『猫の怨返し』

しんTAKA

『猫の怨返し』  作・Thomas F Knitter(しんTAKA)

男は焦っていた。
夜九時。彼女との約束の時間は、もう過ぎている。
この時間では、もう彼女は待ち合わせ場所にいないかもしれない。

男は縋るような思いで、通りかかったタクシーに飛び乗った。



「どちらまで?」



間の抜けた運転手の声がもどかしい。



「急いでるんだ。悪いが、飛ばしてくれないか」


「……わかりました。大急ぎで行かせてもらいます」


無愛想で機械的な低い声とともに、タクシーは夜の街へ滑り出した。
ジャケットのポケットには、彼女へのプレゼント――指輪の小箱。
今夜、プロポーズするつもりだった。

窓の外、街の明かりが色とりどりに過ぎていく。
しかしその景色は焦燥感を煽るだけで、男の心を落ち着けはしない。


――その時だった。
ガツッ――!
鈍い衝撃とともに、頭上を飛び越えていく女の悲鳴。
男は弾かれたように辺りを見回した。
リアウインドウの向こう、白いワンピースの女性が、スローモーションのように宙を舞い、遠ざかっていく。

事故だ。この運転手、人をはねやがった。
しかし車は一向に止まらず、夜の闇を突き進む。


「おい、今、人をはねたぞ!」


「ハイ、わかってますよ」


「止まれ! 警察か救急車を呼ばなきゃ!」


怒声を遮るように低い声が返る。



「だってお客さん、急いでるんでしょ?」


逆上した男は運転手の肩を強く揺さぶる。



「そんな場合か! 引き返せ!」


運転手は笑った。



「あれぇ、おかしいなぁ、お客さん。私を轢いたときは、そんなこと言わなかったじゃないですか」


「……お前を轢いた?」


「そうです、ちょうど一年前の夜。覚えていませんか?」


ゆっくりと振り向いた運転手。
その顔は、白地に右目の周りだけが黒い毛で覆われた「猫」だった。
ギラリと光る青い目に、男は覚えがあった。


―― 一年前、彼女の誕生日の夜。
男は約束に急ぎながら、路上で一匹の猫をはねた。
(どうせ猫だ)
そう思い、そのまま走り去ったのだった。

しかし今、あの青い瞳が目の前にある。



「やっと思い出していただけましたね。あなたが私を放置したせいで、この額はいまだに血が止まらないんですよ」


猫が帽子を取り、額の傷から鮮血が滴り落ちる。


「オ、オレをどうしようって言うんだ!」


「殺したりはしませんよ。それより、もっと『いいこと』があります」



猫は口角を歪めて残酷に笑った。


「今、轢いたのはあなたの彼女です……もう、助からないでしょうね」


後ろを振り返ると、暗闇だけが広がっていた。



「引き返せ!」



前を見ると、猫の声が追い打ちをかける。



「あなたが、彼女を殺したんですよ」

「何言ってるんだ! オレは運転していない!」


「ええ? これはあなたの車。ほら、フロントガラスに血もついている。……そして、あなたがハンドルを握っている」


気づくと、男は運転席に座っていた。
スピードメーターの針は異常な速度を示す。



「フフフ、人殺し、人殺し、人殺し……」



猫の声が浮かんでは消える。
フロントガラスを三本の血の帯が流れ落ちた。


「ウソだ、やめろ!」



狂ったようにアクセルを踏んだ瞬間、視界は白光に包まれた。


ドォォンッ――衝撃が全身を貫く。


そこは交番だった。薄れる意識の中、警官の顔がぼんやり見えた。



「しっかりしろ!」


――半年後。

男は殺人、死体遺棄、建造物損壊の容疑で法廷に立っていた。
額には、あの猫に爪で引き裂かれたかのような三本の深い傷が、醜く刻まれていた。


(終)

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