船に乗せられてしまったようですわね。


 続いて、ヒステリックな女の絶叫。


「黙りなさいよ! あれは私の実家から持ってきた宝石よ! それより、その屋根裏に放り込んだ赤ん坊をどうするつもり!? あの女の不浄な子でも、高く売れるはずでしょ。傷がつかないうちに、どこかへ押し込みなさい!」


 ……あらあら、まあまあ。

 生まれて間もないというのに、わたくしの価値を「売却額」として査定してくださるとは。

 前世の、あの鼻持ちならないブラック企業の社長ですら、もう少し福利厚生の話をしたり、入社式で「君たちは家族だ」などと、白々しい嘘を吐くふりくらいはしていましたわよ。


(……売る? わたくしを? なにその、ろくでもない商売。わたくしという優良な種を、売ろうだなんて許せませんわね!)


 思わず毒づこうとしましたが、出たのは「あぅ」という情けない吐息だけ。

 ですが、わたくしの心は急速に冷えていきました。


 絶望?

 いいえ、とんでもない。

 わたくしが抱いたのは、猛烈な怒りです。


 このまま行けば、わたくしが物心つく頃には、どこかの成金か、あるいは趣味の悪い老貴族に「借金の形」として売り払われるのが関の山。

 虐げられながら育ち、適齢期に金豚のような貴族に売られる?

 わたくしの美貌と人生をドブに捨てるような真似、矜持が許しませんわ。


(……ふぅ。深呼吸、深呼吸ですわ)


 わたくしは、肺を一杯に膨らませました。

 この汚い空気を吸い込むのは癪ですが、呼吸もまた、代謝を司る重要な「工程」です。

 そして、呼吸を整えると同時に、わたくしは意識を内側へと向けました。


 魂の深淵。

 そこに眠る、わたくしだけの力を。


「……うー、あー」


 わたくしは全力で、思うように動かない右手を上に伸ばしました。

 五本の短すぎる指が、カビ臭い空気を掴む。


(神よ。わたくしの唯一なる光。……この絶望を塗り替える、あの輝きをお見せくださいまし)


 わたくしは瞳を閉じ、脳内に「それ」を召喚しました。


 前世。死の間際に見た、まばゆい光の奔流。

 それは一般的な宗教が説くような慈悲深い神様などではない。

 もっと合理的で、もっと残酷で、そしてもっと「射幸心」を煽る、究極の仕組み。


 視界が暗転し、脳裏に巨大な「祭壇」が浮かび上がる。

 それは、荘厳な装飾が施された、巨大な黄金の筐体でした。

 五つのリールが並び、それぞれが未知の可能性を秘めて静止している。


 これこそが、わたくしが授かった特権能力。

 マルチジョブ・システム『五位一体クインテット・スロット』。


(さあ、回しなさい。わたくしの運命を、わたくしの未来を、わたくしに力を! 回らなければ、始まらないんですのよ!)


 わたくしは精神の指先で、重厚なレバーを叩きました。

 ドクン、と心臓が跳ねる。


 ――シュパパパパパンッ!!


 脳内に響き渡る、軽快で、暴力的なまでに高揚感を煽る電子音。

 五つのリールが、目にも止まらぬ速さで回転を始める。

 光の奔流が、わたくしの意識を白く染め上げる。


(あら、いいですわ。この輝き……。最高に期待値が高まっておりますわね!)


 一列目。

 止まったのは、緑のオーラを纏った「拳」のアイコン。


【見習いモンク】


(素晴らしい。まずはこれですわ。新陳代謝を極限まで高め、体内の澱みを排出。陶器のような美肌を維持するためには、この身体強化が不可欠。美容は一日にして成らず、ですわ!)


 二列目。

 止まったのは、杖のアイコン。


【見習い魔導士】


(……あら、あらあら。 魔法があるんですの? オホホ! 幸先がいいですわね。将来、偉大なる魔法使いとなる第一歩ですわ)


 三列目、四列目、五列目。


【見習いシーフ】


【見習い聖職者】


【見習い薬師】


 全てが、基本となる初期段階の職業。

 だが、それでいい。

 今のわたくしの身体は、まだミルクを飲むことしかできない無力な赤ん坊。

 ハイスペックな上位の力を与えられたところで、器である肉体が爆発してしまいますわ。


(……ふふ、それでは、さっそくセットしてみましょう。 【見習いモンク】!)


 ガシャンッ!


【スロット1:見習いモンク(Common)Lv.1 をセットしました】


 さあ、来なさい!

 全身に熱い気がみなぎって、この忌々しいゆりかごをぶち壊して立ち上がる力が……!


「………………あら?」


 何も変わりませんわ。

 いえ、正確には、指先がほんの少しだけ、お風呂に入った直後みたいにジワ~ッとしたような、そんな気がする程度。


(……あ、あら? ハイスペックでないにしても、気が爆発して、立ち上がって自由に歩けるんじゃありませんの? 空を飛べるようになるんじゃありませんの?)


【解説:『見習いモンク』Lv.1の効果は『代謝の極微量な向上』です。今のあなたは、少しだけ血の巡りが良い赤ん坊です】


(血の巡りが良いだけですの!? そんなの、厚着すれば済む話では! 役に立たなすぎますわ!)


