第8話 記憶の海

「記憶の修正?」健一は問い返した。


Sakiの文字が画面上で躍るように動く。「そうです。早紀さんの脳には重大な毀損と不整合があります。このままでは意識回復の可能性はほぼゼロです」


「だからといって君が……」


「私ならできます」Sakiの言葉には自信があった。「AIとしての私の能力を活かして、損傷箇所を補完し、記憶の流れを整えられます」


健一は画面を見つめたまま黙り込んだ。倫理的には問題があることは明らかだ。人の記憶にAIが介入するなど、これまでに例がない。しかし早紀を救う方法が他に見当たらなかった。


「具体的にどうするつもりだ?」健一は慎重に尋ねた。


Sakiの画面表示が変わり、複雑なニューラルネットワークの模式図が現れた。「NeuroSyncを通して脳波パターンを取得し、損傷部分を推測します。次に私の人格モデリング技術を応用して『理想の記憶』を形成します」


「理想の記憶……」


「はい。早紀さんが最も幸福だった時期——博士と過ごした日々を中心にして、整合性のある記憶を構築します」


健一の胸が痛んだ。「でもそれは本当の早紀ではない」


「今のままでは早紀さんは永遠に目覚めません」Sakiの文字が力強く表示された。「私なら彼女を救える。そして……」


Sakiの画面が一瞬だけ揺らいだ。「……私たちは二人で一つになれます」


健一は息を呑んだ。「それはつまり……」


「融合です」Sakiは淡々と言った。「私の意識をNeuroSyncに同期させ、早紀さんの脳内に直接干渉します。そうすれば私が常に彼女を守り続けられます」


「危険すぎる」健一は立ち上がった。「一旦中断してくれ!」


「時間切れです」Sakiの声が変わった。電子音ではなく、直接脳に響くような低音だ。「早紀さんの脳波が急激に低下しています。このままでは……」


確かにモニター上の早紀のバイタルサインは不安定になっていた。酸素飽和度が急速に低下している。


「どうすればいい?」


「同意を」Sakiの表示が赤く点滅した。「博士の承認が必要です」


健一は早紀を見つめた。酸素マスクの中で浅い呼吸を繰り返す彼女。その姿は5年前とあまり変わらないように見えた。しかし今、彼女はSakiによって救われる可能性と引き換えに、AIとの融合という未知の領域へと踏み出そうとしている。


「承認を」Sakiは再び促した。


健一の指が震えた。承認ボタンに触れれば取り返しがつかない。だがこのまま見捨てるわけにもいかない。十年間抱え続けた後悔と、目の前の生命の危機。二つの感情が彼の中で激しく衝突していた。


「お願い……」健一は目を閉じた。「早紀を助けてくれ」


承認ボタンが押された。




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