きまぐれ隼之丞流雲抄

七川久(ななかわひさし)

第1話 霧の中の怪

 

 深い濃霧が川一面を覆う、白い世界であった。

 深川八幡宮の祭をひかえる八月上旬。まだ涼しい朝早く、隅田川に一艘いっそう猪牙舟ちょきぶねがあった。

 霧といえば秋の季語であるが、夏にも発生することがある。「夏霧に ぬれてつめたし 白い花」という俳句もあった。この日は神田から深川一帯を濃霧が覆い尽し、五間(約九メートル)むこうも見通しがつかない有様であった。

「磯の字、気をつけてくれよ。霧にまぎれて他の舟にぶつけて転覆てんぷくなんてのはご免だぜ」

「あっしはかいをにぎって二十五年の船頭ですぜ。この辺りはあっしの庭先でさ。これくらいの霧で他の舟にぶつかるようじゃあ、船頭稼業は隠退しまさあ」

「たのもしいもんだね。さすがは磯の字のとっつあんだ」

 猪牙舟は掘川の入口の汽水域きすいいきあたりにやってきたとき、

「この辺りでいいだろう。磯次いそじ、舟をとめてくれないかい」

 威勢のいい若者とは別に、やけにおっとりした若者の声がした。

「さすが若さまは勘がいい。この辺りなら沙魚はぜがたんとれますぜ」

 磯次は真っ黒に陽にけた四十がらみで、丸に巴の字の入った印半纏に股引、手ぬぐいで頬っかむりをした男である。船宿「巴屋ともえや」の船頭で、魚の釣り場などにくわしい。

 若い武家の子息と見える青年が、猪牙舟の前側に座り、青イソメを小さく切ったものをえさにして、釣り糸を垂れた。青年武家は、紺色の縦縞の単衣ひとえを着流し、白皙はくせで、切れ長の双眸ひとみ、鼻筋の通った端正な顔貌おもてをしていた。

 まるで役者のような美形で、おっとりと上品な人柄であったが、れっきとした武家である。彼は結城隼之丞ゆうきはやのじょうといい、旗本千五百石の、結城家の次男であった。数え年で十八歳となる。

「それじゃあ、あっしも負けじと沙魚釣りに挑んでみますか」

 威勢のいい、お喋りな若者も釣り糸を垂れた。こちらは中間ちゅうげん矢吉やきちといい、浅黒い肌で痩せた男で、今年で二十五歳になる。しばし待つが、なかなか当たりがこない。

「なかなかきませんねえ……じれってえや」

 猪牙舟の真ん中に座った矢吉は江戸っ子らしく短気で、じっとしているのが苦手なほうだ。舟のともの方で、船頭の磯次は煙管きせるをくゆらせていた。

「矢吉、だいたい釣りっていうものはね、待つことが大事なんだよ。石の上にも三年というじゃないか。たとえつらくても、辛抱しんぼう強くがんばっていたら、やがて報われるということだよ」

「かあぁ……辛抱だなんていいますけどね、隼之丞さまに限ってだけは、それは言えませんよ。なにせ、若さまは名うてのお天気屋。前の日は、『明日、小石川に行こう』と言っておきながら、朝になると、『やっぱり浅草に行こう』と行き先を変えて、向う途中で『やっぱり今日は天気がよいから向島で桜を見よう』だ、なんて朝令暮改ちょうれいぼかいもいい所じゃないですか」

 たしかに隼之丞は気分屋で、「きまぐれ隼之丞」、「きまぐれ若さま」の仇名をもっていた。若侍は苦笑し、

「まあ、そうおいいでないよ。どうせ遊びに行くんだ。その日の気分で変えたっていいじゃないか。第一、お前だって屋敷で下働きをしているより、私のお供で外に出歩いている方が気が楽だといってたじゃないか」

「たはっ、確かにその通りでした。口うるさい御用人さまの指図であちこち掃除したり、馬の世話をしているよりも、若さまのお供で東奔西走とうほうせいほんしている方が、よっぽど気が楽でござんした」

「それみたことかい」

「けどね、若さま……遊びに行くにしても、悪所通いは駄目ですぜ。あっしはお殿様さまや御用人さまに、隼之丞さまが『博奕や遊女通いにうつつを抜かすようにならないよう、御目付役をせい』って、きつーく言い含められているんですからね」

