第4話「月夜の救済、運命のフェロモン」

 意識が途切れる寸前、橘蓮の腕がさらに強く僕を抱きしめたのを、感じた。

 彼の体温が、熱に浮かされた僕の体に、じわりと伝わってくる。

 雪の森の香りに完全に包まれ、僕は抗うことをやめた。


 次に目が覚めた時、僕は見知らぬ部屋のベッドに寝かされていた。

 柔らかなシーツの感触。

 ふかふかの羽毛布団。

 窓の外は、すでに暗くなっている。

 ここは、どこだ。


『そうだ、僕は会社で……ヒートを……』


 思い出した瞬間、血の気が引いた。

 僕は体を起こそうとしたが、全身に力が入らない。

 ヒート特有の気だるさと熱っぽさが、まだ体に残っている。


「目が覚めたか」


 静かな声に、びくりと肩が揺れた。

 声がした方を見ると、ベッドサイドの椅子に、橘蓮が腰掛けていた。

 彼はいつものスーツではなく、ラフなニット姿で、その手には一冊のハードカバーの本がある。

 まるで、ずっと僕が目覚めるのを待っていたかのような、落ち着いた佇まいだった。


「ここは……」


「私の自宅の、ゲストルームだ」


 橘蓮は本を閉じ、テーブルの上に置いた。


「会社で倒れた君を、ここまで運んできた。医者にも診せたが、過労とストレスによるものだそうだ。数日、安静にしていれば問題ない」


 医者、という言葉に心臓が凍りつく。


「お医者さんには……僕が、オメガだということも……」


「いや」


 橘蓮は、僕の不安を打ち消すように、静かに首を振った。


「私が呼んだのは、橘家の主治医だ。口は堅い。君の秘密が外部に漏れることはない」


 その言葉に、わずかに安堵の息を漏らす。

 だが、一番の問題はそこじゃない。

 この男に、僕がオメガだと知られてしまったことだ。


「……どうして、僕をここに」


「ヒートを起こしたオメガを、一人で放っておけるほど、私は薄情ではないんでね」


 彼はこともなげに言う。

 その表情からは、彼の本心がまったく読み取れない。


「それに、言っただろう。君は私の番だと」


「……人違いです」


 僕は、か細い声で否定した。


「僕は、あなたの番なんかじゃありません。それに、あなたのようなアルファと、僕のようなオメガでは……釣り合いが取れない」


「釣り合い?そんなものは、当事者同士が決めることだ。他人が口を出す問題じゃない」


 橘蓮は立ち上がると、ベッドのそばまでやってきた。

 そして、僕の額にそっと手を当てる。

 ひんやりとした大きな手が、熱っぽいうわ肌に、心地よかった。


「まだ少し、熱があるな。何か、口にできそうか?食欲がないなら、せめて水分だけでも摂った方がいい」


 彼の声は、驚くほど優しかった。

 会社で見せる、氷のような冷徹さのかけらもない。

 まるで、壊れ物を扱うかのような、丁寧な手つき。

 そのギャップに、僕は戸惑いを隠せない。


「……あの、会社には、何と」


「体調不良で早退したと伝えてある。高梨には、私から直接言っておいた。君の休職も、受理させる」


「え……」


「君は、あの会社に戻る必要はない」


 あまりに一方的な決定に、僕は言葉を失った。


「そんな、勝手な……!僕には、僕の生活があるんです。仕事を辞めたら、どうやって暮らしていけば……」


「その心配は無用だ」


 橘蓮は、僕の言葉を遮った。


「君の生活は、私が一生保証する。だから、もう何も心配せず、ただここで休んでいればいい」


 それは、甘い毒のような言葉だった。

 何もかもを投げ出して、この人に身を委ねてしまえたら、どれだけ楽だろう。

 でも、そんなことはできない。

 僕は、自分の力で生きていくと決めて、家を飛び出してきたんだ。

 誰かの庇護のもとで、安穏と暮らすなんて、まっぴらごめんだ。


「お断りします」


 僕は、きっぱりと言った。


「ご親切は、ありがたいです。でも、僕はあなたのお世話になるわけにはいきません。体調が戻り次第、ここから出ていきます」


 僕の拒絶の言葉を聞いても、橘蓮の表情は変わらなかった。

 彼はただ、静かに僕を見つめている。

 その黒い瞳の奥で、何かがゆらりと揺らめいた。


「……そうか」


 彼は、短くつぶやいた。


「君がそう言うのなら、無理強いはしない。だが、今夜一晩はここにいなさい。ヒートが完全に収まっていない状態で外に出るのは、危険すぎる」


 それは、命令ではなく、抗うことを許さない絶対的な響きを持っていた。

 僕には、頷くことしかできない。


 橘蓮は、部屋のテーブルに置いてあった盆を手に取った。

 そこには、事前に調べさせた君の好物である生姜のスープと、水の入ったグラスが乗っている。


「君のことは、事前に調べさせてもらった。差し出がましいとは思ったが……口に合うといいんだが」


「え……?」


 どうして、僕の好物を知っているんだろう。

 驚いて彼を見上げると、彼はかすかに笑みを浮かべたように、見えた。


「飲んだら、ゆっくり休むといい。何かあれば、ベッドサイドのボタンを押してくれ。すぐに来る」


 そう言って、橘蓮は静かに部屋を出ていった。

 一人残された部屋で、僕は呆然とする。

 あの橘蓮が、僕のためにスープを作ってくれた?

 信じられない思いで、スプーンを手に取る。

 一口のむと、生姜の温かい風味が、疲れた体にじんわりと染み渡った。

 優しくて、懐かしい味がする。

 どうしてだろう。

 涙が、ぽろぽろとこぼれ落ちた。


 今まで、ずっと一人で頑張ってきた。

 辛くても、苦しくても、誰にも頼らずに、平気なふりをしてきた。

 でも、本当は寂しかった。

 誰かに、優しくしてほしかった。

 橘蓮の不器用な優しさが、僕の心の固い殻を、少しずつ溶かしていく。


 この人は、本当に僕の「運命の番」なのだろうか。

 もし、そうだとしたら。

 僕たちの未来は、これからどうなってしまうのだろう。

 月明かりが差し込む静かな部屋で、僕は答えの出ない問いを、ただ胸の中で繰り返していた。

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