花と草原
辛口カレー社長
花と草原
「どこよ、ここ……」
私が知っている「駅前」ではなかった。
ロータリーと呼ぶにはあまりに慎ましいアスファルトの広場。ざっと見渡した限り、コンビニもファーストフード店もカフェもない。
最後に客を乗せたのがいつなのか分からないようなタクシーが、たった一台。何もない風景の中に、まるでアクセントのようにぽつんと停まっている。
私の実家もかなりの田舎だが、ここはそれに輪をかけたような場所だ。東京から電車に揺られること二時間半。たったそれだけの移動でこんな場所に辿り着くなんて驚きだ。
腕時計を見ると、時刻は午前十一時を少し回ったところだ。先方との約束の時間は午後一時。あと二時間近くある。
タクシーの運転手が、不意に顔を上げてこちらを見た気がした。私は何だか気まずくなって、逃げるように駅舎の中へと戻った。
待合室には、使い込まれて艶の出た木製のベンチが並んでいる。私はその端にどっかりと腰を下ろし、天井の隅にある古びた時計を見上げながら、「はぁ……」と重たい息を吐き出した。
「これ持って取引先へ行ってきて。今から」
課長の声が、今も耳の奥でリフレインしている。新社会人になって、まだ三日目の朝のことだった。
右も左も分からない私に渡されたのは、ずっしりと重い手土産の紙袋と、書類が入った封筒。そして、聞いたこともない会社名と連絡先、さらに聞いたこともない地名の地図が印刷された一枚のA4用紙。
課長の口調は、まるで「コンビニで缶コーヒーを買ってきて」というくらいの軽さだったけれど、その目の奥が笑っていないことに、私は気づいていた。
――これは、ただのお使いじゃない。
昨日、私は電話の取り次ぎを間違え、大切なクライアントを怒らせてしまった件。その件で、邪魔な新人を遠ざけておこうという、
同期の子たちは、今頃オフィスでOJTを受けているはずだ。それなのに私は、こんな名前も知らない土地で、ただ時間を浪費している。
悔しさと情けなさが、胸の奥でじわじわと熱を持って広がる。膝の上に置いた鞄をぎゅっと抱きしめた。このまま誰とも話さず、誰にも必要とされず、この古いベンチの一部になってしまうんじゃないか。そんな馬鹿げた妄想が頭をよぎる。
途方に暮れていると、カチャリ、と音がして駅員室の小窓が開いた。そこから出てきたのは、白髪混じりの髪をきっちりと整えた、年配の駅員さんだった。彼はベンチで小さくなっている私に気づくと、その手を止めた。
「お嬢さん、電車待ちかい? 次の上りは一時間後だよ」
人懐っこい笑顔だった。東京の駅員さんのような、事務的で隙のない表情とは違う。近所のおじいちゃんに話しかけられたような距離感に、張り詰めていた肩の力がふっと抜ける。私は荷物をベンチに置いたまま、吸い寄せられるように駅員さんに駆け寄った。
「あ、いえ、これから仕事なんですけど……時間が余ってしまって。あの、この辺で食事ができるところってありますか?」
すがるような目で見つめてしまったかもしれない。駅員さんは「食事かぁ」と呟き、制帽を少し持ち上げて額をかいた。
「駅舎の裏に『ふうが』って小料理屋があるよ。今の時間なら、開いてるかもしれない」
仕事柄なのか、駅員さんは指先までピンと伸ばして、駅の裏手、線路沿いの道を指し示した。
「小料理屋……ですか」
社会人一年目の財布には、重く響きそうな単語だ。私の表情が曇ったのを察したのか、駅員さんは笑いながら付け足した。
「小料理屋って言っても、値段も良心的だし、何より美味しいから。お昼の定食なら千円もしないよ」
私の懐事情まで見透かしたような追加情報だった。
ここで二時間をただ座って過ごすのは、精神衛生上良くない。まずは何かお腹に入れて、ささくれ立った心を落ち着かせよう。私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます。行ってみます」
「いってらっしゃい。とにかく、分かりやすい場所だから」
