鏡に映るその『赤』は、嘘をつけない

鏡聖

第1話 スマート・ミラーの朝

 午前七時。

 アラームが鳴る前に、カイは枕元の振動で目を覚ました。寝室のカーテンが自動で開き、20XX年の眩しい朝日が差し込む。

 彼はあくびを噛み殺しながら洗面所へ向かった。

 壁一面を覆う高精細な「スマート・ミラー」の前に立つと、鏡の隅に淡いブルーの文字が浮かび上がる。

『おはようございます、カイさん。診断を開始します。舌を出してください』

 カイは慣れた動作で鏡に向かって舌を突き出した。

 鏡の裏側に仕込まれたマルチスペクトルカメラが、目に見えない波長の光を含めて彼の舌をスキャンしていく。わずか三秒。網膜を焼かない程度の微細なフラッシュが焚かれ、解析が始まった。

「……今日は、少し黄色いな」

 カイは独り言を呟いた。

 鏡には、彼の舌の3Dモデルが展開され、各部位の状態がリアルタイムでテキスト化されていく。


【診断結果:軽度の熱化】

 舌質:紅(こう)

 舌苔:薄黄(はくおう)

 備考:胃熱の兆候あり。昨夜のアルコール、または刺激物の摂取が影響しています。

 推奨:本日の昼食は脂っこいものを避け、大根やキュウリなど、体の熱を逃がす食材を摂取してください。水分補給を1.2倍に増やしてください。


「バレたか……」

 カイは苦笑した。昨夜、深夜まで友人と激辛の火鍋を突きながらビールを飲んだ。

現代の「舌診アルゴリズム」は、個人の嘘を許さない。


 かつて、中国の古い医術において、舌は「内臓を映す鏡」と呼ばれていた。

 血液検査やMRIのような大掛かりな装置がなかった時代、医師たちは舌の色、形、厚み、そしてその上に付着する「苔(たい)」の状態を観察し、驚くべき精度で病を言い当ててきたという。

 それが西洋医学の浸潤と共に、「根拠のない経験則」「非科学的な呪術」として排斥された時期があった。数値化できない職人技は、効率化を求める近代化の波に飲み込まれたのだ。


 しかし、時代は巡った。


 画像認識技術の爆発的な進化と、数千万件に及ぶ歴史的な症例データのディープラーニングにより、かつての「名医の眼」はデジタルとして蘇ったのだ。

今や、舌診は血液検査よりも早く、身体の「未病」――病気になる一歩手前のサイン――を検知する、最も身近なバイオマーカーとなっていた。

 カイは鏡の横に設置されたサプリメント・ディスペンサーから、AIが調合した「今日の自分専用」の漢方カプセルを取り出し、水で飲み込んだ。

「科学が伝統を証明した、か。じいちゃんが見たら、なんて言うかな」

 カイは、かつて中医師としてこの街の片隅で小さな診療所を開いていた祖父のことを思い出した。

 祖父はいつも言っていた。

「舌は嘘をつけない。言葉は人を欺くが、体は正直だ」と。

 当時のカイは、その言葉を古臭い迷信だと聞き流していた。

大学でデータサイエンスを学んだ彼は、むしろ祖父のような「曖昧な診断」を駆逐するために、このスマート・ミラーのアルゴリズム開発に身を投じたのだ。

 だが、開発が進めば進むほど、彼は驚愕することになった。

 AIが導き出す「正解」の多くが、祖父が古い書物に書き残していた「見立て」と、不気味なほどに一致していたからだ。

 出勤の準備を整え、カイが玄関に向かおうとした時、鏡が予期せぬ通知音を鳴らした。

 普段の「アドバイス」とは違う、鋭い警告音。

『緊急通知。センターより共有データあり。プロトコル72を実行してください』

 カイの表情が引き締まった。プロトコル72。それは、AIが「統計学的な異常」を検知し、人間のエンジニアによる直接確認が必要になった時にのみ発動されるコードだった。

 彼は急いでタブレットを開いた。

 そこには、ある匿名のユーザーの舌画像が表示されていた。


 一見、健康そうに見える、ピンク色の舌。


 しかし、解析レイヤーを重ねた瞬間、カイの指が止まった。

「……なんだ、これは」

 舌の裏側、静脈の怒張。そして、舌の縁にある、肉眼では判別できないほどの微細な「歯痕」。

 AIのスコアは、どの既存疾患のカテゴリにも当てはまらない、奇妙な波形を描いていた。

 これが、世界を揺るがす「静かなる異変」の始まりだとは、この時のカイはまだ知る由もなかった。

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