第2話 後宮の試練

後宮で迎えた最初の朝、蓮はほとんど眠れずに目を覚ました。


 天蓋付きの寝台は、孤児院の硬い寝床とは比べものにならないほど柔らかい。それでも体は休まらなかった。まぶたを閉じるたび、見慣れない天井と香の匂いが意識にのしかかり、胸の奥がざわついた。


「……ここは、夢じゃない」


 自分に言い聞かせるように呟く。

 指先で絹の寝衣をつまむと、確かな感触が返ってきた。


 扉の外から、控えめな足音が聞こえる。


「蓮様。お目覚めでございますか」


 若い女官の声だった。


「……はい」


 返事をすると、数人の女官が静かに入ってくる。無駄のない動き、感情を抑えた表情。全員が同じ色合いの衣を身にまとい、まるで揃えられた人形のようだった。


「本日より、私どもが身の回りをお世話いたします。私は翠鈴(すいれい)と申します」


 先頭に立つ女官が名乗り、深く頭を下げた。


「……よろしくお願いします」


 蓮も慌てて頭を下げる。

 その様子を、翠鈴は一瞬だけ観察するように見つめた。


「どうか緊張なさらず。ですが、後宮には後宮の規律がございます。覚えることは多いでしょう」


 柔らかな声色とは裏腹に、含まれる意味は重い。


 着替え、髪結い、化粧。

 蓮はただ流されるままに身を委ねた。鏡に映る自分は、相変わらず現実味がなかった。


「……こんなに飾っても、中身は変わらないのに」


 ぽつりと漏らすと、翠鈴が微かに目を細めた。


「中身がどうかは、ここでは重要ではありません」


「え……?」


「どう見えるか。それがすべてでございます」


 その言葉は、胸に冷たい影を落とした。


     ◆


 午前中は礼儀作法の講習だった。

 歩き方、立ち居振る舞い、頭の下げ方、視線の落としどころ。少しでも誤れば、すぐに指摘が飛ぶ。


「姿勢が低すぎます」


「声を抑えて」


「その場では笑ってはいけません」


 一つ一つは些細なことでも、積み重なると息が詰まる。


(……間違えないようにしなきゃ)


 必死に覚えようとするほど、体が強張った。


 昼前、ようやく休憩が許され、蓮は庭に面した回廊に座らされた。

 遠くに見える池の水面が、風に揺れている。


「あなた、新入りでしょう?」


 背後からかかった声に、肩が跳ねた。


 振り向くと、華やかな衣を纏った若い妃が立っていた。艶やかな黒髪、涼しげな目元。余裕のある微笑みが、かえって怖い。


「は、はい」


「名前は?」


「蓮と申します」


「ふうん……孤児だって聞いたけど、本当?」


 隠す気もない好奇心に、胸が締め付けられる。


「……はい」


 妃は鼻で小さく笑った。


「よくここまで来られたわね。運が良かったのかしら」


 言葉の端に、刺のようなものが混じっている。


「覚えておきなさい。後宮は、運だけで生き残れる場所じゃないわ」


 そのまま背を向け、去っていく。

 残された蓮は、しばらく立ち上がれなかった。


(私は……歓迎されていない)


 それは薄々感じていたことだったが、改めて突きつけられると心に重くのしかかる。


     ◆


 午後は他の妃たちへの挨拶回りだった。

 それぞれの宮を訪れ、形式的な言葉を交わす。


 ある者は興味深そうに、ある者は露骨な敵意を向けてくる。


「随分と素朴なのね」


「皇帝陛下のご趣味が変わったのかしら」


「すぐに消えるでしょう」


 囁き声が、耳に刺さる。


(聞こえていないふりをしなきゃ)


 それでも、心は確実に傷ついていた。


 夕刻、蓮は自室に戻り、どっと疲れが押し寄せた。

 膝を抱えて座り込み、視線を落とす。


「……帰りたい」


 孤児院の狭い部屋、冷たい床、簡素な食事。

 あの生活が、今はひどく恋しかった。


 そのとき、胸の奥が微かに熱を帯びた。


「……?」


 不思議に思った瞬間、頭がくらりと揺れる。


「な、に……」


 視界が滲み、息が苦しくなる。

 皮膚の内側を、何かが流れるような感覚。


 恐怖に駆られ、蓮は胸元を押さえた。


「誰か……」


 声にならない叫び。


 次の瞬間、扉が開き、翠鈴が駆け込んできた。


「蓮様!」


 翠鈴はすぐに蓮を支え、寝台に座らせる。


「どうされました」


「わ、わからない……急に、体が……」


 翠鈴は一瞬、蓮の顔色を確かめ、その瞳にわずかな動揺を浮かべた。


「……今は、何も考えず休みましょう」


 その声音は、いつもより低かった。


     ◆


 夜。

 皇帝からの呼び出しがあった。


 心臓が嫌な音を立てる。


(何か、悪いことをした……?)


 謁見の間に入ると、皇帝は一人、灯りの下に立っていた。


「顔色が悪いな」


 その一言に、胸が詰まる。


「……申し訳ございません」


「謝罪を求めた覚えはない」


 皇帝はゆっくりと近づき、蓮の前に立つ。


「後宮は、息苦しい場所だろう」


 図星を突かれ、言葉を失った。


「恐れているな」


「……はい」


「それでも、逃げ出したいとは思わなかったか」


 問いに、しばらく沈黙する。


「……思いました」


 正直に答えると、皇帝は小さく息を吐いた。


「それでも、ここに立っている」


「……命じられましたから」


「それだけか?」


 鋭い視線が突き刺さる。


「……それだけ、ではありません」


 胸の奥で、何かがざわめく。


「理由は、まだ……言葉にできません」


 皇帝は蓮をじっと見つめ、やがて頷いた。


「それでよい」


 間を置き、低く告げる。


「だが覚えておけ。後宮は甘くない。お前を試し、削り、壊そうとする者が必ず現れる」


 その言葉は、忠告であり、警告だった。


「それでも、生き残れ」


「……どうして、そこまで……」


 問うと、皇帝は一瞬だけ表情を変えた。


「お前が、ここにいる意味があるからだ」


 それ以上は語られなかった。


     ◆


 部屋に戻った後も、蓮は眠れなかった。

 皇帝の言葉が、何度も頭の中で反芻される。


(意味……私に?)


 答えは出ない。


 ただ一つ確かなのは、ここが試練の場であるということ。


 優しさだけでは生き残れない。

 無知のままでは、簡単に踏み潰される。


 蓮は拳を握り締めた。


「……負けない」


 か細い声だったが、そこには確かな決意が宿っていた。


 孤児の少女は、まだ何も知らない。

 自分の血に潜む力も、後宮の闇の深さも。


 それでも、この日を境に、蓮は理解し始めていた。


 ここは、選ばれた者の楽園ではない。

 生き残った者だけが立っていられる、静かな戦場なのだと。

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