スピッター ~The Spitter

@aizenmaiden

第一章 怪事件

 世は泰平、人々は平和を享受し、繁栄を実感し、その下で自らの人生を楽しみ、味わう。世間は楽しみに満ち、人々は世間との関わりを通して喜びや幸福を実感し、交歓を通して幸福を高め合う。喜びは人の心を穏やかに、寛容にし、平和がもたらした喜びがさらなる平和をもたらす。


 しかしそんな穏やかで賑やかな泰平の世の環境にはそちこちにほころびも見られた。誰もがそのような世の交歓の輪に加われるわけではなく、幸福や繁栄を享受できるわけでもない。世の中全体が平和と繁栄に覆われているわけではないのだ。


 そのほころびの向こうではしばしば平穏な生活を送る者には想像もつかぬほどの混沌が蠢く。そして混沌はときにぽっかりとその口を開き、浮世を楽しむ人々に手を伸ばし、あるいは招き寄せる。それに絡め取られてしまった者はその恐るべき深淵を目の当たりにし、自分が暮らしている世界と隣合わせに想像を絶する領域が存在している現実を突きつけられることになる。


 望まずして追いやられ、あるいは不用意にその領域に足を踏み入れてしまった者たち。彼らの中には無事に戻って来られる者もいれば、破滅する者もいる。そしてそのまま混沌の住人になってしまう者も。いずれにせよ、その深淵に足を踏み入れ、混沌を目の当たりにした者はそれまでの価値観を大きく揺さぶれる経験をすることになるだろう。


 そんな機会は思いがけないほど身近に潜んでいることもあり、ふとしたきっかけで遭遇する可能性もある。


 そう、誰もがそのきっかけと出会う可能性を秘めながら日々生きているのだ。



 一 怪事件



 この頃、城下で奇怪かつ凄惨な事件が繰り返し起こっていた。町中の通りを歩いているとすれ違いざまに顔に唾を吐きかけられる事件だ。しかもそれは単に不潔、不快で済む話ではなかった。吐きかけられるなりその場所に焼け付く痛みが走り、唾液を拭い、洗い落とした後も焼けただれたような痕が残ってしまうという恐ろしさ。


 加えて、被害に合う者はみなことごとく器量良しの評判を得ている男女ばかり。恵まれた容姿を持ち、その評判を誇りにしている者にとってそれが大きく損なわれることは想像を絶する苦痛が伴うもの、被害に遭った者たちはみな失ってしまったものに慟哭し、人に会うことはおろか、自らの顔を見ることすら拒んで人目を徹底的に避ける生活を余儀なくされていた。


 ゆえにこの事件は人々から恐れられ、とりわけ器量良しの評判を持つ者、あるいは自分を器量良しだと自負している者、さらに器量良しの娘、息子を持つ親たちを震え上がらせていた。


 町中で、しかもすれ違いざまに唾を吐きかけるとなれば下手人は容易に捕まえられそうなものだ。しかし実際には簡単にはいかなかった。そもそも町中ですれ違う赤の他人の様子を気に掛けることは滅多にないものだし、すれ違いざまに唾を吐きかけてそのまま人の波にまぎれてしまえば下手人の特定も難しい。唾を吐きかけられた者が苦痛に悲鳴を上げてから周囲を見回したところで手遅れ、というわけだ。


 しかも下手人はかなり神出鬼没らしい。直前まで怪しい素振りは一切見せず、標的の眼前にまで達するといきなり唾を吐きかける。しかも事を終えると速やかに、しかし人目を引くことなくその場から離れ人の流れに紛れて消えてしまう。被害者が悲鳴を上げて周囲の人達が注意を向けたときにはすでにその姿はない。まるで熟練のスリの手口を思わせる。


 さらに被害者の顔ぶれには器量良しな点のほかに何ら共通点は見られなかった。個人的な怨恨や利害の対立、人間関係のもつれといった動機がまったく見られず、まさに器量良しへの嫉妬や恨みの念だけで相手構わず見境なしに唾を吐きかけているように思われる。


 そもそも吐きかけられているものは本当に唾なのか? という根本的な疑問もあった。普通、唾を吐きかけられたところで焼け付く痛みが走ったり、焼けただれた無惨な痕が残るようなことはない。唾を吐きかけているように見せかけて何かの薬品を浴びせているのでは? との意見もあったが、被害者はみな口を揃えてそうではない、唾を吐きかけられたとしか思えないと主張するのだった。


 それでも被害者の目撃情報を元に下手人像をある程度絞り込むことができていた。身の丈は5尺には達していないだろう、服装から判断する限り女性らしい。顔は被衣で半ば隠されており、標的に近づくとその被衣を少しまくり上げて唾を吐きかけるというのだ。被害者は眼前の相手の顔をしっかりと確認する間もなく吐きかけられた唾に視界を奪われ、激痛に襲われるゆえに口元くらいしか覚えていないのだ。


 顔を特徴を掴めていないとはいえ、これくらい条件が絞り込めていれば通りを歩く人々の中から怪しい人物を見つけ出すこともできそうなものだし、条件を満たす人物とすれ違う時には注意することもできそうなものだ。実際に事件が繰り返されていく過程で人々の詮索の目が光るようになっていたのだが、それでも事件は起こり続けた。下手人の神出鬼没は立ち去るときだけに留まらず現れるときにも発揮されていたのだ。いずからともなく現れて標的に唾を吐きかけ、いずこへともなく消えていく。人の肌を灼く唾を吐きかける謎の人物。そんな下手人像は人々の恐怖だけでなく好奇心も掻き立てることになり、町奉行による詮索がなかなか思うように進まない状況において城下で格好の話題の種になっている面もあった。


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