影の行方を照らす光

@pappajime

影の行方を照らす光

【前書き】

長いあいだ公務員として働いてきた。

私は窓口業務に就いたことはないが、行政の現場に身を置く中で、

人々の声や沈黙がどのように制度の隙間に吸い込まれていくのかを、

折に触れて見つめてきた。

また、父は中小企業で働き、

その背中には、言葉にならない疲労や誇りが刻まれていた。

その姿は、私の中で「働く者の影」として長く残っている。

この詩は、私自身の職務経験を直接描いたものではなく、

父の労働の記憶や、行政という場所で感じてきた空気を素材に、

ひとつの風景として再構成したものである。

読んでくださる方の中にも、

どこかで似た光景が立ち上がることを願っている。


赤城 一

令和七年 冬



【本文】

夜明け前の庁舎は、静止した箱のようだった。

薄闇の中で、机の縁だけが鈍く光り、

昨日の相談が、まだ空気の底に沈んでいる気配があった。

私は、無人の椅子を整えながら、

そこに残された体温の行方を測りかねていた。

座面は、長年の重みを吸い込み、

背筋の歪みを黙って受け止めてきた。

軋む音は、誰の耳にも届かず、

紙束の陰に吸い込まれていく。

朝の光が、厚いガラスを透けて差し込む。

白い筋は、番号札の束を照らすだけで、

生活の輪郭には触れない。

札は、名も持たず、ただ積み重なる。

私は、若い頃の自分を思い返していた。

十代でこの仕事に就き、

窓口の向こうに立つ人々の影を、

ただ受け止めるだけの日々が続いた。

声の震えも、沈黙の重さも、

記録には残らないまま過ぎていった。

その頃、父は工場で働いていた。

油の匂いをまとった背中は、

帰宅しても言葉を持たず、

沈黙だけが家の隅に積もっていった。

あの沈黙は、誰にも説明されなかった。

父の勤め先は、すでに姿を消した。

跡地には新しい建物が立ち、

かつての騒音も、鉄の熱も、

冬の地面に吸い込まれたままだ。

雪が降ると、その痕跡は完全に覆われる。

雪は、街の音を奪う。

音のない場所で、

人だけが、なお働き続ける。

働く者の影は、

誰にも気づかれないまま伸びていく。

私は、窓口の椅子に触れた。

冷たさの奥に、

微かな温もりが沈んでいた。

それが、昨日の来訪者のものか、

若い頃の私自身の残滓か、

確かめる術はない。

ただ、

窓口を渡る光だけが、

今日も、

名を持たない影を受け止めている。


【後記】

私は公務員として長く働いてきたが、

窓口に立った経験はない。

しかし、行政の内部にいると、

制度の向こう側にいる人々の影が、

ときに強く、ときにかすかに揺れて見える瞬間がある。

また、父が中小企業で働いていた頃の記憶は、

私にとって「労働とは何か」を考える原点となった。

工場の匂い、沈黙の重さ、

そして、消えていった場所の痕跡。

それらは、私の中で長く沈殿し、

この詩の底に流れる気配となった。

この作品は、私自身の体験をそのまま描いたものではなく、

見聞きした断片や、家族の記憶を組み合わせて生まれた創作である。

それでも、働く者の影がどこかで響くことを願っている。







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