柔和な笑顔と優しい口調に、「とんでもないところに来てしまった」という絶望感が、少しだけ和らいだ気がした。
教えられた通りに踏切を渡り、線路沿いの砂利道を少し歩くと、ちょうど駅舎と背中合わせになるような位置に、その建物はあった。
古い民家を改装したような佇まい。黒い板壁に、格子戸。そして入口には、鮮やかな緑の布地に黒で「
小料理屋なんて、上司に連れられて行く場所だと思っていた。一人で、しかもこんな田舎で入ることになるなんて。
地元の常連さんが昼からお酒を飲んで騒いでいたらどうしよう。新参者の私が白い目で見られたらどうしよう。引き戸に手をかけたまま、数秒だけ躊躇する。でも、他に選択肢はない。
私は意を決して呼吸を整え、引き戸を横に滑らせた。
「いらっしゃいませ。お好きな席へどうぞ」
店内に入ると同時に、涼やかな声が迎えてくれた。外の熱気が嘘のようにひんやりとしている。カウンター席が五つと、四人掛けのテーブル席が二つだけの、こじんまりとした空間。
声の主は、カウンターの中にいた。のれんと同じ、深い緑色の着物を着こなした女性。栗色の髪を後ろで緩く結い、白いうなじが少し覗いている。年齢は三十代中盤くらいだろうか。女将さんと呼ぶにはまだ若く、どこか少女のような透明感を残した人だった。
「お荷物は隣の席へ置いてくださいね。今の時間、他にお客さんは来ませんから」
そう言われて店内を見渡すと、カウンターの一番奥、私の視線から見て右端の席に、一人の男が座っているのが見えた。客……なのだろうか。茶色の作務衣を着て、背筋を伸ばして座っている。手元には湯呑みが一つ。食事をしているわけでもなく、ただじっと、壁の一点を見つめているようだった。
少し異様な雰囲気を感じたが、女将さんの屈託のない笑顔に促され、私はカウンターの真ん中の席に腰を下ろした。隣の椅子に重たい紙袋と鞄を置く。
店内は明るく、清潔で、微かに甘辛い煮物の香りと、お酢の爽やかな匂いが漂っていた。磨き込まれたカウンターの木目を見ていると、心が落ち着いていくのが分かる。
――好きだなぁ、こういう雰囲気。
東京の喧騒とは対極にある時間だ。
「もしかして、駅長さんに聞いて来ました?」
お冷とお絞りを出しながら、女将さんが微笑んだ。
「え? あ、はい。駅で……駅員さんに教えていただいて」
「ふふ、やっぱり。あの方、駅長さんなんですよ。この時間に来る一見さんは、大抵あの方に聞いてここに来てくださるの」
――へぇ、あの人、駅長さんだったんだ。
帰りにちゃんとお礼を言わなきゃ。
「お食事ですよね。今日はサバの塩焼きか、カレイの煮付けができますけど」
「あ、じゃあサバの塩焼き定食をお願いします」
「かしこまりました。少しお待ちくださいね」
女将さんは軽やかな足取りで奥の厨房へと消えていった。
残されたのは、私と、奥に座る作務衣の男。
静寂が戻ってくる。ただ、それは気まずい沈黙ではなく、古時計の振り子が時を刻む音が心地よく響く、質の良い静寂だった。
私はスマートフォンを取り出しかけて、やめた。せっかくのこの空間で、また仕事のメールやSNSのタイムラインを気にするのは無粋な気がしたのだ。
代わりに、店の中を観察する。壁には手書きのメニューがずらりと並んでいた。中には、達筆すぎて読めないものもある。「出汁巻き卵」、「季節の天ぷら」、「おでん」。どれも美味しそうだ。
ふと、奥の男に視線を走らせる。相変わらず、彼は動かない。湯呑みから立ち上る湯気すら消えているのに、お茶を
女将さんと同じくらいの歳に見える。旦那さんかな。いや、夫婦にしては会話がなさすぎるし、醸し出す空気が他人行儀だ。常連客にしては、むしろ店に馴染みすぎている。不思議な人だ。
「お待たせしました。サバの塩焼き定食です」
お盆に乗せられて運ばれてきた料理を見て、私は思わず「わぁ」と声を漏らした。
