―プロローグー②
ある日の朝。
朝日が薄いカーテン越しに差し込み、部屋の中をぼんやりとオレンジ色に染めていた。
桜はベッドの中でごろりと寝返りを打つ。まどろみの中で、どこか遠くからテレビの音が聞こえてくる。
「……ニュースをお伝えします。本日、沈没から―…年を迎えるミズーリについて……」
遠くから聞こえるニュースの音で目覚めた桜はゆっくりとまぶたを開いた。
ぼんやりとした頭のまま、寝ぼけ眼で枕元の目覚まし時計を見る。朝の七時。
いつも通りの時間。
「……ミズーリは日本軍のアメリカ本土侵攻時に沈没して以降、多くの研究者によって調査が続けられており……」
桜は布団の中からもぞもぞと抜け出し、テレビの前に移動する。父が新聞を広げながらニュースを見ていた。
「お父さん、アメリカにこんなに大きな沈没船があるんだね。神秘的でかっこいいなあ」
桜がつぶやくと、父は新聞をめくる手を止め、ちらりと桜を見た。
「なんだ、知らなかったのか。有名だぞ、沈没艦ミズーリは。今日が沈没した記念日みたいだな」
「へー……そうなんだ」
特に気にせずテレビに目を戻す。浅瀬に沈む巨大な船の映像が流れている。
その姿は、まるで海の底で永遠の眠りについているかのようだった。
父は新聞を閉じ、立ち上がると軽く伸びをした。
「それより、明日は広島へ旅行だぞ。準備しておくようにな」
「うん、わかってる」
桜は適当に返事をしながら、ニュースの映像をじっと見つめた。
広島行きの新幹線の車内は観光客でにぎわっていた。
窓の外を眺めると、建物が次々と後ろへ流れていく。桜はぼんやりとスマホを弄りながら、父の話を聞き流していた。
「姫路城もいいが、広島城もかっこいいなあ」
父がガイドブックを広げながら、満足そうに頷いている。
――またお城の話か。
父は筋金入りの城マニアで、旅行先では必ずその土地のお城を訪れる。
姫路城、松本城、熊本城……どれも立派なのは分かるけれど、桜には全部同じに見えてしまう。
「へー、そうだねー?」
適当に相槌を打つと、父は「分かってないなぁ」というような顔で本を指さす。
「広島城は『鯉城(りじょう)』とも呼ばれていてな……」
話が長くなりそうだったので、桜は再び窓の外に視線を向けた。
新幹線は山間を抜け、広島の市街地へと入っていく。
高層ビルが立ち並び、人々が行き交う様子が見える。
広島駅に到着すると、桜たちは人混みの中を歩きながら、観光名所へ向かう。
広島の街は、活気に満ちていた。
道を歩けば、お好み焼きの店から漂う香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
観光客がカメラを片手に歩き、外国語の会話もちらほら聞こえる。
桜たちはまず広島城へ向かった。
父は夢中になって城の構造や歴史について語っていたが、桜は正直、それほど興味がなかった。
「次は原爆ドームだね、楽しみ!」
何気なく言った言葉に、父が一瞬、きょとんとした顔をした。
「……? そうだな!」
その時は深く考えなかった。ただの気のせいか、父のリアクションが少し変だっただけだと思っていた。
原爆ドーム――
駅を降り、観光地へと足を運ぶ。青空の下、広場には観光客がたくさんいて、みんな写真を撮ったりしていた。
遠くに見える建物のシルエットを見て、桜は思わず足を止めた。
「……あれ?」
桜の記憶にある原爆ドームとは、どこか違う。
もっと廃墟のように崩れかけた姿だったはず。
でも、目の前にある建物はしっかりとした姿を保っていた。
「おかしいな……原爆ドームって、こんなに綺麗に建ってたっけ?」
桜がつぶやくと、父はまた奇妙な顔をした。
「原爆ドーム? さっきから名前が違うぞ、ここは広島博物館だ」
「え? だって、ここは原爆ドーム……原爆が落ちて、建物が壊れた……」
桜の言葉に、父は困惑したように笑いながら首を振った。
「さっきからおかしなことを言うなぁ。 原爆を使ったのは日本で、被害を受けたのはアメリカだろ?」
――え?
頭が真っ白になる。
まるで世界が、一瞬にして音を失ったかのような感覚。
耳鳴りがする、鼓動が早くなる。
桜は必死に目の前の建物を見つめる。何かの間違い、記憶違い、そう思いたいのに――
でも、違う。これは確実に"何かが違う"。
「うそ……」
声が震える、世界が、桜の知っている世界じゃなくなっていく。
遠くでカメラのシャッター音が聞こえる。
視界が、色を失っていく――。
日を追うごとに、桜の知る世界は目まぐるしく変わっていった。
最初は、小さな違和感だった。
出席番号のズレ、担任の先生の変化――それらが偶然の重なりなのか、自分の記憶違いなのか判断できずにいた。
でも、違和感は日を追うごとに大きくなり、気づけば桜の知る世界はどんどん変わっていった――。
桜は黙々と穴を掘っていた。
夕方とも夜明けともつかない曖昧な光の中、スコップの金属音だけが乾いた空気を打つ。
まるで人形のように、表情のない顔で、ただ機械的にシャベルを振り下ろす。
やがて、ようやく大人ひとりが横たわれるほどの大きな穴ができる。
桜は、腐敗の進んだ父の遺体を見つめた。
異臭が風に乗って広がるたびに、胸が締めつけられるようだった。
もう何日泣き続けたのか、わからなかった。
目の周囲と頬は赤く腫れ、皮膚が突っ張る感覚だけがかろうじて残っている。
それでも、痛みも痒みも、もう感じなかった。涙さえもう流れない。
やがて桜は、父の体をそっと穴の中に寝かせた。
土をすくい、またすくい――音を立てて、父の姿を覆い隠していく。
最後のひとすくいを落とし終えたとき、膝から力が抜け、地面に手をついた。
一人残された桜は、足を引きずりながら荒れ果てた道を進む。
アスファルトはひび割れ、雑草が割れ目から顔をのぞかせている。かつて整然と並んでいた街並みは、今や瓦礫と化し、見る影もなく崩れ去っていた。
遠くからは銃声と砲撃音が絶え間なく響き、耳の奥を打つ。すぐそばでは、子供が泣き叫ぶ声や、大人たちが必死に呼びかける声が混じり合い、不安と絶望のざわめきとなって街を覆っていた。
通りには避難する人々が列をなして進み、背負った荷物が重そうに揺れている。路地の隅には、冷たくなった亡骸が布にも包まれず横たわる。
焦げたビルの残骸が黒々と空に突き出し、窓という窓は砕け落ちている。
乾いた血の跡が壁に黒くこびりつき、風が吹くたびに、粉々になった瓦礫や紙くずのようなものが地面を転がる。そのかさり、かさりという音が、やけに耳に残る。
気づけば、桜は大きな神社の前に立っていた。
いつの間にここまで来たのか、分からなかった。
桜は膝をつき、震える手で神社の柱に触れた。
ここだけは変わらず、以前のままだった。
「……世の中が変化し続けています」
声がかすれる。喉が痛い。
「なぜなのかは分かりません。理由なんてどうでもいい……」
涙が滲む。
「どうか……元通りにしてください。お願いします……」
桜は最後の力を振り絞り、祈った。
「……お願い……します……」
意識が遠のく。
バタッ――
倒れた桜を、眩い光が包んだ。
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赤松天翔物語① 姫笠 @2982532
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