フェーズ3:泥沼の聖女

長く暗いトンネルを抜け、ようやく外の光が見えた時、玲央は大きく安堵の息を吐きました。 ずっと繋いでいたADの手を、そっと放します。


「よかった……。みんな、無事ですね」


恐怖に青ざめていた顔に、ようやく血色が戻ります。 その栗色の髪には、トンネル内の湿気で水滴がつき、木漏れ日を受けてキラキラと輝いていました。


「見ろよ、玲央ちゃん! あそこだ!」


ディレクターが指差したのは、少し開けた広場の中心。 そこには、白い湯気がモクモクと立ち上る、岩で囲まれた一角がありました。


「わぁ……ここが、伝説の秘湯……!」


湯気の立つ岩場。玲央は目を輝かせながら、慎重に足場へ近づいていきます。 仕掛け人の芸人たちが、モニタリングルームで固唾を飲んで見守る瞬間。 玲央を誘導していた女性AD(先ほどのトンネルで玲央に守られたスタッフ)が、足元の隠しスイッチの位置を確認しようとして――


ツルッ。


「あッ――!?」


ADの足が、前日の雨でぬかるんだ苔に滑りました。 彼女の身体が大きくバランスを崩し、玲央が落ちるはずだった「湯船」の上へと投げ出されます。


「危ないっ!」


玲央が手を伸ばすよりも早く、ADの身体は重力に従い、偽装された床板を突き破りました。


ズボオォォォォォンッ!!!!!


【番組編集イメージ】

(画面ワイプ:芸人たちの大爆笑『ギャハハハ! 違う奴が落ちたー!』『何やってんだよアイツ!』)


<Replay> スローモーションで、目を見開いて宙を舞うAD。 ドボンッ!!(効果音:間の抜けた落下音)


<Replay Angle 2> 別アングルから。無様に手足をばたつかせて泥に吸い込まれるAD。 バッシャァァァン!!(効果音:下品な水飛沫の音)


<Replay Angle 3> 泥面ギリギリのカメラから。顔面から茶色い液体に突っ込む衝撃映像。 ズブブブブ……ッ!!(効果音:汚い沈没音)


(テロップ:『まさかのハプニング! スタッフが泥の餌食にwww』)

https://kakuyomu.jp/my/news/822139842179899568

「……ぷはっ! うっ、うえぇ……!」


泥の海から顔を出したADは、あまりにも無惨でした。 髪も服も、粘り気のある茶色い泥でべっとり。腐葉土と科学的な入浴剤を混ぜたような、鼻をつく異臭が漂います。


「うっ、うう……」


ADは、泥をぬぐおうとして、さらに顔を汚してしまいました。 そのみすぼらしさ。情けなさ。 何より、大事なタレントを落とすはずだった「一番の山場」を、裏方の自分が台無しにしてしまったという絶望感。


「ひっ、うっ……ごめんなさい、ごめんなさい……」


ADの目から、泥混じりの涙が溢れ出しました。


「どうしよう……私が、プランをめちゃくちゃに……。玲央ちゃんが落ちるはずだったのに……」


「え……?」


岩場に残された玲央は、その言葉を聞き逃しませんでした。 (私が、落ちるはずだった……?) 一瞬にして、玲央の中で全ての点と線が繋がりました。 不自然なバスの故障。お化け屋敷。そして、この「秘湯」。 これらは全て、自分をここに落とすためのドッキリだったのだと。


「ううっ……こんな……汚い……気持ち悪いよぉ……」


ADは泣きじゃくりながら、自分のみじめな姿を恥じるように身体を丸めました。 自分だけが汚れ役になり、綺麗なままの玲央に見下ろされている構図が、彼女の惨めさを加速させます。


「ADさん……」


玲央の瞳が、うるりと潤みました。 騙されていたことへのショックではありません。 トンネルの中で震えていたこの人が、今また、自分のせいで(自分がターゲットだったせいで)こんなに辛い思いをして泣いている。 そのことが、玲央の胸を締め付けたのです。


「泣かないでください」


玲央は、意を決して、泥を見つめます。


「玲央ちゃん……?」


「プランは、めちゃくちゃになんてなってませんよ」


玲央は、ニッコリと笑いました。 そして、躊躇なく、その場から高く跳躍したのです。


「えっ!?」


美しい栗色の髪が、空中でふわりと舞い――。 玲央は、頭から真っ逆さまに、泥の海へとダイブしました。

https://kakuyomu.jp/my/news/822139842179898993

ドッポォォォォォンッ!!


躊躇のない、見事な飛び込みでした。 玲央の姿は完全に泥にまみれ、ADよりひどく汚れます。


シーンと静まり返る現場。 やがて、ブクブクと泡が立ち……。

https://kakuyomu.jp/my/news/822139842179899470

「……んぷはぁっ!!」


勢いよく、玲央が水面から顔を出しました。 あの輝くような美貌は見る影もありません。 まつ毛も、鼻も、口も、自慢の栗毛も、すべてがドロドロの茶色に覆われた、泥の怪物のような姿。


玲央は、顔についた泥を乱暴にぬぐうと、呆気にとられているADの隣に並び、へにゃりと眉を下げて笑いかけました。


「あはは……! ほんっとだ! この泥、ぬるぬるしてて、すっごく気持ち悪いですねぇ~!」


「……え、ええっ!?」


「なんか、ドブみたいな匂いもしませんか? うわぁ、最悪だぁ~!」


玲央は、ADの「惨めさ」を否定しませんでした。 「平気だよ」と綺麗事を言うのではなく、「気持ち悪いよね」「最悪だよね」と、ADが感じている不快感を全面的に肯定し、共有したのです。 二人で一緒に泥まみれになれば、それは「惨めな失敗」ではなく、「面白い共犯関係」になるから。


「さあ、ADさん! 一緒に呼びましょう!」


玲央は泥だらけの手で、ADの泥だらけの手をぎゅっと握りしめました。


「せーのっ!」


二人は泥沼の中で肩を組み、空に向かって祈るように叫びました。


「『ドッキリ大成功』の看板、来てくださーい!! お願いしまーす!!」 「ADさんのためにも! お願いっ、出てきてー!!」


モニタリングルームの芸人たちは、もはや笑ってはいませんでした。 「……負けた」 「勝てねぇよ、こんなの」 「……看板、出してやれ」


現場の岩陰から、スタッフが申し訳なさそうに、渋々と『ドッキリ大成功』の看板を掲げました。 それは、玲央を貶めるための看板ではなく、彼女の聖性を証明する「降伏の白旗」のように見えました。


「やったぁー! 大成功だー!」

https://kakuyomu.jp/my/news/822139842179899903

泥まみれの二人の少女が、抱き合って喜ぶ姿。 そのあまりに泥臭く、けれどあまりに美しい光景は、バラエティ番組の歴史に残る「神回」として、いつまでも語り継がれることになるのでした。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る