メインのサバは皮がパリッと焼かれ、脂がじゅわっと滲み出ている。その横には、大根おろしとスダチ。小鉢にはほうれん草の胡麻和えと、ひじきの煮物。漬物に、湯気が立つお味噌汁、そして艶々の白米。
完璧だ。これぞ「日本の正しいお昼ご飯」という佇まい。
「いただきます」
手を合わせ、まずは味噌汁を一口啜る。
――美味しい。
出汁の香りが鼻腔を抜け、優しい塩気が体に染み渡っていく。インスタントやコンビニ弁当の味に慣れきっていた舌が、驚いて喜んでいるのが分かる。
サバに箸を入れると、パリッという音と共に身がほぐれる。口に運ぶと、凝縮された魚の旨味が広がった。ご飯が進む。止まらない。
夢中になって食べていると、不意に涙が出そうになった。
昨日、仕事でミスをして怒られた後、何も喉を通らなくて、夜中にカップスープしか飲んでいなかったことを思い出した。誰かが、自分のために丁寧に作ってくれた料理。それがこんなにも心に沁みるなんて。
「美味しい?」
「はい……すごく、美味しいです」
私の反応を見て、女将さんが嬉しそうに目を細める。
「よかった。氷出しの烏龍茶もあるから、食後にどうぞ」
私は頷きながら、箸を進めた。
完食し、出された琥珀色の烏龍茶を一口飲む。雑味がなく、香りが華やかで、今まで飲んだどの烏龍茶よりも透き通った味がした。
たまたま出張で来た町で出会った、小さな奇跡のような店。自宅や会社の近くにあったら、間違いなく毎日通うのに。そうしたら、あの冷たい東京砂漠でも、もう少し頑張れる気がするのに。
「あの、『風雅』って素敵な名前ですね」
沈黙に耐えかねたというよりは、この心地よい空間への感謝を伝えたくて、私はそう口にした。女将さんは洗い物の手を止め、ふわりと笑った。
「ふふ、ありがとう」
そう言って、彼女はチラリと一番奥に座っている男を見た。男も一瞬、閉じていた目を開け、女将さんを見た気がした。視線だけで交わされる会話。やっぱり、ただならぬ関係なのだろうか。
「あの、この辺で少し時間をつぶせる、観光できる場所ってないですか?」
時計を見ると、まだ十二時前。あと一時間は余裕がある。ここでお茶を飲み続けるのも迷惑だろうし、腹ごなしに歩きたかった。
「観光ってほど大げさなものじゃないけど、ここから国道を出て海の方に行くと、『
女将さんは布巾で手を拭きながら、店の外の方角を指さした。
「ウバメガシっていう木がトンネルみたいになってて、珍しいんですよ。それに囲まれてると、何かこう……独特な感じがして。天気もいいし、お散歩するにはいいかも」
神社。悪くない。今の私には、神頼みが必要かもしれない。「もうミスをしませんように」、「この仕事がうまくいきますように」。いや、もっと切実に「明日から会社に行けますように」と。
「白愁天満宮の本殿の裏手にある、石段を上がった先だ」
突然、低い声が響いた。驚いて顔を上げると、奥の作務衣の男が口を開いていた。彼が発した言葉なのか一瞬分からなかったほど、その声は空間に溶け込んでいた。
「え……石段を上がった先、ですか?」
私は恐る恐る聞き返す。男は私の方を見ようともせず、宙を見つめたまま続けた。
「そこから見える景色と眺めだ。今のあんたに必要なのは」
「私の……?」
独り言のようでいて、確信めいた響き。意味が理解できず、私は助けを求めるように女将さんを見た。女将さんは笑顔で、「ですって」と言って、私の空になった茶碗を下げた。
男を見ると、再び腕を組み、何事もなかったかのように目を閉じてしまっていた。
一体何なのだろう、あの人は。占い師か何かなのか。
「ご馳走様でした」
お代を払い、席を立つ。
店を出ようとした時、玄関口の横、下駄箱の上に飾られている一枚の絵が目に留まった。キャンバスの右半分が鮮やかな黄色の菜の花畑。左半分が風にうねる緑の草原。そして上三分の一が抜けるような青空。
色鉛筆画のようにも、油絵のようにも見える不思議なタッチ。人物は描かれていない、ただの風景画だ。なぜか目が離せなかった。どこかで見たことがあるような懐かしさ。胸の奥がキュッと締め付けられるような、切なさ。殺風景なのに、温かい。
