きまぐれ隼之丞流雲抄
七川久(ななかわひさし)
第1話 霧の中の怪
深い濃霧が川一面を覆う、白い世界であった。
深川八幡宮の祭をひかえる八月上旬。まだ涼しい朝早く、隅田川に
霧といえば秋の季語であるが、夏にも発生することがある。「夏霧に ぬれてつめたし 白い花」という俳句もあった。この日は神田から深川一帯を濃霧が覆い尽し、五間(約九メートル)むこうも見通しがつかない有様であった。
「磯の字、気をつけてくれよ。霧にまぎれて他の舟にぶつけて
「あっしは
「たのもしいもんだね。さすがは磯の字のとっつあんだ」
猪牙舟は掘川の入口の
「この辺りでいいだろう。
威勢のいい若者とは別に、やけにおっとりした若者の声がした。
「さすが若さまは勘がいい。この辺りなら
磯次は真っ黒に陽に
若い武家の子息と見える青年が、猪牙舟の前側に座り、青イソメを小さく切ったものを
まるで役者のような美形で、おっとりと上品な人柄であったが、れっきとした武家である。彼は
「それじゃあ、あっしも負けじと沙魚釣りに挑んでみますか」
威勢のいい、お喋りな若者も釣り糸を垂れた。こちらは
「なかなかきませんねえ……じれってえや」
猪牙舟の真ん中に座った矢吉は江戸っ子らしく短気で、じっとしているのが苦手なほうだ。舟の
「矢吉、だいたい釣りっていうものはね、待つことが大事なんだよ。石の上にも三年というじゃないか。たとえ
「かあぁ……辛抱だなんていいますけどね、隼之丞さまに限ってだけは、それは言えませんよ。なにせ、若さまは名うてのお天気屋。前の日は、『明日、小石川に行こう』と言っておきながら、朝になると、『やっぱり浅草に行こう』と行き先を変えて、向う途中で『やっぱり今日は天気がよいから向島で桜を見よう』だ、なんて
たしかに隼之丞は気分屋で、「きまぐれ隼之丞」、「きまぐれ若さま」の仇名をもっていた。若侍は苦笑し、
「まあ、そうおいいでないよ。どうせ遊びに行くんだ。その日の気分で変えたっていいじゃないか。第一、お前だって屋敷で下働きをしているより、私のお供で外に出歩いている方が気が楽だといってたじゃないか」
「たはっ、確かにその通りでした。口うるさい御用人さまの指図であちこち掃除したり、馬の世話をしているよりも、若さまのお供で
「それみたことかい」
「けどね、若さま……遊びに行くにしても、悪所通いは駄目ですぜ。あっしはお殿様さまや御用人さまに、隼之丞さまが『博奕や遊女通いにうつつを抜かすようにならないよう、御目付役をせい』って、きつーく言い含められているんですからね」
お殿様とは、隼之丞の兄の
ふわふわと流れ雲のような隼之丞とはちがい、兄の主税はとにかく真面目で、
「兄上も心配性だなあ……まあ、旗本の次男三男といえば、部屋住みの厄介者だからね、中にはやさぐれて悪いことをする者もいるからねえ……」
隼之丞がげんなりした顔をした。旗本の次男、三男は家の跡目を継ぐことができない。いわば当主の兄が病死や俘虜の死を遂げた場合のお控え様である。
なので、武家の次男、三男の中には屈折して悪事に荷担する者もいた。力に任せての無銭飲食、ゆるり、恐喝、乱暴狼藉などを
「そうですよ。若さまの釣りだって、殿様は杉山さまの事件のニの舞になるんじゃないかと、心配しておりやすぜ」
「私はあんな馬鹿な事はしないけどねえ……」
今年の六月始めごろ、小姓組の杉山権之助という、八百石の旗本の三男坊が、同じ部屋住み仲間三人と連れだって、朝から隅田川へ「水練の稽古」へ行った。だがそれは表御向きの名目で、実際は芸者を呼んだどんちゃん騒ぎの宴会をしていた。一日中騒いでいるうちに、その杉山が酔っ払って川に落ちてしまったが、周りも酔っ払って誰も気が付づかなかった。
しかし、後で杉山権之助が溺死してしまったと分かる。しかし仲間たちは届け出をせずに知らんぷりをした。さすがに旗本が亡くなった事件なので、
この事件は評判となり、「舟に酔い 酒がすぎ(杉)山権之助 八百石を川へ進物」との落首が広まってしまった。
「ともかくこの事件のせいで、お殿様も神経質になっておいでですよ」
「ああ、やだやだ……気ままに一人歩きも出来ないなんて……」
隼之丞が愚痴っているのもよそに、落ち着いていられない矢吉があちこちを見ていた。
「おや、ありゃなんですかねぇ?」
隼之丞も目を凝らしていると、次第に朝靄から出てきた黒い影が見えた。白い闇の中から突如出現した黒影は、なんだか薄気味が悪い。彼我の距離が三間と近付いてきたところで、おぼろげに正体が判明する。それは無人の小舟であった。
「うん、誰も乗ってないようだが。磯次、ありゃなんだと思うかい?」
「ありゃ、どこかの小舟の
「磯次、誰か乗ってないか、もっと側へ
「へい、でも、若さま。いいんですかい、釣りの方は……」
「なに、釣りはいつでもできるさ……ほんの気まぐれだよ。調べてみようじゃないか」
「また、隼之丞さまの気まぐれが始まったよ……まあ、あっしも、じってしているよりは面白そうだ。寄せてくれよ、磯次さん、舟を無くした者は大変だろう。同じ舟を預かる者として、小舟を
「さいですか……」
磯次は櫂をたくみに動かして、流れ舟に近付けた。
「ぶつけるなよ、磯の字のとっつあん」
「誰にいってるんでい、おいらはこの道二十五年の玄人だぜ」
「わかってますよ。軽口でも叩かないと、薄気味が悪くてね……」
小舟の中には
「隼之丞さま、筵から何か白い物が出ていやすぜ……ありゃ、人間の足じゃねえですかい!?」
「なんだって!?」
隼之丞も目を凝らすと、筵から突き出たものは、確かに真っ白な人間の素足に見えた。
「ま、まさか
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