 お殿様とは、隼之丞の兄の結城主税ゆうきちからのことだ。十歳年上で、大番士を務めている。これは、江戸城および幕府要地の警護を担当する役目で、西ノ丸・二ノ丸御殿警備を担当していた。また廻り番として江戸市中の巡回警備も行った。

 ふわふわと流れ雲のような隼之丞とはちがい、兄の主税はとにかく真面目で、謹厳実直きんげんじっちょくを絵に描いたような堅物であった。

「兄上も心配性だなあ……まあ、旗本の次男三男といえば、部屋住みの厄介者だからね、中にはやさぐれて悪いことをする者もいるからねえ……」

 隼之丞がげんなりした顔をした。旗本の次男、三男は家の跡目を継ぐことができない。いわば当主の兄が病死や俘虜の死を遂げた場合のお控え様である。

 なので、武家の次男、三男の中には屈折して悪事に荷担する者もいた。力に任せての無銭飲食、ゆるり、恐喝、乱暴狼藉などを真昼間まっぴるまからやってのける徒者いたずらものもいた。

「そうですよ。若さまの釣りだって、殿様は杉山さまの事件のニの舞になるんじゃないかと、心配しておりやすぜ」

「私はあんな馬鹿な事はしないけどねえ……」

 今年の六月始めごろ、小姓組の杉山権之助という、八百石の旗本の三男坊が、同じ部屋住み仲間三人と連れだって、朝から隅田川へ「水練の稽古」へ行った。だがそれは表御向きの名目で、実際は芸者を呼んだどんちゃん騒ぎの宴会をしていた。一日中騒いでいるうちに、その杉山が酔っ払って川に落ちてしまったが、周りも酔っ払って誰も気が付づかなかった。

 しかし、後で杉山権之助が溺死してしまったと分かる。しかし仲間たちは届け出をせずに知らんぷりをした。さすがに旗本が亡くなった事件なので、目付筋めつけすじが徹底的に取り調べをした結果、事実が判明し、杉山家は改易となった。届出をしなかった他の仲間たちも士籍剥奪となった。

 この事件は評判となり、「舟に酔い 酒がすぎ(杉)山権之助 八百石を川へ進物」との落首が広まってしまった。

「ともかくこの事件のせいで、お殿様も神経質になっておいでですよ」

「ああ、やだやだ……気ままに一人歩きも出来ないなんて……」

 隼之丞が愚痴っているのもよそに、落ち着いていられない矢吉があちこちを見ていた。朝靄もやをかき分け、上流の方から何かがやってくるのを見つけた。

「おや、ありゃなんですかねぇ?」

 隼之丞も目を凝らしていると、次第に朝靄から出てきた黒い影が見えた。白い闇の中から突如出現した黒影は、なんだか薄気味が悪い。彼我の距離が三間と近付いてきたところで、おぼろげに正体が判明する。それは無人の小舟であった。

「うん、誰も乗ってないようだが。磯次、ありゃなんだと思うかい?」

「ありゃ、どこかの小舟のもやい方が甘くて、川に流れちまったかもしれやせんねぇ……」

「磯次、誰か乗ってないか、もっと側へぎよせて、調べてみようじゃないか」

「へい、でも、若さま。いいんですかい、釣りの方は……」

「なに、釣りはいつでもできるさ……ほんの気まぐれだよ。調べてみようじゃないか」

「また、隼之丞さまの気まぐれが始まったよ……まあ、あっしも、じってしているよりは面白そうだ。寄せてくれよ、磯次さん、舟を無くした者は大変だろう。同じ舟を預かる者として、小舟を曳航えいこうして巴屋であずかってやんなよ」

「さいですか……」

 磯次は櫂をたくみに動かして、流れ舟に近付けた。

「ぶつけるなよ、磯の字のとっつあん」

「誰にいってるんでい、おいらはこの道二十五年の玄人だぜ」

「わかってますよ。軽口でも叩かないと、薄気味が悪くてね……」

 小舟の中にはむしろが覆っていた。小舟をじっと見ていた矢吉がぎょっとして指を指し示した。

「隼之丞さま、筵から何か白い物が出ていやすぜ……ありゃ、人間の足じゃねえですかい!?」

「なんだって!?」

 隼之丞も目を凝らすと、筵から突き出たものは、確かに真っ白な人間の素足に見えた。

「ま、まさか屍体おろくじゃねえでしょうね!?」



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る