「行ってきます」
私はその絵から無理やり視線を引き剥がし、店を出た。
女将さんに教えられた通り、国道を横切り、海へ向かって歩く。次第に、風に乗って潮の香りが濃くなってきた。遠くで波の音が聞こえる。
仕事のこと、失敗したこと、同期への劣等感、上司の冷たい視線。東京に置いてきたはずの重荷が、一歩歩くごとに背中にのしかかってくる。
――私、このまま社会人としてやっていけるのかな。
ふと、弱音が漏れそうになる。実家の両親には「仕事、楽しいよ」と嘘をついたばかりだ。心配かけたくない。期待を裏切りたくない。でも、本当はもう、逃げ出したい。
十分ほど歩くと、こんもりとした森のような場所に行き当たった。
白愁天満宮の入口だ。
そこには女将さんの言っていた通り、ウバメガシの木々が頭上を覆うように密生し、昼間なのに薄暗いトンネルを作っていた。ぽっかりと口を開けた暗闇。その奥へと、一本の細い道が真っ直ぐに伸びている。まるで、別の世界への入口みたいだ。
ごくり、と唾を飲み込む。引き返そうかという迷いを振り切り、私は一歩を踏み出した。ひんやりとした空気が肌を撫でる。静かだ。自分の足音と、遠くで鳴く鳥の声、そして波の音だけが響く。
木の隙間から差し込む木漏れ日が、地面に斑点模様を描いている。時折、その隙間からキラキラと光る海が見えた。
百メートルほど歩いただろうか。不意に視界が開け、古びた本殿が現れた。誰の姿もない。手入れはされているが、長い歳月を感じさせる神社だ。私は賽銭箱に小銭を投げ入れ、手を合わせた。
願い事は、うまく言葉にならなかった。ただ「助けて」と心の中で呟いただけだった。
――えーと、本殿の後ろの石段……だっけ。
作務衣の男の言葉を思い出し、私は本殿の裏へと回った。そこには、人が一人やっと通れる幅の、急な石段があった。苔むした石段は、空に向かって続いているように見える。
息を切らしながら、一段一段、踏みしめるように上る。革靴が悲鳴を上げているが、構わなかった。
そして、最後の一段を登り切った時。
「……あっ!」
声にならない声が漏れた。
風が吹き抜ける。
私の目の前には、一面の黄色が広がっていた。菜の花だ。視界を埋め尽くすほどの、菜の花畑。
ここは海沿いの高台なのだろうか。菜の花の向こうには、どこまでも続く青い空と、海が溶け合っている。
――石段を上がった先の眺め。
――今の私に必要な景色。
あの男は、この景色のことを言っていたのか。
あまりの美しさに、私は立ち尽くした。風が吹くたびに、菜の花がさわさわと音を立てて揺れる。甘い香りが鼻をくすぐる。
――綺麗……。
ふと、後ろを振り返る。そこは、緑の草原だった。膝丈ほどの草が、風を受けて波のようにうねっている。右手に菜の花、左手に草原。私はその境界線に立っていた。
「あれ……石段は? 本殿は?」
さっきまで自分で見ていた世界とは違う。私を咄嗟に目を閉じた。
そして、気づいた。
――あの絵の中だ!
「風雅」の玄関口の横に飾ってあった絵。私は今まさに、あの絵の中にいる。一体何がどうしてあの絵の中に迷い込んでしまったのかは分からない。
目を開けて、もう一度、菜の花畑の方を向くと、黄色い海の真ん中に人影が見えた。男の人だ。青いシャツに、色あせたジーンズ姿。
さっきまでは誰もいなかったはずなのに。
男の人は、私の方を見ていた。逆光で顔はよく見えない。でも、なぜだか胸が騒めいた。
彼は、私に向かって大きく手を振った。
――え? 私?
大きく、ゆっくりと、安心させるように振られる手。私の体は、思考よりも先に反応していた。右手が勝手に上がり、手を振ろうとする。
「パパ―!」
私の口から出た声ではなかった。
突然、私のすぐ横を、小さな影が駆け抜けていった。赤いスカートをひらひらさせた、五、六歳くらいの女の子。二つに結った髪が弾んでいる。
――え……どこから出てきたの?
