第28話 山へ行こう!
某県にある“霊山”に、真帆は訪れていた。
紅葉が美しい山道だが、景色を堪能する余裕はない。少年の脚はすでに限界を迎えていた。膝に手をついて、荒い呼吸を整える。
「駄目だ……死にそう……」
額からは汗が止まらない。背中に背負うリュックは岩でも入れたかのように重く感じていた。
前を歩く二人の姿が、だんだんと小さくなっていく。
「待ってください!!おいて行かないで!」
真帆は必死に叫ぶ。
「若いのに、情けがない」
と言って振り向いたのは鳥羽だ。
「頑張れ〜!まだ先だぞ!」
と続いて蔵が振り返り、こちらに手を振っている。
(こんなはずじゃなかったのに……)
真帆は二人について着いてきたことを後悔し始めていた。
──遡ること一週間前。
それは、鳥羽にかかってきた一本の電話から始まった。
「はぁ?!仔犬くんを?」
静かなリビングに、鳥羽の大きな声が響く。真帆も春鈴も驚いて彼を振り返った。
「無理だろ。無理だ」
通話相手に、半ば呆れたような口調で返している。
すると、しばらく黙っていた鳥羽が、おもむろに携帯端末を耳から遠ざけた。それから自分の携帯端末を真帆に向けてくるのだ。
「雪からだ。出てやれ」
真帆は鳥羽の携帯端末を受け取り、恐る恐る耳に近付ける。
「……もしもし」
電話話の向こうから明るい男性の声が聞こえてきた。
『真帆か?俺だよ、蔵雪だ。覚えてるか?』
「はい。その……お久しぶりです」
彼と最初に会ったのは、庭のガゼボだ。あの時は鳥羽に用事があって来ていたようだった。
次は直接会ったわけではないが、使い魔のカラスを通して彼の声を聞いた。
『元気そうだな。眞人にイジメられてないか?平気か?』
聞かれた真帆は即答はせずに、ちらりと鳥羽へ目を向ける。彼と視線が合ってしまい、即座に顔を背けた。
「大丈夫、だとは思います」
電話の向こうから、快活な笑い声が聞こえてくる。
『冗談だよ。安心しな、眞人は弟子をイジメるような奴ではないから』
「は、はぁ……」
冗談だったのか。真帆は少し安堵した。
『初めて会ったとき、俺の仕事を聞いただろう?魔法生物や妖精の保護と調査をしてるって』
「はい。そうでしたね」
『それでな。来週の仕事で眞人にも付き添ってもらうんだが、真帆も一緒に行かないかと思って』
それを聞いて真帆は目を丸くした。
「僕ですか?!でも、魔導師じゃないし、仕事の邪魔なんてできませんよ」
『難しい仕事じゃないから問題ない。お前にもいい経験になると思う』
とは言われても、「はい、行きます」とは答えにくい。
鳥羽の弟子になったとはいえ、先日には杖を受け取ることを拒否したのだ。自分はまだ魔法使いとも言えないだろう。
「どんな仕事なんですか?」
電話の向こうで蔵が笑った気がした。
『ドラゴンを見にいく!』
「ドラゴンっ?!」
真帆の心臓が跳ねた。
たった一言で、世界がぱっと広がったような気がする。
興奮気味に、もう一度繰り返す。
「ドラゴンて、あのドラゴンですか?!」
自然と声が弾む。頬にじんわりと熱がこもるのを感じていた。
『そうそう。本物のドラゴンだ。見てみたいだろう?』
「見てみたいです!」
『行きたいか?』
「はいっ!!」
少年の返事は力強かった。
『それじゃ、決定だな。眞人に代わってくれ』
真帆は携帯端末を鳥羽へ返す。彼の眉間には皺が刻まれていた。
「連れて行くなんて本気か?」
どうやら鳥羽は反対なようだ。険しい顔をしながら蔵と通話している。
その横から真帆は食い気味に口を挟む。
「でも鳥羽さん。ドラゴンなんて、間近で見られる機会はないんですよ!ドラゴンですよ、ドラゴン!!」
【ドラゴン】または“竜”と呼ばれる。大きなトカゲのような姿に翼を持った生き物だ。現代では《
そして生態として、あまり人前には姿を現さない。真帆は図鑑や写真でしか見たことがなかった。
「……ドラゴンがどこに生息しているのか、君は知っているのか?」
鳥羽に聞かれ、真帆は答える。
「山ですよね?エベレストとかキリマンジャロとか、アンデス山脈とか!」
「それがどういうことかわかるか?ドラゴンを見に行きたいのなら、山を登るんだぞ」
「わ、わかってますよ!行きます!エベレストでも、モンブランでも行きますから!」
「……登山経験は?」
真帆は少し沈黙した後で答える。
「課外授業で山に登りました!」
「それはハイキングだろ?!」
鳥羽からの鋭いツッコミが入り、彼はますます眉間に皺が寄っていく。
だが真帆は諦めるにはいかない。
「僕も行きたい!行かせてください!」
真帆の無垢な瞳は輝いている。
鳥羽は眉間をぎゅっと摘み、天井を仰いだ。
「着いてこれなかったら、山に置いて行くからな」
「大丈夫ですよ!着いて行きます!」
真帆は拳をぐっと握りしめる。
「どこから、その自信が湧いてくるんだ……」
そうして、ドラゴンを見に行くために同行することに。
真帆は初めての本格的な登山をすることになったのだ──
──現在。
真帆はすでに下山したくなっている。いや、心の中では十回以上は下山した。
どうしてドラゴンを見たいと言ったのか。なぜ登山をすると言ったのか。山を甘く見ていた一週間前の自分を、崖から突き落としたい気分だ。
「こうなると思ったんだ。だから君を連れて行くのは反対だった」
岩に腰掛けて縮こまる真帆を、鳥羽は冷めた目で見下ろしてくる。
「すみません……」
ずっと二人の足を引っ張っていたのは自分だった。最初は楽しくて仕方がなかったのだが、次第に疲弊してきってしまった。
しかし二人は慣れた足取りで山を登り、体力も脚力も、十代の自分より優っていたのだ。
真帆は運動には自信がない。体力も平均より下だろう。そんな自分が登山だなんて甘かったようだ。
「謝ることないぞ、真帆。落ち着いたらまた歩き出そうな」
そう言って蔵は腰を落とし、大きな手で頭を撫でてきた。じんわりと胸が温かくなったのと、少しの気恥ずかしさが混じる。
「遅い」「早くしろ」と急かす鳥羽と違って、蔵は「頑張れ」「もう少しだぞ」と励ましてくれていた。同じ大人なのに、なんという差だろうか。
真帆はふと空を見上げた。山から見える秋空はとても美しく、吹く風が心地よい。なにより空気が綺麗だ。
(ドラゴンに会えるといいな)
今は、それだけが願いである。
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