神よ、なぜ君は私の隣に座っているんだ?
エラー・ハンドラー
第1章 別れ (大幅改訂)
健一の喉は、物理的な異物が詰まったかのように凍りついていた。 視界の端で、見慣れたはずの街並みが歪み、色彩を失っていく。その中心にいたのは、十数年の歳月を家族同然に、あるいはそれ以上の密度で共にしてきた幼馴染・早紀と、彼の知らない「拒絶」の形だった。
「……早紀?」
掠れた問いかけは、冬の気配を孕んだ夜気の中に、あまりにも無力に霧散した。 彼女は、見知らぬ男の腕に静かにその身を委ねていた。その距離感、その寄り添い方。男に向けられた潤んだ瞳。それらすべてが、健一が人生をかけて積み上げてきた「自分こそが彼女に最も近い存在である」という自負を、あまりにも容易く、音を立てて粉砕した。
「健一、ごめんね。……好きな人が、できたの」
早紀の唇から溢れたのは、一切の迷いがない、平坦で慈悲のない宣告だった。 健一が知っている早紀なら、こんな時、申し訳なさに眉を寄せたり、涙を浮かべたりするはずだった。しかし、今の彼女の瞳に宿っているのは、隣に立つ男への絶対的な帰依と、健一という「過去の遺物」に対する、薄氷のような冷淡さだけだ。
隣に立つ男は、一言も発しない。ただ、勝利者の静かな余裕を湛えて、健一の混乱を見下ろしていた。その沈黙は、健一がこれまで彼女に捧げてきた時間や言葉が、この男がもたらした「何か」の前では一分一秒たりとも価値を持たないのだという残酷な事実を突きつけていた。
「じゃあね」
早紀はそれだけを残し、背を向けた。 その足取りには、過去への未練も、幼馴染の心を切り裂いたという負い目すら見当たらない。凛として、ただひたすらに前だけを見据えた歩み。 「待ってくれ! 早紀、どうして……説明してくれ!」
健一の叫びは、虚無に響く。 彼女の長い黒髪が夜風にたなびき、その先が冷たく彼を拒絶するように翻った。 その瞬間、健一の中で「世界」が死んだ。 自分の一部だと信じていた絆が、得体の知れない他者の介入によって、こうも容易く、無残に上書きされてしまう。人間という生き物の、あまりに脆く不確かな「心」というシステムのバグを、彼は逃れようのない現実として突きつけられていた。
それからの健一の生活は、死人と大差なかった。 食事の味はせず、眠りに落ちればあの夜の、自分を認識すらしていない早紀の冷え切った瞳がリフレイドされる。 しかし、その底知れぬ空洞を埋めるために彼が選んだのは、皮肉にも、最も対極にある「論理」への逃避だった。
理解不能な「心」の移ろい、予測不能な裏切り。それらをすべて数式とアルゴリズムで解明し、制御可能なものへと置き換えたい。その狂気じみた飢餓感だけが、彼をアメリカへと突き動かした。
5年の月日が流れた。 アメリカの大学院に飛び級で進学した健一は、今やAI研究の最前線で「怪物」と称されるほどの成果を上げている。 周囲の人間は、彼の寝食を忘れた没頭ぶりを「真理への探求心」だと称賛したが、その実態は、あの日止まってしまった心を動かし続けるための、代償行為に過ぎなかった。
彼の研究室のモニターには、24時間、絶え間なく膨大なデータが流れ続けている。 複雑なニューラルネットワークを構築し、人間の感情という「不確定要素」を排除した完璧な知能を追い求める。その作業に没頭している間だけは、あの夜の、自分を捨てて去っていった黒髪の残像を消し去ることができた。
だが、どれほど画期的な論文を発表し、世界の権威から賞賛を浴びても、彼の内側に空いた巨大な穴が塞がることはなかった。 むしろ、AIが「人間の知能」に近づけば近づくほど、彼は一つの絶望的な問いに突き当たる。
これほど高度な演算処理を用い、何十億ものパラメータを調整しても、なぜ、あの時、早紀の心があっけなく他者のものへと塗り替えられたのか。その「論理」だけが、どうしても導き出せないのだ。
「……結局、観測できない変数が多すぎるのか」
深夜の研究室、青白いモニターの光に照らされながら、健一は自嘲気味に呟く。 彼が手にしている名声も、富も、技術も、あの夜に失った「誰かを無条件に信じる根拠」を奪い返してはくれない。 「日本から来た天才」という仮面を被りながら、健一は今も、冷徹なコードの羅列の中に、自分を裏切ることのない「完璧な早紀」の幻影を追い求め続けていた。
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