女の子は迷うことなく、菜の花畑の中にいる男の人へ向かって走っていく。
私の意思とは関係なく、足が勝手に動き出した。二人を追いかけるように、菜の花畑の中へ入っていく。
靴の裏に土の感触が伝わる。菜の花の匂いが強くなる。女の子が男の人に飛びつく。男の人は軽々と女の子を抱き上げた。
二人の笑い声が、青空に吸い込まれていく。私はそれを、数メートル後ろから見つめていた。
そうだ。あれは私が小学生になる前の春休み。家族で旅行に来たんだ。お母さんは風邪をひいて、宿で寝ていて。お父さんと二人で散歩に出たんだっけ。
お父さんの背中は、とてつもなく大きかった。肩車をしてもらうと、世界が自分のものになったような気がした。
何の不安もなかった。明日の心配なんてなかった。ただ、お父さんがいれば無敵だった。
それなのに、今の私はどうだ。東京に出て、一人暮らしを始めて、仕事に追われて。実家に電話をするのも億劫で、「忙しい」を言い訳にして、もう半年も声を聞いていない。お盆に帰ると約束していたのに、それもドタキャンした。
小さくなっていく父の背中を、私はいつから直視しなくなったんだろう。
いつから、守られることの温かさを忘れて、一人で強がって生きるようになったんだろう。
突然、頭がくらくらして、立っていられなくなった。
そんな私を置いて、若い父と幼い私は、草原の方へと歩いていく。
――待って、行かないで。
私は手を伸ばした。
「あ! そっちに行ったらダメ! いたっ!」
左腕に、鋭い痛みが走った。同時に、女の子の泣き声が響き渡る。
蜂だ。蜂に刺されたんだ。
記憶が鮮明に蘇る。あの日、私は草原で蜂に刺された。痛くて、怖くて、泣き叫んだ。
お父さんは慌てて私を抱き寄せ、背負って走ってくれた。
『大丈夫だ、大丈夫だ。パパがついているからな』
汗だくになりながら、必死に私を励ましてくれた声。あの背中の温もり。
私は草原の中を走った。父と私を追いかけて。いや、あの日の温もりを求めて。
振り返らずにひたすら走った。振り返ってはいけない気がした。
涙が溢れて止まらなかった。痛い。腕が痛いんじゃない。心が痛い。
会いたい。お父さんに会いたい。
「ごめんなさい……ごめんなさい」
誰に対する謝罪なのか分からなかった。疎遠にしている父へ、あるいは不甲斐ない今の自分へ。
どんなに走っても、草原と青い空しかなかった。息が切れて、私はその場にうずくまった。草の匂いに包まれて目を閉じる。大きく深呼吸をする。おそらく、このまま走り続けても絵の中から出られない気がした。
『大丈夫、心配いらない』
どこからか、父の声が聞こえた気がした。それとも、あの作務衣の男の声だろうか。
私は必死に思い出す。
自分の狭いアパートの部屋。
殺風景なオフィス。
ガタンゴトンと揺れる満員電車。
今日の海。
潮の香り。
「風雅」の出汁の味。
透き通った烏龍茶。
女将さんの笑顔。
作務衣の男の静かな佇まい。
私が生きている世界を、現実を、一つ一つ拾い集めて、自分の中に引き戻す。
私はもう、子供じゃない。
守られるだけじゃなく、自分の足で歩かなきゃいけないんだ。
――帰ります……。
そう念じて、ゆっくりと目を開けた。
草原も、菜の花畑も、消えていた。そこにあるのは、古びた神社の裏手と、ただの雑木林だけだった。
夢だったのか。幻覚だったのか。でも、左腕の二の腕あたりが、微かにズキズキと痛む気がした。まるで、遠い日の痛みが共鳴しているように。
目尻を拭うと、指先が濡れていた。
私は小走りに石段を下りた。ウバメガシのトンネルを潜り抜け、光の中へと戻る。錯覚だと分かっていても、胸の動悸は収まらない。
父に電話をしよう。東京に戻ったら、すぐに。ただ「元気?」って聞くだけでいいから。
取引先への用事はわずか十分で終わり、私は風雅の前に戻ってきていた。
店の中に入ろうと手を伸ばした瞬間、ガラッと玄関のドアが開いた。作務衣の男だった。彼は私を見て、少し驚いたような顔をした。
「どうした? 蜂にでも刺されたような顔をして」
心臓が飛び跳ねた。
男は私とすれ違いざまに、ふっと目を細め、固まる私を横目に、そのままどこかへ去っていった。
「お帰りなさい」
店の中から、女将さんの声がした。私は小さく「ただいま」と言うのが精一杯だった。何より、その「お帰りなさい」という響きが、実家に帰った時の母の声と重なって、また涙腺が緩みそうになった。
