エッグノッグの歌声
遠部右喬
第1話
「いらっしゃいませ」
「――ふぅ。こんばんは」
カウンターでグラスを磨くマスターの穏やかな声と店内の暖かさに息をつく。そわそわとした年末の慌ただしい空気から切り離された店内は、遅めの時間だからか空席が目立つ。
カップルが一組座っているだけのカウンターの隅を陣取り、コートを脱いでいると、
「寒いですね。今日はお一人ですか?」
私の仕事をよく知る言葉に頷きを返すと、キープボトルの並ぶ背後の棚にマスターが腕を伸ばす。私の名札が掛かっているのは、まだ半分ほど中身が残っているアイリッシュウイスキー。マスターの手がそれを取る前に声を掛ける。
「今日は別のを飲みたいんだよね」
マスターが少しだけ驚いた顔で振り返り、微笑む。
「メニューはご覧になります?」
「ううん――『エッグノッグ』って、お願いできます? アルコール抜きの」
「かしこまりました」
エッグノッグは卵を使った冬の飲み物だよ。クリスマスやニューイヤーに飲まれる、甘いカクテルなんだ。子供にはお酒抜きを、大人はラム酒なんかを使うんだ……カウンターに置かれたキャンドルホルダーで揺れる灯りの色に、かつてそう教えてくれた友人の金色の髪を思い出す。
あの頃の私は、大人になったら何でも分かるようになるのだろうと漠然と考えていた。いざ大人と呼ばれる年になってみて分かったのは、世界を知れば知る程、分からないことは増えていくということだ。
私の目には生者も死者も、時には死者以外も同じ様に映る。それは、所謂「普通」とはちょっと違う現象らしいと気付いたのは何時頃だったかな――蝋燭の灯火に心を揺蕩わせていると、
「お待たせしました」
穏やかな湯気を立てている耐熱グラスが置かれた。とろりと黄白色の液体は、微かにスパイスの刺激を漂わせる。
程良い熱を、一口。
シナモンやナツメグの香りと甘味が口に広がる。確かにこれは……寒さを包むような、ほっとする味だ。口元が緩むのが自分でも分かった。
カウンターで談笑していたカップルが立ち上がる。会計を済ませた彼等を見送ったマスターが、
「珍しいですね。大丈夫ですか?」
甘い飲み物が苦手な筈の私のオーダーに注がれたマスターの目には、気遣いと、少しの不安と好奇心が浮かんでいる。
「覚悟していたよりも甘さが控えめで美味しい。偶にはこういうのもいいかも」
私の答えに、マスターが安堵まじりの笑いを浮かべる。
「お気に召してよかったです……それにしても、なんでまたそんな覚悟を?」
「今日の昼間、私にエッグノッグを教えてくれた友人と再会したんで、なんとなくね」
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