龍の血を引く妃 ― 守るべき帝国と選ばれし力
春馬
第1話 孤児の少女、蓮
朝靄がまだ路地に残る頃、蓮は井戸の前に立っていた。
桶の中で揺れる水面に、自分の顔がぼんやりと映っている。痩せた頬、日に焼けた額、乱れた黒髪。誰かに似ているとは言われたことがない。名前すら、孤児院に拾われたときに与えられたものだった。
「……今日も、冷たい」
指先を水に浸すと、思わず息が漏れた。
それでも顔をしかめる暇はない。朝の水汲みは、蓮の役目だった。
孤児院は城下町の外れ、土壁の建物が肩を寄せ合うように並ぶ一角にある。戦や飢饉で家族を失った子どもたちが集められ、最低限の衣食住だけが与えられる場所だ。優しさは希薄だったが、冷酷でもない。生き延びるための場所としては、十分すぎるほどだった。
「蓮、まだ終わらないの?」
背後から声がかかる。振り返ると、年下の少女・梅花が両腕をぶら下げて立っていた。
「今行く。桶が重くて」
「また? ほんとに力ないよね」
「そう言われると傷つくんだけど」
苦笑いしながら桶を持ち上げると、腕にじんとした痛みが走る。けれど、それはいつものことだった。力が弱いのは事実だし、今さら否定しても始まらない。
院に戻ると、朝粥の匂いが漂っていた。薄く、麦が混じった粥。それでも温かいだけでありがたい。
「おはよう、蓮」
炊事場に立つ院母が、穏やかな声で言った。白髪交じりのその女性は、ここにいる誰よりも多くの別れと出会いを見てきた人だった。
「おはようございます」
蓮は桶を置き、頭を下げる。
その瞬間、院母の視線が、ほんの一瞬だけ蓮の額に留まった気がした。
「……どうかしましたか?」
「いいえ。ただ、今日は不思議な日になりそうだと思ってね」
「不思議、ですか?」
問い返すと、院母は微笑んだだけで答えなかった。
その違和感が、後になって胸に重く残ることになるとは、この時の蓮は知らなかった。
◆
昼近く、孤児院の前に見慣れない馬車が止まった。
黒塗りの車体に金の紋章。城の使いであることは一目でわかる。
「……え?」
子どもたちがざわめく中、蓮の胸が嫌な音を立てた。
理由はわからない。ただ、足元が冷えるような感覚があった。
馬車から降りてきたのは、上質な衣を纏った宦官と、鎧姿の兵士だった。彼らは無駄な視線を一切投げず、院母の前に立つ。
「こちらに、蓮という少女がいると聞いた」
宦官の声は淡々としていて、感情の起伏を感じさせなかった。
「……はい。おりますが」
「後宮より召しがある。すぐに支度を」
言葉が、耳に入った途端、世界が遠のいた。
「こ、後宮……?」
誰かが小さく呟く。
後宮。それは、皇帝の妃や女官が住まう、選ばれた者だけの場所。孤児の少女が足を踏み入れるなど、あり得ない世界だった。
「間違いでは?」
院母が静かに尋ねる。
「確認は済んでいる。名は蓮、年の頃は十六。黒髪黒眼。——特徴に一致する」
宦官の視線が、一直線に蓮を射抜いた。
「……わ、私ですか?」
声が震えた。
喉がひくりと鳴り、うまく息ができない。
「そうだ。荷は最小限でよい」
「ま、待ってください。私は、何も——」
「理由は後宮で知らされる」
遮るように告げられ、蓮は言葉を失った。
院母がそっと近づき、蓮の肩に手を置く。
「行きなさい」
「……え?」
「怖いでしょう。でも、拒める相手ではない」
「でも、私……」
「大丈夫。あなたは、きっと大丈夫だから」
その言葉は祈りのようで、慰めのようで、別れのようにも聞こえた。
荷物と呼べるほどのものは、古い布袋一つ。
梅花が泣きそうな顔で裾を掴む。
「行っちゃうの?」
「……うん。すぐ戻れるかは、わからないけど」
「やだ」
その一言が、胸に刺さった。
「私も、やだよ」
そう言いたかった。
けれど、口に出せば壊れてしまいそうで、蓮はただ微笑んだ。
◆
馬車の中は静かだった。
揺れに身を任せながら、蓮は膝の上で指を握り締める。
「どうして……私なんだろう」
問いかけても、答えは返らない。
城門が見えたとき、思わず息を呑んだ。
高くそびえる白い壁。重厚な扉。その向こうに広がる世界は、これまでの人生とまるで別物だった。
後宮へ続く回廊は、香の匂いが漂い、足音すら吸い込まれるように静かだった。
「ここが……」
案内役の女官が振り返る。
「声を落としなさい。ここでは、言葉一つで運命が変わる」
その忠告に、背筋が凍る。
用意された湯殿で体を洗われ、髪を整えられ、衣を着せられる。
鏡に映る自分は、まるで別人だった。
「これが……私?」
絹の衣は柔らかく、触れるたびに現実感を奪っていく。
「準備が整いました」
女官の声に、心臓が大きく跳ねた。
◆
謁見の間は、想像以上に広かった。
玉座に座る男——皇帝。威厳と静けさを纏ったその存在に、蓮の膝は震えた。
「顔を上げよ」
低く、落ち着いた声。
恐る恐る顔を上げると、鋭い眼差しが真正面から向けられていた。
「名は?」
「……蓮、です」
「孤児だと聞いた」
「はい」
短いやり取りのはずなのに、胸が締め付けられる。
「恐れているか」
「……恐れています」
正直に答えると、皇帝はわずかに目を細めた。
「嘘をつかぬ。良い」
その言葉に、なぜか涙が滲みそうになった。
「今日より、お前は後宮に留まる」
「理由を……お聞かせいただけますか」
一瞬、場の空気が張り詰める。
皇帝は立ち上がり、蓮の前まで歩み寄った。
「いずれ知ることになる」
その距離の近さに、息が止まる。
「今はただ、ここで生きよ」
その言葉は命令であり、導きでもあった。
蓮は深く頭を下げる。
「……承知しました」
こうして、孤児の少女・蓮は後宮の中へと足を踏み入れた。
自分の血に宿る秘密も、迫り来る運命も、まだ何一つ知らぬままに。
ただ一つ。
胸の奥で、何かが静かに目を覚まし始めていた。
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