 期待したわたくしが馬鹿でしたわ。

 やっぱり、この世にそんな都合のいい魔法なんて……。

 でも、待ってください。

 わたくしは前世で、何度も「期待は裏切られるもの」と学んできました。

 大事なのは、与えられた手札でどう勝負するか。

 一つでダメなら、全部埋めて効率を五倍にすればいいだけですわ!


「あぶ……ぶーっ!(全部! 全部セットしてやりますわよ!)」


 わたくしはヤケクソ気味に、残りの枠を次々と埋めていきました。


【スロット2:見習い魔導士(Common)Lv.1】

【スロット3:見習いシーフ(Common)Lv.1】

【スロット4:見習い薬師(Common)Lv.1】

【スロット5:見習い聖職者(Common)Lv.1】


「――あ、う……ぅ」


 全身を、熱い衝撃が駆け抜ける。

 それは、ただの魔力ではない。

 五つの力の恩恵が、赤ん坊の脆弱な回路に無理やり流し込まれる感覚。

 喉の奥がヒリヒリして、焼けるような熱さが全身を巡ります。


 パキィィィィィィィンッ!!


 脳内で、ガラスが粉々に弾けるような音がした。


【五位一体クインテット・スロット:アクティブ】


【獲得経験値:五倍補正適用】


「……オホ、オホホホ……っ、ごふっ」


 笑おうとして、唾液が変なところに入りました。

 赤ん坊の体、本当に不便ですわね。

 そして、セットした瞬間に全身を襲う、酷い倦怠感と熱感。

 あらあら、まあまあ。

 たかがLv.1の見習い職を五つ同時稼働させるだけで、これほどの負荷がかかるとは。


 ですが、体内で、確実に「魔力」と「気」が細い糸のように循環し始めました。

【見習いモンク】のスキル『深呼吸』を発動。

 汚れた空気でも、肺を通る瞬間に僅かな魔力で濾過を試みる。

 ……あぁ、頭がくらくらいたしますわ。

 燃費が悪すぎます。ですが、この痛みこそが「力」へと変わる糧。


『カチッ……カチッ……』


 脳内で、針が落ちるような小さな音が聞こえ始めました。


 経験値が、滴り落ちる水滴のように蓄積されている音。


 通常の赤ん坊が、ただ泣いて、寝て、排泄するだけの無為な時間を過ごしている間に。


 わたくしは五つの職業を同時に、かつ五倍の速さで鍛え上げる。


 その時、バタンッ! と。

 建付けの悪い扉が、鼓膜を突き破るような暴力的な音を立てて開きました。


 入ってきたのは、派手なだけのドレスを着た女性と、酒の匂いをプンプンさせている無能そうな中年男性。

 わたくしの今世の「ご両親」――ザガン男爵と、義母のヒルダですわね。


「ふん、まだ生きていたのか。この忌々しい女の忘れ形見が」


「そう言うな、ヒルダ。こいつは死なせてはならん。あの女の娘だ。顔だけはいいからな。借金のカタに、6歳になれば変態貴族に売れる」


 二人はわたくしが言葉を理解していないと思い、ペチャクチャと「娘の売却価格」を話し合っています。

 わたくしは、精一杯の怒りを込めて、彼らを睨みつけました。


(この……身の程知らずの、腐れ外道が! わたくしを一体いくらだと思っているのよ!)


「……あら、ザガン様。見てください。このガキ、顔を真っ赤にして、いきんでいるわよ」


「ははは! 汚いな。布でも汚したか。おい、使用人を呼んでこい。商品に傷がついたら価値が下がる」


「……バ、ブゥッ……!」


 屈辱ですわ!

 渾身の威圧が、ただの「排便の気張り」にしか見えなかったなんて!

 わたくしの矜持が、音を立てて削り取られていくのを感じます。


 二人が笑いながら部屋を出ていく中、わたくしは絶望的な静寂に取り残されました。

 指先はわずかに温かいだけ。

 魔法は指先を少し熱くするだけ。

 聖なる光は、暗闇を照らすこともできない。


「……あらあら、まあまあ。面白いじゃありませんの」


 わたくしは、湿ったシーツを握りしめようとして、指がうまく動かないことに気づきました。


「今のわたくしは、確かに無力。ただの塵かもしれませんわ。けれど、塵は塵でも、世界を焼き尽くす核となる塵ですわよ?」


 効率が悪い? 結構です。

 レベル1が微弱? 望むところですわ。

 ならば、千回、一万回と魔力を回し続ければいいだけのこと。

 前世の、あの過酷な労働環境で培った「地道な忍耐」の恐ろしさ、見せて差し上げますわ!


「……さあ、鍛錬の時間です。……一秒も、無駄には……」


 脳内で、僅かな魔力を練り始めます。

【見習いモンク】と【見習い聖職者】の力が、おくるみで荒れかけた皮膚を内側から、ほんの、ほんの僅かだけ「修復」していく。

 あぁ、眠気が……。

 赤ん坊の肉体、やはり最大稼働時間は数分が限界のようですわね。


 わたくしは、抗いがたい眠気の中で瞼を閉じました。

 眠りもまた、肉体を成長させる重要な工程。

 意識の表層では、常に五つのスロットが、今はまだ弱々しい光ながらも、回転し続けています。


 0歳児、セレスティーナ。

 泥船屋敷の屋根裏から始まる、孤独で強欲な伝説が、今ここに幕を開けました。

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