「白愁天満宮には行きました?」
「はい。……不思議なところでした」
石段を上がった後の出来事は、話せなかった。過去の自分と父に出会ったなんて言っても、きっと信じてもらえない。それに、あの記憶は私だけのものにしておきたかった。
「あの男の人は……何者なんですか?」
私は震える声で尋ねた。
「何者だと思います?」
「うーん、人里離れた山の中で、陶器とか焼いてそうな……」
「あー、雰囲気だけはそんな感じがしますけど、普通のサラリーマンですよ」
「なーんだ」
女将さんの仕事の邪魔をしてはマズいと思い、荷物を持って帰ろうとすると、女将さんがカウンターの向こうから小さな包みを差し出した。唐草模様の風呂敷に包まれた、お弁当箱のようなもの。
「これ、帰りの電車の中で食べて」
「え……良いんですか?」
「あの人からよ」
女将さんは、さっきまで男が座っていた右端の席に視線をやった。
「なんで……?」
「前に『風雅って素敵な名前ですね』って言ったでしょう? 名付け親はあの人なの。『風に吹かれて、雅やかに生きる』。そういう願いを込めてね」
「ああ、そうだったんですか」
「それに、あなたが随分と疲れた顔をしていたから。さっき『何か作ってやってくれ』って頼まれて。もちろん、ちゃんとお代も頂きましたよ?」
無愛想に見えて、なんて優しい人なんだろう。
私は包みを両手で受け取った。温かい。作りたての温もりが、手の平から伝わってくる。
「ありがとうございます、と……必ずお伝えください」
「ええ、伝えておくわ」
店を出る時、私はもう一度、あの絵を見た。
――あれ?
さっきまでは風景だけだった絵。その右側、菜の花畑の中に、小さく人影が描き足されていた。青いシャツの男の人と、赤いスカートの女の子。二人はしっかりと手を繋いでいる。
「あの……この絵って……?」
「ああ、あの人が趣味で描いてる絵なんだけど。さっき、ふらっと筆を取って描き足してたわよ。『やっと絵が完成した』って」
――やっぱり只者じゃないんだ、あの人。
彼は知っていたのだ。私があそこで何を見て、何を思い出すかを。あるいは、彼が描いた絵の世界に、私が招かれただけなのかもしれない。
私は思い切って聞いてみた。
「女将さんとあの人って……」
「ただの常連さんよ」
「ですよねー」
二人で大声で笑った。笑っていると、さっきの出来事も「まぁいいかな」って思えてきて、少し心が軽くなった気がした。
私は深く一礼をして、「風雅」を後にした。
駅に戻ると、駅長さんが改札口で待っていたかのように立っていた。
「お疲れ様。『風雅』には行った?」
「ええ、お料理もとても美味しくて、女将さんが良い人で……」
「それは良かった」
「得体の知れない常連さんがいて、過去にタイムスリップしました」という言葉は飲み込んだ。
駅長さんは私の顔を見て、安心したように頷いた。
「来た時より、ずいぶん良い顔になったね」
その言葉に、私は照れくさくて笑った。
やってきた上り電車に乗り込む。
車窓から、夕日で赤く染まる海が見えた。世界が、全て茜色に包まれている。菜の花の黄色も、草原の緑も、海の青も、全てが夕焼けに溶けていく。
私は膝の上に置いたお弁当の包みを解いた。中には、大きなおにぎりが二つと、卵焼き、そしてタコさんウインナーが入っていた。
子供の頃、遠足で食べたようなお弁当。
添えられたメッセージカードには、達筆な文字でこう書かれていた。
――東京に帰っても、時々思い出してください。菜の花と、草原を。
「……女将さん、ずるいなぁ」
視界が滲んで、文字が読めなくなる。頬を伝う涙を、私は拭おうともしなかった。
――大丈夫。
私はきっと、明日からも戦える気がした。
電車がガタン、と大きく揺れる。
私はおにぎりを一つ手に取り、大きく口を開けて頬張った。塩味が、涙の味と混じって、少しだけしょっぱかった。
もちろん、思い出すよ。
菜の花と草原と海と……風雅と女将さんと、不器用で優しいあの人を。
(了)
花と草原 辛口カレー社長 @karakuchikarei-shachou
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